Gimliのオルサンク語解読事始

世に蔓延するまやかしオルサンク語文献を解読します。あやしいコトバの魔力にまどわされないために。

気をつけよう、あまいコトバと暗い道:『ニート』その4

2005-01-29 | 批判的ブックレビュー
 玄田有史・曲沼美穂著『ニート』のまやかし言語は、いよいよクライマックスを迎える。玄田氏はここで、切り札を切る。「東京大学助教授」という切り札だ。とはいえ、東大の権威を振りかざしたりはしない。声を荒げては、狼であることがばれてしまう。だから、かぼそい優しげな声で語りかけるのだ、「ボクだって、君たちと同じだ」、と。

 <だれでもみんな>は<私をのぞく>
 玄田氏はニートというカテゴリーの境界が曖昧かつ拡張可能であることをしきりに強調する。

“どんな人にも、ニートとなる可能性があるのだ”(p.11)
“だれでもニートになる可能性がある”(p.28)
“誰もがニートになるかもしれない”(p.235、第6章タイトル)
“自分も一歩まちがえば、ニートだったかもしれない”(p.244)(注:玄田氏によれば、ニートってやっぱり「まちがってしまった」人なんだね。)
“ニートだけじゃない。誰もが穴を持っている”(p.246)

これによって、玄田氏はまず、「レッテル張りによって、排除や差別を助長する」という非難をかわす。ボクはあの人たちをひとくくりにして、特別視しようとしてるのではないんです、これは、あなたの、ボクの、私たちみんなの問題なんです、と玄田氏は親しげに言う。誰もが弱いところ、足りないところをかかえています、東大助教授のボクですらそうなんです、と。
 で、玄田氏は“英語ができない。聞きとれない”(p.246)と告白する。それが“トラウマになっている”、“われながらなさけない”(p.237)と苦しい胸のうち(!)を明かす。東大経済学部を出て、そこの助教授となったこの“わたしのなかにも、しっかり穴はあいている” (p.246)のだ。
 玄田氏が、偏差値ナンバーワン大学の正規雇用教員である「わたし」を持ち出すのは、自分の労働力の社会的評価を最大限に利用するという市場原理に従ったのだろう。最大の価値を引き出せる労働力資産だから、ここぞというときにじょうずに使わなくちゃ。いまや東大生がダサい時代だ、東大の知的権威ではうけない。だから、「みんなと同じ弱さを持つフレンドリーな東大助教授」でいこう。こうして、玄田氏はドアの外から中にいる子やぎたちにささやく、「よく聞いてね。この優しい声が狼のわけないでしょう」、と。
 英語ができない?ご冗談でしょう。英語ができなきゃ東大経済学部には入れませんよ。国際会議で英語がしゃべれなくて、なさけない?そりゃそうでしょう、ご幼少のときから偏差値エリートで国内市場では負けなしだったのが、グローバル市場に出て、はじめて外国勢の偏差値エリートに屈したのだから、トラウマにもなるでしょう。でも、そんなこと、何なのだ。いきなり、「クビだ!」とか「明日から来なくていい」とか“「オマエの代わりなんてはいて捨てるほどいる」”(p.238)とか言われて、放り出されることにくらべたら。
 それに玄田氏は、ほんとうにそれが必要なら、いつでも英語の聞き取りを習えるではないか。ネイティブのプライベートレッスンを受けるぐらいの時間もお金もあるではないか。玄田氏は、英語の聞き取りなどで、ほんとうは困ってなどいないのだ。フリーターが次の仕事のあてがなくて、携帯代が重荷になって困るのとは違うのだ。あたりまえだ、英語の聞き取りができなくても、東大助教授をクビにはならないし、政府の委員会委員になる妨げにもならない。それを玄田氏はわざわざ“トラウマ” (p.237)などと呼んで、自分を「あちら側にいる人」にむかって売り込むのだ。
 「だれでもニートになるかもしれない」という一歩引いた身がまえは、ニートをめぐる言説が排除的なものではないという言い訳を、「言ってるボクもみんなの側」という語り手の虚構の位置づけで補強する。しかし、それだけではない。より原理的なまやかしの装置でもある。
 「だれもが同じ」と強調することは、現状においてニートとかフリーターとか言われている人たちが、自分たちの不利な状況を改善するために「特別」な対策を求めることを阻む。「あなたたちだけ特別というわけにはいきません。だれだって、みんな同じリスクをしょっているのです」と、ドアを開けてもらったとたん、玄田氏は子やぎたちに言うだろう。「一見恵まれたように見える<偏差値階層型教育システムにおける究極の勝ち組>であるボクにだって欠点と弱さがあるのです。それをボクは克服してきた。だから、あなたたちも自分の欠点や弱さを嘆くことは許されないし、恵まれない現状を他人やシステムのせいにすることも許されないのです」、と。
 ところで、玄田氏が売りにする自分の「穴」には“人の話を聞き続けることがとても苦しい”(P.246)というのもある。 “そうか、そうかってうなずいて”いながら、“本当はぜんぜん聞いてない” (P.246)と人から言われるような状態だそうだ。これは、相当に重大な“「コミュニケーション・スキル」”(p.269)の欠陥ではないだろうか。玄田氏は、『希望格差社会』の山田昌弘氏などとともに、「コミュニケーション・スキル」の向上を労働市場に出てゆく若者にすすめるのだが、玄田氏が打ち明ける自分の「穴」は、ある種の特権的正規雇用のポストにつくにはこんなスキルは不要なこと、そして、この人たちの言う「コミュニケーション・スキル」というものが、“一番気持ちのいい声で「ありがとうございましたぁ」”(p.238)と言いながら、言われたとおりに働く能力であることを示している。(ぎむり)