『希望格差社会』(筑摩書房)の著者・山田昌弘氏は、現代日本社会がつきつける格差のどさくさにまぎれて、ムチャクチャなことを言っています。センセ仲間のなあなあ書評や大手マスコミの迎合コメントが言ってることはまったく的が外れています。ほんとうは攻撃的な悪意と低俗な偏見に満ちたスキャンダラスなトンデモ本です。
“「負け組」の絶望感が日本を引き裂く”(表紙)となんだか穏やかでない恫喝の調子で始まるこの本で、山田氏はいったい何を言いたいのか。深刻な日本社会の現状を分析して、引き裂かれた社会と人々の生活を少しでも改善する処方箋を提言している、という見せかけにだまされてはいけません。山田氏の専門分野は社会学的まやかし(sociological cheat)です。「ニューエコノミー」がもたらす雇用の不安定化と労働条件の悪化という原理的・構造的問題とその社会的帰結との関係を曖昧化し、心理の問題(希望)にすり替えて矮小化し、自分も属する「勝ち組」の温存と再生産を正当化することです。
「世の中変わったんだぞー」と山田氏は言います。「ニューエコノミーの時代には“ごくわずかしかいない”(p.106)正社員の“優秀な専門的・創造的労働者”(p.108)と“正社員の何倍もの、低賃金非正社員単純労働者”(p.107)とに二極化するんじゃ。単純労働者の賃金は切り詰めるだけ切り詰める、これがグローバル時代の企業の戦略だ。さもないと企業は生き残れんのだ。それがニューエコノミーの必然、ってもんだ。」
そういうわけで、雇用の保証もない低賃金の非正規雇用には将来の展望も「希望」もない。それを受け入れざるを得ない人たちが多くいるということは、一方でこれほどの余剰を浪費している社会にとって、許されることではない。では、どうすればいいか。普通の発想なら、非正規雇用という「絶望」をもたらす労働の問題に取り組むべきだと考えるだろう。すなわち、最低賃金制度やワークシェアリングなど、経済システムや社会制度を工夫して膨らみつつある非正規雇用の問題に取り組み、賃金や安定性など、労働条件の改善を通して「絶望」から少しでも抜け出る道を探るべきだろう。ところが、山田先生のまやかし社会学はそんな古臭い、旧制度的な思考の枠組みにとらわれてはおりません。ここで山田先生はクソミソ錬金術的転回を図ります。ダテに“旧帝大”(p.169)は出てません。黒いカラスを白いサギと言いくるめる詐術には高い偏差値を持っています。
「労働における格差、経済的な格差は確かに存在する。しかし、問題はそれのみではなく、希望の喪失であり、それこそが一番の問題なのだ」と、山田先生は何度も何度もおっしゃいます。なぜなら、“人間はパンのみで生きるわけではない”(p.231)からです(こんなところで神の言葉を恥知らずに引用する罪ぶかーいハレンチ社会学者を、神様どうかお許しください!)。いつの間にか低賃金の“単純使い捨て労働者”(p.110)の現実から、経済的・物質的要素が脱色され、彼らの現実の困難は心理的なものに還元される。
“ある程度の裕福な生活が達成されたいま、人々が幸福に生きるうえで必要なのは経済的な用件よりも、心理的な用件である。”(p.20) (注:時給800円でどうやって「ある程度の裕福な生活を達成」しろというのだ。)
“ここに経済格差よりも深刻な、希望の格差が生じるのだ。”(p.21)
“失業やフリーターの増大は単に経済的生活問題だけでなく、…人々のアイデンティティを脅かす要素となっている。”(p.103)
“このような状況はただ単に経済生活が不安定になり、将来の予測がつかなくなる人が増えるという外面的な問題を発生させるだけではない。人々の心理や意識といった内面的なものに大きな影響を及ぼす。”(p.188)
“二極化とは、単に生活状況の格差拡大なのではなく、努力が報われるかどうかという「希望の二極化」なのである”(p.203)
“ニューエコノミーが生み出す格差は、希望の格差なのである。”(p.231)
経済的な問題、労働の問題は「単に」「だけ」と軽んじられる。この辺のすり替えトリックをよく示しているのが、二極化を論じた(論じるふりをした)pp.52-53のパラグラフで、山田まやかし社会学の目くらましレトリックの典型例として、引用に値する。
“たとえば、仕事における収入格差も単に数字だけは表せない。フリーターと正社員の年収格差は、約150万円あるというが、その格差には、単に年収以上のものがある。それは、ステイタスの格差というべきものである。正社員には、社会保険や仕事上の研修など有形無形の恩恵がある。さらに、正社員なら終身とはいえなくても、5年10年継続して雇用され、定期的な収入が得られるという希望が持てる。一方、フリーターは、収入が不安定である以上に将来の見通しが不安定であり、しかも、一度フリーターになってしまうと、正社員に採用される確率は低くなる。こうして、正社員とフリーターでは、単なる収入格差以外に、将来の生活の見通しにおける「確実さ」に格差が出てくる。さらに、そうした差のある両者の間には、仕事や人生に対する意欲の有無など「社会意識」の差、つまり心理的格差が現れる。これが希望格差である。現代の人間にとっては、この希望格差が、実は最も重要なのだ。”
フリーターと正社員の「格差」がどんどん変質してゆく様子が、見て取れる。それは、「格差」に対する読者の認識を連続的に修正してゆくプロセスをとるが、最初の修正はごく常識的な範囲にとどめ、人々の抵抗感を抑える。フリーターと正社員の格差が収入の「手取り額」に還元されず、手取りには現れない経済特権、雇用の安定性が両者を区別していることはみんな知っている。こうした常識を前ふりにして読者のガードを低くしておいて、次に山田先生は格差が「心理的」であり、それこそが「最も重要なのだ」という転倒した詭弁を押しつける。
低賃金の非正規雇用には、むろん心理的な負担がある。現金収入の低さ、社会保険の欠如や雇用の不安定性が心理的な負荷となるのは、別に「将来の見通し」などを持ち出すまでもなく、あたりまえのことだ。しかしどうしてこの心理的な側面が「最も重要」なのだ?話はまったく逆だろう。もし、フリーターの労働条件の「格差」を埋めれば(そのさい<単に>収入の手取り<だけでなく>、社会保険や雇用保障の面でも正社員との格差を埋めれば)、そのとき、フリーターの心理的負担もいくらかは軽減される、と言うべきだろう。このごく当然の論理のためにはどんな社会学的調査も知識もいらない。いや、むしろ山田先生は、こうした当然のことを広く深く隠蔽するために、けばけばしい数値やこれ見よがしの表やグラフをミラーボールのようにひけらかすのだ。
さて、山田先生によれば、希望格差の底辺に位置する“大量の使い捨て労働者”(p.126)の絶望は社会不安の原因となる。といっても山田先生にとって問題なのは、格差の底に置かれた“一生単純労働に運命づけられる”(p.61)人々の人生ではない。こういう“単純使い捨て労働者”(p.110)の状況を改善する必要などぜんぜん考えていない。ただ、こうした連中がいつか正規雇用につけるなどと身の程知らな「夢」を見て、“アディクション(=中毒行為)にふけり始め”(p.207)、“やけになり、非行や犯罪などに手を染め”(p.186)、 “社会秩序の不安定化”(p.103)を引きおこす“社会の不安定要因”(p.221)を構成し、“社会福祉費を増大”(p.128)させる“社会全体の不良債権”(p.128)すなわち“日本社会のお荷物” (p.221)となることが困ったことなのだ(山田先生の語法は、先生ご自身の深い「心理的要因」を暗示する攻撃性と感情的な侮蔑に満ち満ちている)。
これは困ったことだ。しかし、山田先生にとって、問題の解決は「大量の使い捨て労働者」の労働条件を改善して、経済格差や社会的特権格差を縮小・解消する方向にはない。“低賃金で地位が不安定な単純労働者”(p.113)の“労働力のコストを下げる”(p.106)のは、ニューエコノミー企業の宿命であり、労働条件をどうのこうのと言うことは、タブーなのだ(そんなことを言ったら、政府のなんだら委員だの、東京都のかんだら顧問だののお話が山田先生のところに来なくなってしまうではありませんか)。
だから悪いのは、ニューエコノミーのシステムとか、不況だといいながらけっこう利潤を上げている企業ではなく、「希望」を持たない使い捨て労働者のほうだ。だって、経済格差がどんなにひどくたって、「希望格差」が解消できれば、社会は円滑に機能するのだから。
そもそも、ニューエコノミー体制でどっちみち使い捨て労働者に運命づけられている“特段の優れた能力を持たない多くの青少年”(p.179)たちが、“苦労に対する免疫”(p.213)を失い、“健全なあきらめ”(p.173)をもてず、“夢見る使い捨て労働者”(p.116)となっていることに問題がある。“フリーターの増加などは、まさに、「つらさや苦しみに耐える力」が減退していることを示している”(p.206)のだ。したがって、彼らに“あきらめを先送りする”(p.181)ことをやめさせ、希望を持って健全に使い捨て労働者をやってもらわなくてはいけない。だから、“もう一度繰り返すが、現在生じている問題は、「経済的生活」の問題以上に、心理的なものであるのだ”(p.241)ということになるのだ。
もう一度繰り返すが、山田昌弘氏の本は攻撃的な悪意と低俗な偏見に満ちたトンデモ本だ。山田氏がトーダイ仕込みのまやかし社会学で私たちの思考を混乱させ、意識を操作しようとするのに屈してはならない。「能力のないものの心理なんて、どうにでもなりますよ」と、それこそ山田氏の思うつぼではないか。(ぎむり)
(以下次号、乞御期待)
“「負け組」の絶望感が日本を引き裂く”(表紙)となんだか穏やかでない恫喝の調子で始まるこの本で、山田氏はいったい何を言いたいのか。深刻な日本社会の現状を分析して、引き裂かれた社会と人々の生活を少しでも改善する処方箋を提言している、という見せかけにだまされてはいけません。山田氏の専門分野は社会学的まやかし(sociological cheat)です。「ニューエコノミー」がもたらす雇用の不安定化と労働条件の悪化という原理的・構造的問題とその社会的帰結との関係を曖昧化し、心理の問題(希望)にすり替えて矮小化し、自分も属する「勝ち組」の温存と再生産を正当化することです。
「世の中変わったんだぞー」と山田氏は言います。「ニューエコノミーの時代には“ごくわずかしかいない”(p.106)正社員の“優秀な専門的・創造的労働者”(p.108)と“正社員の何倍もの、低賃金非正社員単純労働者”(p.107)とに二極化するんじゃ。単純労働者の賃金は切り詰めるだけ切り詰める、これがグローバル時代の企業の戦略だ。さもないと企業は生き残れんのだ。それがニューエコノミーの必然、ってもんだ。」
そういうわけで、雇用の保証もない低賃金の非正規雇用には将来の展望も「希望」もない。それを受け入れざるを得ない人たちが多くいるということは、一方でこれほどの余剰を浪費している社会にとって、許されることではない。では、どうすればいいか。普通の発想なら、非正規雇用という「絶望」をもたらす労働の問題に取り組むべきだと考えるだろう。すなわち、最低賃金制度やワークシェアリングなど、経済システムや社会制度を工夫して膨らみつつある非正規雇用の問題に取り組み、賃金や安定性など、労働条件の改善を通して「絶望」から少しでも抜け出る道を探るべきだろう。ところが、山田先生のまやかし社会学はそんな古臭い、旧制度的な思考の枠組みにとらわれてはおりません。ここで山田先生はクソミソ錬金術的転回を図ります。ダテに“旧帝大”(p.169)は出てません。黒いカラスを白いサギと言いくるめる詐術には高い偏差値を持っています。
「労働における格差、経済的な格差は確かに存在する。しかし、問題はそれのみではなく、希望の喪失であり、それこそが一番の問題なのだ」と、山田先生は何度も何度もおっしゃいます。なぜなら、“人間はパンのみで生きるわけではない”(p.231)からです(こんなところで神の言葉を恥知らずに引用する罪ぶかーいハレンチ社会学者を、神様どうかお許しください!)。いつの間にか低賃金の“単純使い捨て労働者”(p.110)の現実から、経済的・物質的要素が脱色され、彼らの現実の困難は心理的なものに還元される。
“ある程度の裕福な生活が達成されたいま、人々が幸福に生きるうえで必要なのは経済的な用件よりも、心理的な用件である。”(p.20) (注:時給800円でどうやって「ある程度の裕福な生活を達成」しろというのだ。)
“ここに経済格差よりも深刻な、希望の格差が生じるのだ。”(p.21)
“失業やフリーターの増大は単に経済的生活問題だけでなく、…人々のアイデンティティを脅かす要素となっている。”(p.103)
“このような状況はただ単に経済生活が不安定になり、将来の予測がつかなくなる人が増えるという外面的な問題を発生させるだけではない。人々の心理や意識といった内面的なものに大きな影響を及ぼす。”(p.188)
“二極化とは、単に生活状況の格差拡大なのではなく、努力が報われるかどうかという「希望の二極化」なのである”(p.203)
“ニューエコノミーが生み出す格差は、希望の格差なのである。”(p.231)
経済的な問題、労働の問題は「単に」「だけ」と軽んじられる。この辺のすり替えトリックをよく示しているのが、二極化を論じた(論じるふりをした)pp.52-53のパラグラフで、山田まやかし社会学の目くらましレトリックの典型例として、引用に値する。
“たとえば、仕事における収入格差も単に数字だけは表せない。フリーターと正社員の年収格差は、約150万円あるというが、その格差には、単に年収以上のものがある。それは、ステイタスの格差というべきものである。正社員には、社会保険や仕事上の研修など有形無形の恩恵がある。さらに、正社員なら終身とはいえなくても、5年10年継続して雇用され、定期的な収入が得られるという希望が持てる。一方、フリーターは、収入が不安定である以上に将来の見通しが不安定であり、しかも、一度フリーターになってしまうと、正社員に採用される確率は低くなる。こうして、正社員とフリーターでは、単なる収入格差以外に、将来の生活の見通しにおける「確実さ」に格差が出てくる。さらに、そうした差のある両者の間には、仕事や人生に対する意欲の有無など「社会意識」の差、つまり心理的格差が現れる。これが希望格差である。現代の人間にとっては、この希望格差が、実は最も重要なのだ。”
フリーターと正社員の「格差」がどんどん変質してゆく様子が、見て取れる。それは、「格差」に対する読者の認識を連続的に修正してゆくプロセスをとるが、最初の修正はごく常識的な範囲にとどめ、人々の抵抗感を抑える。フリーターと正社員の格差が収入の「手取り額」に還元されず、手取りには現れない経済特権、雇用の安定性が両者を区別していることはみんな知っている。こうした常識を前ふりにして読者のガードを低くしておいて、次に山田先生は格差が「心理的」であり、それこそが「最も重要なのだ」という転倒した詭弁を押しつける。
低賃金の非正規雇用には、むろん心理的な負担がある。現金収入の低さ、社会保険の欠如や雇用の不安定性が心理的な負荷となるのは、別に「将来の見通し」などを持ち出すまでもなく、あたりまえのことだ。しかしどうしてこの心理的な側面が「最も重要」なのだ?話はまったく逆だろう。もし、フリーターの労働条件の「格差」を埋めれば(そのさい<単に>収入の手取り<だけでなく>、社会保険や雇用保障の面でも正社員との格差を埋めれば)、そのとき、フリーターの心理的負担もいくらかは軽減される、と言うべきだろう。このごく当然の論理のためにはどんな社会学的調査も知識もいらない。いや、むしろ山田先生は、こうした当然のことを広く深く隠蔽するために、けばけばしい数値やこれ見よがしの表やグラフをミラーボールのようにひけらかすのだ。
さて、山田先生によれば、希望格差の底辺に位置する“大量の使い捨て労働者”(p.126)の絶望は社会不安の原因となる。といっても山田先生にとって問題なのは、格差の底に置かれた“一生単純労働に運命づけられる”(p.61)人々の人生ではない。こういう“単純使い捨て労働者”(p.110)の状況を改善する必要などぜんぜん考えていない。ただ、こうした連中がいつか正規雇用につけるなどと身の程知らな「夢」を見て、“アディクション(=中毒行為)にふけり始め”(p.207)、“やけになり、非行や犯罪などに手を染め”(p.186)、 “社会秩序の不安定化”(p.103)を引きおこす“社会の不安定要因”(p.221)を構成し、“社会福祉費を増大”(p.128)させる“社会全体の不良債権”(p.128)すなわち“日本社会のお荷物” (p.221)となることが困ったことなのだ(山田先生の語法は、先生ご自身の深い「心理的要因」を暗示する攻撃性と感情的な侮蔑に満ち満ちている)。
これは困ったことだ。しかし、山田先生にとって、問題の解決は「大量の使い捨て労働者」の労働条件を改善して、経済格差や社会的特権格差を縮小・解消する方向にはない。“低賃金で地位が不安定な単純労働者”(p.113)の“労働力のコストを下げる”(p.106)のは、ニューエコノミー企業の宿命であり、労働条件をどうのこうのと言うことは、タブーなのだ(そんなことを言ったら、政府のなんだら委員だの、東京都のかんだら顧問だののお話が山田先生のところに来なくなってしまうではありませんか)。
だから悪いのは、ニューエコノミーのシステムとか、不況だといいながらけっこう利潤を上げている企業ではなく、「希望」を持たない使い捨て労働者のほうだ。だって、経済格差がどんなにひどくたって、「希望格差」が解消できれば、社会は円滑に機能するのだから。
そもそも、ニューエコノミー体制でどっちみち使い捨て労働者に運命づけられている“特段の優れた能力を持たない多くの青少年”(p.179)たちが、“苦労に対する免疫”(p.213)を失い、“健全なあきらめ”(p.173)をもてず、“夢見る使い捨て労働者”(p.116)となっていることに問題がある。“フリーターの増加などは、まさに、「つらさや苦しみに耐える力」が減退していることを示している”(p.206)のだ。したがって、彼らに“あきらめを先送りする”(p.181)ことをやめさせ、希望を持って健全に使い捨て労働者をやってもらわなくてはいけない。だから、“もう一度繰り返すが、現在生じている問題は、「経済的生活」の問題以上に、心理的なものであるのだ”(p.241)ということになるのだ。
もう一度繰り返すが、山田昌弘氏の本は攻撃的な悪意と低俗な偏見に満ちたトンデモ本だ。山田氏がトーダイ仕込みのまやかし社会学で私たちの思考を混乱させ、意識を操作しようとするのに屈してはならない。「能力のないものの心理なんて、どうにでもなりますよ」と、それこそ山田氏の思うつぼではないか。(ぎむり)
(以下次号、乞御期待)