『身を市井の泥に委して、われ陶器す、古語に、心風塵の外にありと、老残、生くる日少なきを知る、われは泥にまみれ、風にふかれて、只陶器す』
JAMの本棚外伝・日本の美意識[第四回]
近代の陶工・富本憲吉/ふたばらいふ新書
富本憲吉のことを知ったのは今から35年前。
ミキモトの宣伝部に入り丁度5年目で仕事に油が乗り出した時期でもあったと記憶している。
この頃季刊「銀花」という雑誌が文化出版局から発刊されており、ここにミキモトの広告を掲載する仕事を自分が担当することになり、この雑誌を知ったという次第。
季刊銀花は私の知らない世界がいっぱいあって興味津々、それまで刊行されていたバックナンバーを揃えた。
しかし版元にもない号があったので神田の古本街に行き始めたのもこれがきっかけだったと記憶している。
季刊銀花の第十号で富本憲吉の特集が組まれているのだが、この号の表紙の富本憲吉の作品を見ての第一印象は“なんてお洒落な『うつわ』を作る人なんだ”だった。
色彩といいデザイン、意匠といい、この時代誰も真似することができないほどの斬新な『うつわ』はたちまち私の心を虜にした。
特に好きなのは「赤」で、これは恐らくフォービズムの画家マチスの影響があるのではないかと密かに思っている。
少しオレンジの入った、朱赤とも違う、何とも気品に満ちた赤なのである。
赤色は使いようによっては、成金趣味というか大変下品になる色だが、その赤を富本は上手に表現している。
そして色使いや意匠、図案などとにかく発想が日本人離れしていると思う。
奇をてらったところが少しも感じられない。
彼が陶芸の道に入るきっかけを作ったバーナード・リーチやルーシー・リーなどイギリスの作家と比べても、その斬新な意匠はひと際輝いている。
日本人だからこそのきめ細かさが随所にあるのではないだろうか。
また柳宗悦の主宰する民芸運動に参加するのであるが、これは彼の持論の一つである「日常の『うつわ』は大量生産出来なければならない」というところが、柳の民芸運動の考えとどこかで抵触していたのかも知れない。
しかしやがて民芸運動に決別し自分の道を歩み始める。
この当時民芸運動の陶芸家には前回紹介した河井寛次郎や浜田庄司、黒田辰秋などそうそうたるメンバーがいた。
民芸運動に参加したのも若い頃にイギリスに留学し、ウイリアム・モリスやジョン・ラスキンらのアーツ&クラフツムーブメントの影響を受けたことも大きいと思う。
富本の大量生産という発想はどこからきているのだろうか。
恐らく朝鮮の陶磁器を観てからに違いない。
朝鮮の陶磁器は柳も浜田も河井も観ており、生活の中の食器が何故あれほど美しいのか、また自分たちは芸術のための作品ではなく、日常の中の『うつわ』を見直さなければならないと同じように感じたのであろう。
ジュエリーも同じで、とかく作家志向アート志向をするジュエリーは、何か違うのではないかという素朴な疑問が時々頭を持ち上げる。富本は古物的作品を批評はするが一切手元には置かなかったようで、この辺にも富本の日常としての『うつわ』がみえるような気がする。
「模様から模様を作らず」という有名な言葉を生涯言い続けているが、私なりの解釈は「一度作った模様は捨て去ること。
この模様に執着していては新しい模様は作れない。
それは単なる模倣に過ぎない」という意味だろうと考えている。
模様とは意匠、デザインのことで、私も大学時代にグラフィック・デザインを専攻していたので、絶えず人真似ではない自分だけのオリジナリティを作ることの重要さについては、いやというほど勉強させられた。
明治から大正、昭和初期にかけて日本の美術工芸分野は、恐ろしいほどの発展を遂げる。
彫金・鐔金の分野では正阿弥勝義、加納、海野勝[みん]、鈴木長吉など。日本画では横山大観、狩野芳崖、菱田春草、下村観山。
陶芸では河井寛次郎、黒田辰秋、浜田庄司、板谷波山。
あげればきりがないが、この基礎を作ったのは岡倉天心とフェノロサであることは衆目の一致知るところ。
この二人の行動をみていると、組織やシステムを作るだけではなく、自分で行動しプロセスを管理し行く末を観ている。
いまの政治家が税金を湯水のように使ってやたら箱ものを作り、後は知らないという無責任さとは大違い。
岡倉天心が官学に反抗して横山大観らと北茨城の五浦(いずら)で創作活動をしたような反骨精神がないと新しい何かは生まれないのかも知れない。
富本は25歳の時に恋をする。相手は尾竹紅吉(本名一枝)という、その頃婦人解放運動の先駆者平塚らいてうが主宰する雑誌「青踏」の同人として活躍していた。
「白樺」新年号に富本が大和の田舎で何か未知のことに挑戦している芸術家の存在が、彼女を刺激したらしく、安堵村の富本のアトリエを訪問する。
名刺を取り次ぎの人から受け取ったとき富本は男性だとばかり思い込んでいた。
彼女はその頃の女性としては大柄で164センチあったというからなおのこと驚いてしまうのだが、富本にも閃くものがあったようで、いわゆる一目惚れに近い。
一枝はなんといってもその時代の最先端を行く新進気鋭の女性で20歳。
いろいろないきさつがあった3年後にめでたく結婚にまでこぎ着ける。
しかし終戦が二人を別離の運命を決定づけてしまう。
戦後の婦人運動が盛り上がる中、一枝は山の木書店という出版社を開業して女流文学の育成に情熱を注ぎ、富本は創作活動の拠点を郷里大和に求める。
70歳の時に愛媛県の砥部を訪れここに約1ヶ月滞在する。
富本は砥部の磁土の特有のねばりと白さなどに素晴らしい特質を見つけ明治以降廃れていた砥部焼の復興に尽力する。
白磁は富本が若い頃から憧れていた焼き物の一つで、このとき青年陶工たちに「君らは腕を磨こうとしているが、腕も脳が動かすのだ。
脳を磨け」といっている。彼らの間で「脳を磨いたか?」が流行になったというエピソードがあるのも興味深い話ではある。
富本は77歳でこの世を去るが、遺書に「墓不要、残された作品をわが墓と思われたし」と書いていて、いかにも富本らしいと思わせる。
1955年に人間国宝、1961年に文化勲章授章している。
はじめは辞退したのだがまわりから懇願されて止む無く受けたようだ。
河井寛次郎が頑に辞退したのとは違い、結果的に受けた背景に何があったのか知る由もないが、彼のみが知るといったところだろう。