ますぶちStyle/宝石箱の片隅

ジュエリーや宝石、真珠を中心に、ジュエリー・ビジネス、歴史まで幅広く書いていきます。是非ご一読下さい。

GemStone Club第6回定例会『インドシナ半島の宝石たち』

2015年09月30日 | 日記

GemStone Club第6回定例会のご案内 


美しい宝石たちを見ればそれだけで何か心が満たされませんか 

『インドシナ半島の宝石たち』 



今回の定例会はインドシナ(ミャンマー、タイ、ベトナム、カンボジア、インドネシア)各地で産出される宝石を持寄り、あれこれ眺めながらの情報交換をします。 
持っていない方でも気軽に参加頂けるのがジェムストーンクラブです。 
他のセミナーと違い参加者はセミプロ或はビギナーたちばかりですから、肩肘張らずに自然体で宝石の事を学ぶことができます。 
宝石好きならどなたでもOK!!! 
日 時:11月07日(土)16:00~19:00 
参加費:2~3000円程度 
場 所:カフェミヤマ高田馬場駅前店・2号室[エージークラブ(AZClub)で予約しています] http://r.gnavi.co.jp/pn2kycxc0000/ 新宿区高田馬場2-17-4・菊月ビル地下1階 03-5292-5772 
参加者はルーペ・簡易ライト持参のこと(持っていなければ貸します) 
参加ご希望の方はhttp://form1.fc2.com/form/?id=910083 
まで必要事項を記入してお申し込みください。 


『ジュエリーにおけるアール・デコについて』

2015年09月29日 | 日記

『ジュエリーにおけるアール・デコについて』 




ますぶちStyle/宝石箱の片隅 
Understanding Jewellery=46・ジュエリーの歴史を学ぼう 




1918年に第一次世界大戦が終結すると、社会が大きく変化します。 
そしてモードを中心としたファッションやジュエリーの世界も変わってきます。 
19世紀の末から20世紀初頭に流行したアール・ヌーヴォーは衰退し、イギリスのアーツアンドクラフツ運動もすっかり影を潜めてしまいました。 
1910年前後頃から登場したのが白いジュエリーといわれたダイヤモンドとプラチナのジュエリーです。 
イギリスではエドワーディアンスタイル、フランスではガーランドスタイルなどと呼ばれます。 
このデザインのエッセンスがやがてアール・デコに引き継がれます。 
第一次世界大戦ではロシアからのプラチナが供給されなくなり、それに代わって登場したホワイトゴールド主流になり、ジュエリーをモダンスタイルの花形に押し上げていきます。 
そして第一次世界大戦終結後は、プラチナはその産出量の少なさから高価な素材として、ハイジュエリーに使われるようになっていくのです。 



このジュエリー(帯留め)は御木本が1927年に製作したもののデザイン画をもとに複製した帯留めですが、アール・デコの特徴である強烈な色使いを駆使して、モダンスタイルを余すところなく表現しています。 
使われている宝石はオニックス(黒)、ラスピラズリ(青)、珊瑚(赤)、緑(クリソライト)の4色。 
これを見てもお判りのようにアール・デコスタイルは欧米のみならず、日本にもいち早くはいってきた事がお判りになるでしょう。 
そして何よりも御木本が、こういった時代の最先端のエッセンスを吸収消化して、日本独自の帯留めに取り入れているという事です。 
技術もさることながら、こういったことは現在では当たり前ですが、昭和2年という時代を考えると、御木本は日本のジュエリー界の嚆矢と云わざるをえないのではないでしょうか。 


『下手な文章でも読ませる工夫をして、理解してもらえる努力をしよう』

2015年09月28日 | 日記

『下手な文章でも読ませる工夫をして、理解してもらえる努力をしよう』 


ますぶちStyle・パイプの煙/悠々として急げ[vol.102] 




よく出版界不況、活字離れなどといわれますが、これはネットが普及してamazonに代表されるように書店に行かなくても欲しい本は手に入る、また電子書籍の分野の脅威、文章よりも手軽に画像で理解する傾向があり(漫画の影響?)文章を読まない、などが理由にあげられるのではないでしょうか。 

確かにfacebookなどのSNSツールでは、文章ではなく画像効果の方が「いいね」がつくポイントのような気がします。 
意味のない画像、受け入れられ易い画像を添付すると、たくさんの「いいね」がつく事でもそれはわかります。 
反対に長めの文章を書くとさっぱりです(私のブログは興味のない人読んでもらおうとは考えていないので気にしていませんが)。 

でもこれは例外かもしれませんが、先日の芥川賞を取った又吉直樹の「花火」などは累計で150万部とか云われるのを聞くと、決して活字離れ現象ではないと思いますし、大手の書店に行けば本の前には多くの人が群れています。 

電子書籍では満足できないのだと実感したりします。 

要はどうでもいい本があまりにも多過ぎて採算ベースが採れない部分が増大してしまったことと、書店経営が本質的に今の時代にそぐわなくなってきているのでしょう。 
先日もご紹介しましたが、最近本屋が本と喫茶、雑貨、趣味のものなどを複合的に取り入れた展開をしており、こういった店には人が多く集まっています。 

開高健という作家が「食べ物について書く時に、僕は作家だから文章で料理の表現できなかったら駄目だ」といった意味のことをエッセイ集で書いていましたが、彼はサントリーの宣伝部でコピーライターの仕事を通じて余計にそう思えたのでしょうね。 


私も相変わらずの拙文しかかけませんが、自分の云いたい事、伝えたい事をできるだけ文章で表現したいと思っています。 


JAZZ&CLASSIC on Nostalgie(9)『RESORT CLASSICS』

2015年09月28日 | 日記


ますぶちStyle/パイプの煙 
JAZZ&CLASSIC on Nostalgie(9) 


『RESORT CLASSICS』 



クラシックについては、殆どの人が中学生の頃から音楽の授業で組み入れられているにもかかわらず、いつの間にか一部の人を除いて、忘れられてしまう存在なのではないでしょうか。 
そしてほかのPOPSやJAZZに比べて、どうしても身構えないと聴く気になられない。 

私の場合は宣伝広告という仕事の関係もあって、この分野の人たちとは結構付き合いがあったので、それなりに親しんできたところがあります。 
それにしたって素人の域は超えられていませんが・・・。 

今日の一枚は「RESORT CLASSICS」です。 

日本人はバカンスを楽しむのに「働く活力を得るため」という理由で短期間にとる民族で、欧米人は「休暇を純粋に楽しむため」に長期のバカンスをとると比較されるようです。 
例えば日本人なら夏休みをせいぜい一週間もとれば長い休みをとったことになるでしょうが、欧米の人なんか普通の人でも1ヶ月くらい休暇を取ります。 
このことでは仕事上で何度かトラブった事がありました。 
頼んだ仕事が夏休みにかかるとストップしてしまい、納期が大幅に遅れるなんて当たり前でした。 

人間は楽しむために生きているというのが、彼ら欧米人の基本姿勢なんだろうと思います。 

仕事と遊びのメリハリがしっかりとできている、というのはとてもうらやましい事で、これは習慣の違い、民族性の違いといってしまえばそれまでですが、今までの人生の中で一度だって1ヶ月休暇を取った事などありません。 

24年前に独立する時だって、先輩達が1ヶ月くらいヨーロッパをまわってきたら、なんて薦められましたが、1週間後には事務所をスタートさせていました。 
そんな悲しい人生を送る事しかできない私なので、せめてこういったCDを聴いて気持ちに余裕を持たせたい、と。 
そんなことでは豊かな発想は生まれませんよね。 
この3枚組のCDには実に多くの作曲家の曲が収められています。 
しかも多くの曲は彼らがリゾート地滞在中に作曲をしたものらしいのです。 

例えば有名なベートーヴェンは毎年夏になるとウィーン近郊のリゾート地ハイリゲンシュタットやメートリンク、バーデンに滞在するのを楽しみにして、そこで生まれたのが「田園交響曲」だったというのです。 

結局かれらも仕事は頭から離れなかった(?)ということになりますが、では私も東京を離れて何処か避暑地に1ヶ月くらいいけるかというと、今度はお金がないから先ず無理な相談になってしまいます。 
もうこの歳になると、死んだら永遠に休暇を楽しめる、という心境になるのは些か寂しい気もします・・・。 


JAMの本棚外伝・日本の美意識[第四回] 近代の陶工・富本憲吉/ふたばらいふ新書

2015年09月27日 | 日記


『身を市井の泥に委して、われ陶器す、古語に、心風塵の外にありと、老残、生くる日少なきを知る、われは泥にまみれ、風にふかれて、只陶器す』 


JAMの本棚外伝・日本の美意識[第四回] 


近代の陶工・富本憲吉/ふたばらいふ新書 



富本憲吉のことを知ったのは今から35年前。 
ミキモトの宣伝部に入り丁度5年目で仕事に油が乗り出した時期でもあったと記憶している。 
この頃季刊「銀花」という雑誌が文化出版局から発刊されており、ここにミキモトの広告を掲載する仕事を自分が担当することになり、この雑誌を知ったという次第。 
季刊銀花は私の知らない世界がいっぱいあって興味津々、それまで刊行されていたバックナンバーを揃えた。 
しかし版元にもない号があったので神田の古本街に行き始めたのもこれがきっかけだったと記憶している。 
季刊銀花の第十号で富本憲吉の特集が組まれているのだが、この号の表紙の富本憲吉の作品を見ての第一印象は“なんてお洒落な『うつわ』を作る人なんだ”だった。 
色彩といいデザイン、意匠といい、この時代誰も真似することができないほどの斬新な『うつわ』はたちまち私の心を虜にした。 
特に好きなのは「赤」で、これは恐らくフォービズムの画家マチスの影響があるのではないかと密かに思っている。 
少しオレンジの入った、朱赤とも違う、何とも気品に満ちた赤なのである。 
赤色は使いようによっては、成金趣味というか大変下品になる色だが、その赤を富本は上手に表現している。 
そして色使いや意匠、図案などとにかく発想が日本人離れしていると思う。 
奇をてらったところが少しも感じられない。 
彼が陶芸の道に入るきっかけを作ったバーナード・リーチやルーシー・リーなどイギリスの作家と比べても、その斬新な意匠はひと際輝いている。 
日本人だからこそのきめ細かさが随所にあるのではないだろうか。 
また柳宗悦の主宰する民芸運動に参加するのであるが、これは彼の持論の一つである「日常の『うつわ』は大量生産出来なければならない」というところが、柳の民芸運動の考えとどこかで抵触していたのかも知れない。 
しかしやがて民芸運動に決別し自分の道を歩み始める。 
この当時民芸運動の陶芸家には前回紹介した河井寛次郎や浜田庄司、黒田辰秋などそうそうたるメンバーがいた。 
民芸運動に参加したのも若い頃にイギリスに留学し、ウイリアム・モリスやジョン・ラスキンらのアーツ&クラフツムーブメントの影響を受けたことも大きいと思う。 
富本の大量生産という発想はどこからきているのだろうか。 
恐らく朝鮮の陶磁器を観てからに違いない。 
朝鮮の陶磁器は柳も浜田も河井も観ており、生活の中の食器が何故あれほど美しいのか、また自分たちは芸術のための作品ではなく、日常の中の『うつわ』を見直さなければならないと同じように感じたのであろう。 
ジュエリーも同じで、とかく作家志向アート志向をするジュエリーは、何か違うのではないかという素朴な疑問が時々頭を持ち上げる。富本は古物的作品を批評はするが一切手元には置かなかったようで、この辺にも富本の日常としての『うつわ』がみえるような気がする。 
「模様から模様を作らず」という有名な言葉を生涯言い続けているが、私なりの解釈は「一度作った模様は捨て去ること。 
この模様に執着していては新しい模様は作れない。 
それは単なる模倣に過ぎない」という意味だろうと考えている。 
模様とは意匠、デザインのことで、私も大学時代にグラフィック・デザインを専攻していたので、絶えず人真似ではない自分だけのオリジナリティを作ることの重要さについては、いやというほど勉強させられた。 
明治から大正、昭和初期にかけて日本の美術工芸分野は、恐ろしいほどの発展を遂げる。 
彫金・鐔金の分野では正阿弥勝義、加納、海野勝[みん]、鈴木長吉など。日本画では横山大観、狩野芳崖、菱田春草、下村観山。 
陶芸では河井寛次郎、黒田辰秋、浜田庄司、板谷波山。 
あげればきりがないが、この基礎を作ったのは岡倉天心とフェノロサであることは衆目の一致知るところ。 
この二人の行動をみていると、組織やシステムを作るだけではなく、自分で行動しプロセスを管理し行く末を観ている。 
いまの政治家が税金を湯水のように使ってやたら箱ものを作り、後は知らないという無責任さとは大違い。 
岡倉天心が官学に反抗して横山大観らと北茨城の五浦(いずら)で創作活動をしたような反骨精神がないと新しい何かは生まれないのかも知れない。 
富本は25歳の時に恋をする。相手は尾竹紅吉(本名一枝)という、その頃婦人解放運動の先駆者平塚らいてうが主宰する雑誌「青踏」の同人として活躍していた。 
「白樺」新年号に富本が大和の田舎で何か未知のことに挑戦している芸術家の存在が、彼女を刺激したらしく、安堵村の富本のアトリエを訪問する。 
名刺を取り次ぎの人から受け取ったとき富本は男性だとばかり思い込んでいた。 
彼女はその頃の女性としては大柄で164センチあったというからなおのこと驚いてしまうのだが、富本にも閃くものがあったようで、いわゆる一目惚れに近い。 
一枝はなんといってもその時代の最先端を行く新進気鋭の女性で20歳。 
いろいろないきさつがあった3年後にめでたく結婚にまでこぎ着ける。 
しかし終戦が二人を別離の運命を決定づけてしまう。 
戦後の婦人運動が盛り上がる中、一枝は山の木書店という出版社を開業して女流文学の育成に情熱を注ぎ、富本は創作活動の拠点を郷里大和に求める。 
70歳の時に愛媛県の砥部を訪れここに約1ヶ月滞在する。 
富本は砥部の磁土の特有のねばりと白さなどに素晴らしい特質を見つけ明治以降廃れていた砥部焼の復興に尽力する。 
白磁は富本が若い頃から憧れていた焼き物の一つで、このとき青年陶工たちに「君らは腕を磨こうとしているが、腕も脳が動かすのだ。 
脳を磨け」といっている。彼らの間で「脳を磨いたか?」が流行になったというエピソードがあるのも興味深い話ではある。 
富本は77歳でこの世を去るが、遺書に「墓不要、残された作品をわが墓と思われたし」と書いていて、いかにも富本らしいと思わせる。 
1955年に人間国宝、1961年に文化勲章授章している。 
はじめは辞退したのだがまわりから懇願されて止む無く受けたようだ。 
河井寛次郎が頑に辞退したのとは違い、結果的に受けた背景に何があったのか知る由もないが、彼のみが知るといったところだろう。