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「眠れる森の美女」、カラボスとは何者か




カラボスは、生と死を司る冥界の神ハデスのような人物の一面であり、カラボスはリラの精と実は同一人物である。

神話の世界では生と死、光と闇の神というのはたいていが同一人物なのである。

オーロラ姫は16歳の誕生日に呪いをかけられて死ぬ。しかしこれは死ではなく、長い眠りであった。彼女は愛によって目覚め、結婚する。

つまり、生命力豊かな季節が終わり、大地が死んだようになる冬が来るが、それは永遠に続く大地の死ではなく、春は再生し巡って来る。再生するためには一度死ななければならない。

このサイクルは人間が地球上で生を営む上での死活問題だった。

現代のわれわれは冬の後には春が来ることを知っているが、古代の人たちは春が再生しないかもしれないのを恐れた。
冬枯れが永遠に続くことなく、必ず春が戻ってくるようにできるだけの細工(呪術、儀式、神話、絵画など)をし、確認をしたのである。このお話の場合は類感呪術(雨乞いのようなもの)。

カラボスとリラの精が生死を司る冥界の神ハデスなら、オーロラ姫は大地の女神デメテルの娘ペルセポネである。

......


先週、英国ロイヤル・バレエ「眠れる森の美女」、オーロラ姫/Sarah Lamb 、王子/Steven McRae の公演を。

両者とも安定の美しさだった。
サラ・ラムはかなり緊張していたように感じた。

他に気になったのはリラの精の衣装が妙にダサいことくらいか。

今月末から来月にかけて、Natalia OsipovaとMarianela Nunezのオーロラ姫も見られるので、個別の感想はすべて見てからにしようと思う。


だから今日は「眠れる森の美女」に関して前から書きたかったことを2点ほど書く。

「眠れる...」は古臭いか

カラボスとは何者か

の2点だ。


「眠れる...」が、プロットも演出も含めて古くさいという旨のツイートをいくつか見、そういう感想もあるだろうと思いつつ、「眠れる森の美女」等は古くさい話を知り楽しむものなので、ある程度は仕方がないというのがわたしの意見。

と言うか、これを根本的に変えてもらっては困る。

まず、これは古いお話です、それが今も伝わっているのには訳がありますと観客に理解してもらうのが重要だからだ。その理由は最後に書く。
そして昔話や民話の類いは、時間の流れや展開のゆっくりさなどを含めて楽しむものだからだ。


もちろん演出の細部を洗練させて行くのは必要不可欠(変わらないものとは常に変化し続けているもの)だが、現代の映画やドラマ並みに話が展開するものとは別種の話、と考えた方がよい。

カビ臭が漂うような豪華絢爛な衣装、舞台装置、妖精も、何百年という単位の時間の流れを表現するのに必要なのだ。

これでもロイヤル・バレエ版はだいぶアップデートされていて、観客が退屈しないようにずいぶん工夫されていると思う。特に3幕目の結婚式のお祝いの場面。ロイヤル・バレエ版を古くさいと言う人は、例えばちょっと前(20世紀後半)のマリンスキー等は無駄に長くて耐えられないだろう。


2点目は、常に何でもかんでも話の因果関係を説明しつくすのを好むロイヤル・バレエなのに、カラボスがオーロラ姫の誕生祝いに招待されなかった理由を「単に忘れていた」で済ますのは「へえ、それはそれでいいのか(わたしはいいけど)」と思ったこと。
事実、「忘却」というマイムが、この演出ではいやに多かった。

招待されなかったことを末代まで呪うような重要人物に招待状を出し忘れるというのはありえない。無意識にであれ意図的であろう。
侍従も王も招待リストを再三確認したにもかかわらず名前が漏れている...

それはやっぱり来て欲しくないからわざと招待しなかったか、

「実はその人物は招待されている」のどちらかだ。

(ギリシャ神話に、テティスとペーレウスの結婚を祝う宴席に全ての神が招かれたにもかかわらず、不和の女神エリスだけは招かれなかったという似た話があるが、その話の類型は無視します)


簡単に「眠れる森の美女」バレエ版の筋を荒く説明。バージョンは様々あるので輪郭だけ。

待望の姫の誕生を祝い、王と王妃は宴会を開く。主賓は複数の妖精たち。妖精は姫にそれぞれ贈り物をする。宴もたけなわ、招待されなかったカラボスが怒りながら登場し、「姫は16歳の誕生日に紡錘に指を刺して死ぬ」と呪いをかける。まだ贈り物をしていなかった善の精リラ(ライラックの精)は、「呪いを完全にとくことはできないが、姫は死ぬのではなく100年間の長い眠りにつき、本物の愛によって目覚める」と宣言する。
その後、国中の紡錘という紡錘は破壊される。
16年後、姫の誕生日であり婚約者を選ぶ日。その宴に変装したカラボスがやってきて姫に紡錘を手渡し、姫は誤って手を刺し倒れる。リラの精によって城は深い茨に覆われ、100年の深い眠りにつく。
100年後、麗しの王子がリラの精の導きで真実の愛を待つオーロラ姫の姿を見せられ、彼女を救う決心をする。オーロラ姫は王子の口づけによって目覚める。善の勝利。
結婚式。結婚式ではペロー童話の主人公たちが場を盛り上げる。



オーロラ姫は不幸なことにたった16歳で死ぬ。
いや、リラの精によって100年の「眠り」につく。

この眠りは率直に言って「死」であり(死ぬことを「眠りにつく」という)、100年間というのは姫が転生するまでの長い時間の表現である。
茨はあの世とこの世を分ける「垣根」だ。昔話ではあの世はしばしば茨によって隔てられたエリアだ。

ということは、姫の死に関係の深いカラボスはまぎれもなく冥界の神である。
同時に、カラボスは生命の再生を司る神、つまりリラの精であり、同時に100年後の転生を保証するのだ。

神話の世界では悪と善、死と再生、闇と光の神が同一なのは普通のことなのである(例えばギリシャ神話の冥界の王ハデスは豊穣神でもある。また、ハデスの妃は豊穣の女神デメテルの娘ペルセポネ)。


そうなのだ、わたしは常々、悪の精カラボスとは、善の精リラ(ライラック)の精の一面、暗い/悪の顔だと推理している。

この2人は生と死を司る神であり同一人物だ。

だから上で「実はその人物は招待されている」と書いた。
侍従は愚かにも、招待状をカラボス/リラの、善の顔にだけ宛てて出してしまったのだ。
神は「全」であり、全には善悪の区別はない。善悪の区別は人間がつけるものにすぎない。「死」は人間の目から見てだけ「悪」なのである。


オーロラ姫は16歳で呪われて死にかける。しかし、それは死に似た眠りだった。彼女が眠っている間、大地は死んだようになり、彼女が復活すると世界は再び光に満たされる。

オーロラ姫が眠りにつく時が冬の訪れで、長い冬の後に目覚める時が春の訪れなのだ。

彼女は死んだのではなく、単に眠りについた。つまり春は厳しい冬の後に必ず巡ってくるのだ。

このサイクルは人間が地球上で生を営む上での死活問題だった。
古代の人たちは冬枯れが永遠に続くことなく、必ず春が戻ってくるようにできるだけの細工(呪術、儀式、神話、絵画など)をしたのである。

われわれの生活から切り離せない神話。この古いお話が今に残っている理由である。


さらに詳しく説明すると、オーロラ姫は大地の女神デメテルの娘にして春の女神ペルセポネだ。
ペルセポネが完全に死んでしまうと、地上には2度と生命が戻ってこないのでそれは困る。

ペルセポネは冬の間眠るだけ(地下に住む母を訪問中)だ。その後、必ず春は巡ってくる(地上で過ごす期間)、その魔法をかけるのが、生と死を司る神であるハデスなのである。

わたしがリラの精とカラボスが同一人物だと思うのはこの理由からである。

そうだとしたら、「古代の王」の人格を帯びた王子が、霊力を手に入れるために冥界に下り、霊的な成長を遂げて帰還する、という英雄冒険譚もきれいにまとまる...


ような気がするのだが、いかがでしょう?


カラボスが誰なのかについては「オーロラ姫は何者か、あるいはカラボスとは何者か」にまとめました(2017年2月3日)。
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