goo

ドン・キホーテは狂人か




英国ロイヤル・バレエ、カルロス・アコスタ(Carlos Acosta)による新プロダクション「ドン・キホーテ」へ。

アコスタを筆頭に、マリアネラ・ニュネス(Marianela Nunez)、平野亮一...と、タマラ・ロホ(Tamara Rojo)、アリーナ・コジョカル(Alina Cojocaru)等が去った後のロイヤル・バレエを牽引するダンサー達による豪華な舞台。

9月のガラのチケットを急なパリ行きで無駄にしてしまい、今回はいい席が手に入らなかったが、期待に揉み手をしながら馳せ参じた。


アコスタによる新プロダクションは、従来のドン・キホーテとは趣向の違う場面あり演出ありで興味深かった。
娘にとっては従来の演出よりもずっとおもしろかったそうである。

例えば舞台上でフラメンコの合いの手や掛け声、口笛などが頻繁に上がるのにはどっきりさせられ(バレエは従来マイムだけですべてを表現するのである)、ついには誰かが歌い出すのではないかと思ったほどだった。ジプシーの場面では舞台上でフラメンコギター生演奏され、それも他には見たことがなかった演出だった。

また、いわゆるストリートダンス系の踊りも取り入れられており、よくいえば時代に沿って進化したクラシックバレエ、という感じか。今後、芸術ジャンル間の垣根が取り払われて、新しいジャンルが生まれるのかもしれない。
それにしてもバレリーナって基礎ができているからか、身体表現の分野にあっては何にでも応用が利くんですね! 素晴らしいなあ。

伝統が時代の流れの中で生き延びるには、頑に古い型を守るだけでは不十分で、このような柔軟な変化が不可欠だと思う。「変わらないものは、常に変わっているものである」。言い得て妙だ。


だからこそ、敢えてわたしが感じた違和感を記しておこうと思う。

前にも書いたが、バレエ団にはそれぞれ「色」があり、同じ出し物を演じるとしてもストーリーの解釈や語り方、演出方法も全く異なる。世界が一色になるのを望んでいる人(主に資本家)もいるが、芸術の世界は多彩だ。

で、英国と言えば...ロイヤルバレエでも書いたように、ロイヤルバレエの特徴は、やたらと話を詳しく解説し、物事の因果関係をはっきりさせたがるところにあると思う。わたしが勝手に「ロイヤルバレエの(イギリス)経験主義」と呼ぶ所以だ。
なぜ魔法にかけられたか、なぜ悪によってひどい目にあわせられるのか、なぜこんな夢を見るのか、なぜ死なねばならないのか...全部説明し尽くしてくれるので、お話の筋の中に辻褄の合わないところはほとんどない。

まさにこのロイヤルバレエ的な要求が、アコスタ版「ドン・キホーテ」の中でドン・キホーテを完全なる統合失調症にしてしまったように思える。

以下ネタバレを含む。

ドン・キホーテはセルバンテスの語り様から、わたしは単に変わり者の老人、ドタバタ劇の主人公、と捉えていた。変わり者で頑固者で思い込みが激しいところはあるが、誇り高く正義感が強い、狂気すれすれの変人。あるいは人間誰もが持つ特定の気性の象徴的人物、時代のカリカチュア。また、そのように捉えないとセルバンテスの繰り出す風刺が読み取れないとも思っていた。
今まで見てきた数知れぬバレエ「ドン・キホーテ」も多かれ少なかれそのような解釈だったと思う。

しかしこのたびのロイヤルバレエは、ドン・キホーテが見ている「実際にある幻覚」としてのドルネシア姫、村娘キトリをドルネシア姫と取り違えるまさにそのリアルな感覚、徐々に大きくなる風車をすべて舞台上で見せてしまったのである(従来、ドルネシア姫は、ドン・キホーテの「夢」の場面に登場する。幻覚ではなく「夢」の場面に)。

小説や他の演出中では単に「ドン・キホーテの強い思い込み」「ドン・キホーテの願望」「ドン・キホーテのロマン」「象徴」に過ぎなかったかもしれないものをすべて「実際にある幻覚」として見せることによって、ロイヤルバレエは「ドン・キホーテは『幻覚』を見ている狂人」、というスティグマを押した(つまり、それ以外の解釈を許さない、ということ)。

こういう語り方をすることによって、「バレエってなんだか分かりにくい」という人々をもっと勧誘することは可能かもしれない。事実、ガーディアン紙も「これでドン・キホーテの動機が明確になった」と歓迎していたし。
しかし、「皆まで言うな、野暮」とかいう糊しろの幅の広さが芸術のおもしろみではないのか。自分なりに段階的に想像力を働かせることが知性を養ていくことのおもしろみではないのか。

いろいろな意味で次に見るプロダクションも楽しみ...


(写真は両方ともロイヤルバレエのサイトから。左下がドルネシア姫と踊るドン・キホーテ)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 「英国料理を... 子育てが一段... »