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アルカードが足を踏み出すたびに、不気味なほどに静かな踊り場に装甲板がこすれあう音が響く。
先ほどの遭遇戦のあと五階層ぶんの索敵を終えたが、いまだにキメラに一体も遭遇していない――ブラック、ブルー、レッド、グリーン、イエローの合計五つの狙撃チームからはなんの報告も無い。
時折
階段の踊り場に足を置いたところで、アルカードは背後を振り返った。さらに半分階段を登った先の非常用鉄扉には、今のところ動きは無い。
階段を半分降りたフロアでは、エルウッドが周囲に視線を走らせている――踊り場で足を止めて安全を確認したアルカードが呼ばわると、エルウッドが階段を登り始めた。
エレベーターは使わない――奇襲のときに逃げ場が無いし、もし彼らがエレベーターの構造を知っていたらワイヤーを切りに来る可能性があるからだ。
ふたりで一度に登らないのは、ただ単にまとめて攻撃されることを防ぐためだ――階段の様な狭く逃げ場の無い空間で密集しているところにあの冷凍攻撃を仕掛けられたら、彼らには凌ぎ様が無い。
特にエルウッドの
階段を登るときに周囲の警戒と移動を分担しあうのは、特殊作戦部隊戦術における室内クリアリングの基本でもある――階段の様な死角の多い場所では、突発事態に対応出来る役割分担が必要になるのだ。それを怠るとしくじる――人間と化け物では基本が異なるものの、やることはたいして変わらない。
エルウッドは甲冑を身につけていないので、歩法にだけ注意していればほとんど足音を立てない――甲冑など着ていなければ、アルカードだって野生の蝙蝠にも気づかれずに息がかかる距離まで近づけるのだが。
階段の移動は何事も無く終わり、ふたりは階段室から廊下に出た――手近にあったフロア案内図で確認した限り、いくつかの宴会場があるらしい。
通信機の送信ボタンを押し込んで、アルカードは小声でささやいた。
「シルヴァーよりゼロ・ブラヴォー、ゼロ・アルファ――これより十七階に侵入する」
「ゼロ・ブラヴォー了解」
「ゼロ・アルファ了解」
大宴会場がみっつに中宴会場と小宴会場がひとつずつ――どうして中宴会場とか小宴会場より大宴会場のほうが数が多いのかはわかりかねたが、まあそういうものなのだろう。むしろ気にすべきは『鰐の間』『虎の間』『鷹の間』という、大宴会場の名前の様な気がする――鷹の間はまあいいとして、鰐の間は無いだろう鰐の間は。そこは龍の間だろう、常識で考えて――否、そうじゃなくてそこは松竹梅とか雪月花じゃないのか?
廊下の曲がり角の向こうでなにかが倒れるガタンという音が聞こえてきて、アルカードは思考を中断した――エルウッドと視線を交わしてたがいに小さくうなずきを交わし、そろってそちらに向き直る。
視線とともに首肯を交わして、ふたりは即座に行動を起こした。エルウッドは壁を背にする位置に移動し、アルカードは大回りして角を廻り込む様に移動する。
手の甲をエルウッドに向けて左手を翳し、その掌を下に向けると、エルウッドが手にした槍の穂先を下げた。そのままそこにとどまっている様に手で合図して、アルカードは手にしたサブマシンガンを懐にしまい込んだ。
全力疾走の直後の様に呼吸の荒くなった人影が、床の上に蹲っている。壁に掛けられていたと思しい絵画が、壁際に蹲ったその人影の上に倒れかかっていた――どうやら先ほどの音はこれらしい。おそらく人影が壁に寄り掛かる様に移動していたときに絵画に寄り掛かって、掛け金が荷重に負けてはずれたのだろう。
顔は見えなかったが、襤褸布同然の有様になった衣装から露わになった細い肩と背中まで伸ばした黒髪、白いうなじは明らかに女性のものだった。
背中まで伸ばしたストレートの黒髪に、ボロボロになったドレスを着ている――そのドレスが明らかにウェディング用のものなのを見てとって、小さく毒づく。アルカードは彼女のそばにかがみこんで、か細い肩に手をかけた。
こちらに気づいてはいない様だが意識はあるらしく、感冒患者のごとくガタガタと震えながら小さな声で譫言の様に何事かを繰り返している。
室内ではあるものの、このホテルの屋内の気温はすでにマイナスに近い――だが彼女が震えている理由は、明らかに寒さのせいではなかった。
「おい、大丈夫か?」 到底『大丈夫』には見えなかったが、それでもそう声をかける――それでようやくこちらに気づいたのか、彼女は顔を上げてアルカードの腕を掴んだ。
「……けて」 あらん限りの――しかし悲しくなるほど弱々しい力で彼の腕を掴んだ女性の口から、まるで老女の様なしわがれた声が漏れる。
「助けて、お願い――」
こちらを見上げた女性の顔は、まるでミイラの様だった。目は落ちくぼみ頬は痩せこけ、肌理細やかだっただろう肌はがさがさになっている。全身の肉が過剰なダイエットを通り越して餓死寸前の状態まで削げ落ち、脂肪はもちろん筋肉までもがカロリーに変換されて失われ、文字どおり骨と皮だけの状態になっていた。
それがなにを意味するのかを理解して、戦慄する――もちろん結婚式前にドレスのウエストサイズを小さくするための、過剰なダイエットの結果などではない。体内で急速に成長しているなにかに全身に脂肪の形で蓄えられていたカロリーを残さず奪い尽くされ、さらに全身の筋肉すらもがカロリー源として喰い尽くされた結果だ。
これは間違い無く――
彼女の腹が信じられない勢いで膨らんでいくのを目にして、アルカードは脛の装甲の隙間に仕込んだ
だが、苦痛を止めるために殺してやるいとまも無かった。
「いや、いや……やめてぇ……」 自分の胎内でなにが起こっているのかを薄々理解してはいるのだろう、彼女はすすり泣きの様なか細い声をあげながら床の上で体をくの字に折り――ぐぇっ、という短い声をあげたあと全身を反り返らせた。
弓形に反った彼女の腹がひときわ大きく膨らんだかと思うと、次の瞬間ぼん、と音を立てて破裂する――エルウッドが息を飲む音が聞こえた。粘り気のある血と内臓が飛び散り、破裂した腹の中から伸びた小さな手が絨毯を掴んで、汚物と血にまみれた体を外へと引きずり出す。
絨毯の上に転がり落ちたキメラの幼生がその場で座り込み、げえええ、とげっぷの様な声をあげた。手元にあった女性の左手の薬指を掴んで引き寄せ、すでにびっしりと生えそろった鮫の様な歯を立てる。
「――ッ!」 アルカードは小さく毒づいて、母親の指を咀嚼しているキメラの赤ん坊の頭を掴み上げた。
そのまま手近な壁に叩きつける――熟したトマトを投げつけたみたいにぐしゃりと音を立ててキメラの全身の骨という骨が砕け頭部が破裂し、血と脳漿と臓物を周囲に撒き散らした。
それと同時に、エルウッドが動く――アルカードもすでにその接近は察していた。
コートの脇の下に設けられている銃眼用のスリットから突き出していた水平二連のショットガンのトリガーを引く――ガス圧動作式のセミオート式ショットガンをふたつ水平に組み合わせた構造のショットガンの、ふたつの銃口が同時に火を噴いた。
耳を弄する轟音が響き渡り、左側の銃口がセイフティー・スラッグ構造の対吸血鬼用特殊弾薬を吐き出し、右側の銃口が十二番ゲージの散弾を撒き散らす。コートの下で真下に排出されたボロボロの樹脂ケースが、床の上に落下してからからと音を立てた。
背後の壁にへばりついたまま器用に身を躱して銃弾を避けたキメラがげげげげげ、と声をあげる。鈎爪が発達し、まるで瘤の様に盛り上がった両手の手の甲が瞼の様に肉で覆われているのがわかった。
「気をつけろ――まだほかにもいるぞ!」 エルウッドに警告の声をあげたとき、頭上の壁にへばりついていた三体目のキメラがぎええええっと叫び声をあげた。その絶叫はあっという間に金切り声を通り越してどんどん甲高くなり、やがてガスタービンエンジンを思わせる耳を劈く様な高音域を経たあと、一瞬だけ爆発音の様な轟音を響かせてからそのまま聞こえなくなった。
声がしなくなったわけではない――キメラの絶叫はいまだ続いており、鼓膜が震えているのがはっきりとわかる。今は人間と同じ可聴範囲に調整している、アルカードの耳で聴き取ることの出来る範囲を超えたのだ――女性の亡骸のかたわらで横倒しになっていた絵画の額縁に、パキリと音を立てて亀裂が走る。
これは――
鼓膜の震え方から、キメラの絶叫が周波数をうねる様に変動させながら続いていることはわかる――亀裂が入った直後に壁の角が砕けたことでその攻撃の正体を理解して、アルカードは後方に跳躍しながらショットガンの銃口を天井のキメラに向けた。
「死ねよ!」
咆哮とともに、発砲――
それと同時に、鼓膜を震わせていた可聴範囲外の超音波がピタリと止まる――おそらくあれは一種の音波兵器なのだろう。
物体はどんなものにでも、固有の共鳴周波数というものがある。共鳴周波数は物体の構造と材質、形状によって変化する――この共鳴周波数と同じ周波数の振動波を浴びせられると、浴びせられた物体はふたつ並べた音叉の一方を鳴らしたときにもう一方もそれに近い振動数で振動を始める。
外部から加えられた振動周波数が物体の共鳴周波数に近づくほどその振動は大きくなり、やがて物体は共鳴現象による異常振動を起こし始め、自己崩壊を起こして分子構造が破壊されてしまう――おそらくあのキメラは高周波数の叫び声をあげ、その音程で共鳴周波数をチューニングすることで目標を粉砕するのだろう。
大気密度の変動で射程が変わるし、周波数が上がれば上がるほど遮蔽物の影響を受けやすくなるが、言うまでもなくこの距離ならば関係無い。
だがいずれにせよ、叫ばせなければ済むことだ。
胸中でつぶやいたとき、壁にへばりついていたもう一体のキメラがげええええ、と叫び声をあげた。
そのキメラの両手の指先に生えた発達した鈎爪が一メートル程度まで伸長し、続いて猛烈な熱気を放ち始める。遠赤外線式のストーブに当たっているときと、よく似た熱の伝わり方だ。
エルウッドは鈎爪から壁紙が瞬時に燃え上がるほどの高熱を放ち、手の甲の発振器から赤外線レーザーを撃つ個体がいると言っていた。
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