【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

現代の探検家《植村直己》 =007=

2017-08-17 06:14:27 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ Great and Grand Japanese_Explorer  ◎○

探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己

= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =

 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠ 

◇◆ 始まりと終わり・・・・・・  =5/6= ◇◆

 それにしても、南極単独横断の構想は、この飯場のだだっぴろい部屋で語られたとき、思いきり漠然としていた。 少なくとも、私にはその実現をどうイメージしていいのかわからなかった。 ただ、先はわからないとしても、そのために次にやるべきことは、具体的でリアリティーがあった。植村はいった。

 (1)アルゼンチン政府、軍の協力を申請して、比較的入りやすいベルグラーノ基地へ行かせてもらい、南極を下調べし、体感する。

 (2)それが成ったら、できるだけ時を移さずにグリーンランドに入る。 エスキモーの集落で暮らしながら犬橇の操縦を習得する。犬橇を操れるようになったら、グリーンランド周辺で長い犬橇旅行を敢行する。 それは、自分の構想を内外にアピールすることにもなるだろう。 グリーンランド滞在はどれぐらい時間がかかるかまだはっきりしないけれど、半年から1年ぐらいを目途にしたい。

 この二つのことを実行するのに、文藝春秋に後援してもらえないか。 飯場の日から数回話を重ねるうちに、植村の希望は具体的になり、はっきりかたちをとるようになった。

 必要とする金額は、大したものではなかった。 移動のための交通費、わずかな生活費、行く先に持参するおみやげ代。後年の大冒険にかかった費用にくらべるまでもなく、大した金額ではなかったと記憶している。 私は社の編集局長に相談し、後援の了承を得た。

 私がなぜ植村の話に乗る気になったのか、いま思いだそうとしても、明快にこうであった、ということはできない。 先ほどもいったように、私自身は南極単独横断がどのように可能になるのか、はっきりとつかむことができなかった。 しかし、植村の夢には、何かしら強いリアリティーがあった。 植村という人間が発散しているリアリティーといったほうがいいかもしれない。

 少し恥かしい気持ちをもって思い出す。私は自分より3歳年下のこの男に、「夢を追う子」を見ていたふしがある。W・H・ハドソンの『夢を追う子』(原題は“A Little Boy Lost”)という少年小説を、学生時代に読んでいた。 夢を追うマーチン少年は、夢を追いつづけるという一点で、特別な能力と運命を担わされていた。 私は当時の植村とのつきあいに、わずかであってもこの少年小説の影が落ちていたのを、恥かしいような気分で思い出す。

 しかし、植村自身に、そのように観念的なところがあったわけではない。 彼は愚直にまっすぐ歩こうとする男だったが、一方で十分にリアリストだった。 一歩一歩、じわじわと目標に近づいて行くという姿勢は、堅実でさえあった。 壮大な夢とその実現に向けての堅実さ、それが奇妙に対照的だった。

 エベレスト登頂、5大陸最高峰登頂という垂直の登山の世界から、氷と雪の水平への世界への転進。 それがこの時点で植村のとった姿勢だった。

 71年、日本列島3000キロを徒歩で縦断。南極大陸を横断するとちょうど3000キロ、その距離を体感するために、北海道の稚内から鹿児島まで歩いてみたのである。 愚直といっていいほどの経験主義である。 そして72年、南極に初めて入り、アルゼンチンのベルグラーノ基地周辺を偵察した。 ついで同年9月、グリーンランド最北端にあるシオラパルク村に入って、そこで暮らしはじめた。 犬橇操作を習得するための、予定通りの行動である。着々と、一歩一歩進んでいった。

 しかし予定通りの行動はそこまで。 これ以後、植村直己の夢と冒険は意外な軌跡を描くことになる。

=補講・資料=

南極点到達競争

アーネスト・シャクルトンが率いた1907年のニムロデ探査において、エドワース・デイヴィッドの隊は初めてエレバス山を登頂し、南磁極に到達した。ダグラス・モーソンは危険な帰路から生還し、その後も1931年に引退するまで様々な探検を続けた。 シャクルトン自身も他のメンバー3人を従え、1908年12月に数々の未踏の地を探検し、1909年2月にはロス棚氷を横断、バードモア氷河を渡って南極横断山脈を越え、そして南極高原に到達した。

ノルウェー人探検家ロアール・アムンセンの隊がフラム号を出発しクジラ湾からアクセルハイベルグ氷河を遡上するルートで南極点を目指し、1911年12月14日に彼らは到達を成し遂げた。 テラ・ノヴァ号探検隊ロバート・スコット一行が南極点に到達したのは、彼らに遅れる事1ヶ月だった。

1930年代から40年代にかけて、リチャード・バードは飛行機による南極飛行を数度行った。 彼は、南極大陸の通行手段を確立し、大規模な地質学的および生物学的調査を実施したことで知られる。 しかし、1956年10月31日にジョージ・J・ドゥフェク率いるアメリカ海軍のグループが航空機で南極点に降り立つまで、訪れる者はいない空白期間があった。

単独で南極大陸に到達した初めての人物はニュージーランド人のデヴィッド・ヘンリー・ルイスであり、彼は「アイス・バード」と名づけた10mサイズの鉄製スループでこれを成し遂げた。

ロアール・アムンセン」と「ロバート・スコット」を参照。また、拙文【スコットとアムンセン】をも閲覧ください。

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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