偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏549大山(神奈川)無縫塔、空誉

2014年11月14日 | 登山

大山(おおやま)無縫塔(むほうとう)、空誉(くうよ)

【データ】大山 1252メートル▼国土地理院25000地図・大山▼最寄駅 小田急小田原線・伊勢原駅▼登山口 神奈川県伊勢原市日向▼石仏 大山の東山麓にある旧淨発願寺。地図の赤丸印




【案内】大山の登山口の一つに日向薬師からの道がある。日向川に沿って登るこの道をたどると、左手にあるのが淨発願寺。かつてこの寺は日向川の奥の山中にあったが、昭和初期の土砂崩れで埋まってしまい、この地に移ったと寺の案内にある。そのかつて寺があった山中=写真上は旧寺の入り口に佇む六地蔵=には、江戸時代初期の作仏聖・弾誓(たんせい・淨発願寺開山僧)が籠った洞窟があり、その周辺にいくつもの無縫塔が並ぶ。無縫塔は住職の墓。その形から卵塔(らんとう)とも呼ばれている。その起源を『日本石仏辞典』(昭和50年、庚申懇話会)から要約する。
 中国の唐の時代の禅僧・慧忠国師が遺言したのが「死後一個の無縫塔を……」。しかし造る段になっても無縫塔がどのような形態のものか解る者がなく、師の偈(げ=仏教の心理を詩の形で表したもの。偈頌)にあった「見んとすればかえって難しく……」を参考に、無形無相の塔と解して、苦心の末に卵型の塔が生まれた。無縫塔は禅宗独得の思考からできた名称。日本には禅宗とともに鎌倉時代に移入されたという。
 旧淨発願寺の無縫塔のなかで一番大きいのが、「當山中興空譽禅阿木食上人 元禄七甲戌(1694)二月十四日」。台座も入れると約2メートル50にもな高さである。空譽は淨発願寺の四世。弾誓-但唱-長音と続いた淨発願寺だったが、長音亡きあと先細りになり、これを再興したのが空誉。空誉が力を発揮できた後ろ盾は、尾張徳川三代・綱成の正室・瑩殊院殿(新君)。空誉は病弱な新君をたびたび救ったと、宮島潤子氏は『謎の石仏』(平成5年、角川選書)で推測している。空誉は「稀にみる名医であった可能性が強い」とも。その新君の供養塔が旧浄発願寺の洞窟内に残る。

【参考】弾誓は佐渡・壇特山で、壇特山もこのブログで案内した。


【独り言1】弾誓石仏 初めて旧淨発願寺を訪ねた40年前、参道は土砂と雑草に埋まり、洞窟の入り口は水浸しで、中に入るには勇気がいりました。しかし洞窟内の石造物はすばらしく、なかでもリアルな弾誓の石像をどうすれば写真に撮れるか、何度か通って写したのが上の写真です。その後、参道が整備され、いつの間にか弾誓の像も淨発願寺に移されてしまいました。それでも他の石仏はそのまま残っており、今でもそのすばらしさはかわっていません。洞窟上に刻まれた「南無阿弥陀仏」の名号は苔でわかならくなってしまいました。写真はいずれも40年前のものです。

【独り言2】藍場(らんば) 子供のころ過ごした福島・阿武隈山地の街では、墓地をランバと呼んでいました。大きくなっても、どうしてランバなのかわからず、方言だろうと思っていました。卵塔があるので卵塔場であると知ったのは大人になってからで、卵塔場がランバになったのだろうと一人納得したものです。しかし、〝らんとう〟の表記は卵塔のほかに藍塔・蘭塔・乱塔などもあり、必ずしも卵塔をさすものではないようです。『石塔の民俗』(昭和47年、岩崎美術社)の土井卓治氏は「ラントウというよび方について二十年来注意しているが、どこからそういう呼び方がついたのか、いまだに不明である」とし、「ラントウバとかラントバとよぶところは奈良、京都のほかかなり多い」と紹介しています。また「岡山県や香川県でラントウと呼ぶのは、小さな家か寺の堂の形をしたもの」と記しています。私にとってランバは、葬式を意味するザザンポとともに、冥土に行くための呪文のような不思議な言葉です。

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