偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏番外 大山・茶湯寺(神奈川)念仏塔

2014年11月17日 | 登山

大山・茶湯寺(ちゃとうじ)念仏塔(ねんぶつとう)

【データ】大山 1252メートル▼国土地理院25000地図・大山▼最寄駅 小田急小田原線・伊勢原駅▼登山口 神奈川県伊勢原市大山▼石仏 大山登山口の門前街の一角。地図の赤丸印

【独り言】5年ほど前の話です。従妹が父の百一日目に大山の茶湯寺に行ってきたという話をしていました。聞くと、亡くなられた人は百箇日で仏様になり、百一日目には家に帰るため、この寺の入り口で家族が来るのを待っているので、迎えに行くというのです。なんでも神奈川と多摩の一部にその習わしがあるそうです。大山には何度も登りましたが、この寺のことはまったく知りませんでした。茶湯寺は大山参道の土産店街の裏手、大山川に沿った道を登り、小さな橋を渡った先の山ぎわにある小さな寺。本尊は寝釈迦です。境内に石仏がたくさん並んでいます。そのなかで際立つのが念仏塔。江戸末期にこの地方で活躍した二人の念仏行者を案内します。



 一つは境内に入る石段脇にある唯念銘の念仏塔。唯念の念仏塔は、駿河東部の小山町周辺に数多く造立されていることが分かっています。本拠地は小山町の山中にある唯念寺。その業績を森本伸二氏の「唯念行者と奥の沢の石仏たち」(日本の石仏13号、昭和55年、日本石仏協会)から紹介します。唯念こと滝沢唯念は寛政3年(1791)肥後生まれ。14歳で江戸に出、下総行徳の徳願寺に入ったのは16歳のとき。20代は北海道や恐山、羽黒山で修業。30代は高尾山に籠り、駿河の奥の沢で修業。40代は奥の沢を拠点として布教活動を始めます。以後明治13年、90歳で亡くなるまで、念仏布教に努めた念仏行者です。奥の沢に残る石仏は110、奉納者は駿河・伊豆・相模・武蔵と同書にありました。




 徳本は、念仏塔のなかでも一番知られ、その造立地も関東・中部から北陸・関西まで確認されている念仏行者です。このブログの頭高山(神奈川)でも案内したので、『日本仏教史辞典』(平成11年、吉川弘文館)から簡単に紹介します。宝暦8年(1758)紀伊の生まれ。27歳で出家し、「木食草衣、長髪で高声念仏、苦修練行すること多年、わずかに『阿弥陀経』の句読しか習わず、宗義を学ばすして、おのずから念仏の教えの要領を得たという」とありますから、努力の人だったようです。それでも布教先では大勢の人々が集まり、多くの念仏塔が立てられたのをみると、人々を魅了する念仏だったようです。その念仏は木魚と鉦を交互に乱打するもの。「信者の多くが一時的なエクスタシーの状況になるほど」と西海賢二氏の『漂泊の聖たち』(平成7年、岩田書院)にありました。文政元年(1818)没、61歳。

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