偏平足

里山の石神・石仏探訪

里山の石神端書288 日本武尊(茨城県行方市岡)

2024年05月10日 | 里山石神端書

行方市岡の福寿寺

 行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい街。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。行方を古いといったのは、古くそれも日本神話に通じる伝承が各地に残る街という意味で、ここに案内する行方市岡の寿福寺にある日本武尊もその一つです。
 その伝承は奈良時代に編纂された『常陸の国風土記』に基づくもので、日本武尊が常陸の国まで来ていたことに由来するものです。それによると日本武尊が相鹿の丘前に留まられたとき、大和から大橘比賣命が訪ねてきてお会いになったと記されています。この大橘比賣命、『日本書紀』では日本武尊とともに相模から上総に渡るとき、荒れ波を静めるために海に身を投じで亡くなっています。それは別として、二人の銘刻した石碑が雷神社に立っていました。

 石碑には「日本武尊/大橘比賣命/史蹟相鹿丘前宮跡」銘。側にある案内には、日本武尊の食事を用意するとき雷鳴とともに別雷命が降りてきて、これを水の神として祀ったのが雷神社。江戸時代に道鏡と合わせ祀って丘前宮道鏡大明神とした、とありました。


 道鏡大明神の社殿をのぞくと男根が……。道鏡と男根はどのような関係なのでしょうか……。子授け祈願として性神の祀ることは古くからありましたが、江戸時には石造男根も造立されてきました。その象徴として、道鏡は巨根だったという俗信があったようです。俗信の元になった一つが『日本霊異記』(注)の下巻第38、称徳天皇と道鏡の件です。
同書には「我之黒見曾比 麻多に宿し給へ 人に成まで(黒いふぐりよ、股でおやすみなさい。一人前になるまで)と歌った。称徳天皇の世の天平神護元年(765)のはじめに、弓削氏の僧道鏡は天皇と同衾し、政治をとって、天下を治めた」とあります。真意のほどは……。

 境内入口には二十三夜塔と月読命の石塔、墓地には女人信仰の如意輪観音と子安観音が並んでいました。


(注)『日本霊異記』昭和42年、平凡社・東洋文化97
(地図は国土地理院ホームページより)


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 八千代新川千本桜 24-05 | トップ | 屋上菜園2024-05闘病日記27 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。