偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏778立石山(千葉)出羽三山供養塔

2018年02月05日 | 登山

立石山(たていしやま) 出羽三山供養塔(でわさんざんくようとう)

【データ】 立石山 280メートル(地図に山名無し。西根集落の北西280.5三角点の山)▼最寄駅 JR内房線・館山駅▼登山口 千葉県南房総市宮市の西根集落西の鞍部、地図の黒丸印▼石仏 西根集落西の鞍部、地図の赤丸印。青丸は石祠▼地図は国土地理院ホームページより

【案内】 国土地理の地図には、立石山の南の鞍部を通る道が記されている。東の西根から西の増間に抜ける道である。いまその道は不明だが、この鞍部に3基の石造物、出羽三山供養塔・廻国塔・馬頭観音の文字塔が並んでいる。石塔はいずれも東の西根を向いて立つ。廻国塔には「奉納大乗妙典日本廻国 天下泰平日月清明 天明二寅(1782)」。出羽三山供養塔は上部には胎蔵界大日如来の種字・アーンク、その下中央に「湯殿山、(向って右に)月山、(左に)羽黒山」銘があるものの造立年は不明。「馬頭観音」は「明治四未」の造立。
 これまで房総の山中から大日如来と馬頭観音の並立されている山をいくつも案内してきたが、この鞍部には出羽三山や廻国塔もあることから、ここは山ではなく集落の外れだったと思われる。その道は確認できないものの、地図を見ると藪を100メートルも突っ切れば西根の里に出るはずである。
 出羽三山供養塔の山名表記だが、江戸時代は中央に湯殿山、向って右に月山左に羽黒山となり、三山の奥ノ院である湯殿山が中心だった。これが明治以降は中央に月山、左右に湯殿山、羽黒山となる。こうなった経緯はわからないが、後藤赳司氏の『出羽三山の神仏分離』(注1)を読むと、慶応4年の神仏判然令、明治5年の修験宗廃止の布告などの対応で、修験から神道にかわった天台系羽黒山・月山と、仏教にこだわった真言系湯殿山の差が、そうなった要因の一つだったことがわかる。神仏混淆の修験から神道を選んだ後に待ち受けたのが神名と社各。とくに社格は御上から与えられるもので、神社の運命を左右した。つまり明治7年に太政官が下した月山の社格は「国幣中社」、これに対して神道になるのをためらった湯殿山は格下の「国幣小社」だった。神名と社格に非常に敏感だった当時である。これ以後、出羽三山の石塔を立てるとき格上の月山が中央にくるのは、当然であった。
 よって、鞍部にある出羽三山供養塔には銘はないが、明治以前の造立となる。
(注)後藤赳司著『出羽三山の神仏分離』平成11年、岩田書院

【独り言1】 私がいつも持ち歩いて御守りは、出羽三山の各神社でいただいた御札を一緒にしたもので=写真上=、湯殿山を中央に置いています。

【独り言2】 石造物のある鞍部へは、西根の集落から車で入りました。この道は東の下滝田から来る道と合流し、増間方面は通行止めの看板がありましたが鞍部までは入れました。合流した道脇のコンクリート囲いのなか地蔵菩薩が祀られていました。鞍部から増間方面は土砂崩れで通行不能のようです。

 鞍部から立石山へは、尾根を適当に登ることになります。その途中の二か所に石祠がありますが、いずれも東の西根の集落から道がきています。その一つは「慶應元年(1865)」造立の狛犬まである神域で、正月飾りもありました。もう一つの巨石を利用した神域に古い石祠がありました。房総の山村はどこも信仰深く神仏を勧請して石造物を建てたところですが、この立石山東山麓の西根は特に厚いところという印象です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする