名誉の感覚は、人格の尊厳ならびに価値の明白なる自覚を含む。
… 廉恥心は、少年の教育において、養成せられるべき最初の徳の一つであった。
『笑われるぞ』『体面を汚すぞ』『恥づかしくないのか』等は
非を犯せる少年に対して正しき行動を促す為の最後の訴えであった
名誉の感覚は、人格の尊厳ならびに価値の明白なる自覚を含む。
… 廉恥心は、少年の教育において、養成せられるべき最初の徳の一つであった。
『笑われるぞ』『体面を汚すぞ』『恥づかしくないのか』等は
非を犯せる少年に対して正しき行動を促す為の最後の訴えであった
「誠」より~
「信実と誠実となくしては、礼儀は茶番であり芝居である。
…『武士の一言』と言えば、その言の真実性に対する十分なる保障であった。
『武士に二言はなし』二言、即ち二枚舌をば、
死によって償いたる多くの物語が伝わっている」
「礼」より~
「作法の慇懃鄭重(いんぎんていちょう)は、日本人の著しき特性にして、
他人の感情に対する同情的思い遣(や)りの外に表れた者である。
それは又、正当なる事物に対する正当なる尊敬を、
従って、社会的地位に対する正当なる尊敬を意味する」
今の世に時めく人々は、皆、難のうちどころがない。頭もいいし、才もある。交際も上手で当り障りもない。たいして酒も呑まぬし、女も漁らぬ、すべてがまことに整っている。しかし、さっぱり旨味がない。感激がない。
なにやら、終始忙しそうに働いてはいるが、要するに何をしているのか、どうでもよいような、誰にもできることをやっているにすぎない。過もない不可もなしという類である。そんなのは幾千幾万集まっても、その時代を動かす力とはなり得ない。
それよりも欲しい人物は、もっと手ごたえのある男である。
そういう男には凡人の持ち得ない短所があるだろう。
だが、これがまた魅力である。
ああなんという退屈な人間どもだ
幕末の儒者、春日潜庵(センアン)
般若心経の結論 |
1.眼に見え五感に触れるもの全ての実体は |
2.表面的な存在へのこだわりと執着を捨てて |
3.「空」の世界では、体も心も一切の迷いもない |
4.「空」の世界のエネルギーに一体化して |
「さとり」を平たくいえば次のようになる。
現実の存在は、さまざまな理由(縁)で存在している。それは縁がなければ本当はなにも存在しないということである。
いまの存在も、これが縁となって次の存在に変わっていく。それはどんどん変わっていく。すると、本当の存在などどこにもないことになる。生生流転、人、ものすべては流転し変化していく、そこに真理がある。あるいはその変化を主宰する真理=阿頼耶識がある。
それが真実である、このことを理解するのが「さとり」だ。
また、この「さとり」は、不可称、不可説、不可思議である。しかし、それは筆舌につくしがたい素晴らしいものである。
ただし、この「さとり」に到着するのにはさまざまなもの凄い修行が必要である。人間は次々と生まれ変わり、何万年、何億年という時間をかけなければならない。
通常では到達できない。
今は若い人に限らず、書作品やそれをつくり出す瞬間を見たことがない人がほとんどです。だから、何が美しくて、何が美しくないのかが分からない。ただ、真の美しさは人の心に直接作用するのでしょうか。書作品を見て、ボロボロと涙をこぼす方もいらっしゃいます。
私は人に感動してもらう作品をつくりたいと強く思っています。漢字であれ、かなであれ、ペンであれ、鉛筆であれ、文字の美しさで人に感動をもたらしたいのです。だからこそ、ブログのタイトルを「究極の美を求めて」としています。私の筆文字によって多くの人の心を震わせられるよう、美しく躍動感のある文字を探求し続けていこうと思っています。
「多様性」や「自分をつくる」ということに意識的であるには、どうすればいいのでしょうか?
養老
感覚を訓練する以外にありません。自然と付き合いなさい、モノと付き合いなさいと僕は常々言っています。具体的なものに接して、感覚を訓練し、身体の動きを訓練することです。それが大切だと僕は思っています。
感覚とは、「違い」を発見する力です。それが鈍ると、すべてが同じに見えてしまう。現代人の多くは、自分の感覚が鈍っていることに気づいていないですね。だから僕は、どんどん外に出て行って、身体を使え、感覚を磨けと言うんです。