真夜中の2分前

時事評論ブログ
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嘘と欺瞞にまみれた戦争――集団的自衛権行使事例を検証する(湾岸戦争)

2016-02-28 21:03:04 | 集団的自衛権行使事例を検証する
 ながらく中断していたが、当ブログでは、「集団的自衛権行使事例を検証する」というシリーズをやっていた。
 前半のまとめを書いたところからだいぶ時間が空いたが、このあたりでいよいよ後半をスタートしたいと思う。

 ここからは、90年代に入る。
 前にも書いたが、私見では、この湾岸戦争あたりを境目にして集団的自衛権はやや性質が変わってくる。それまでの事例は、新植民地主義的利権や東西冷戦における陣取り合戦というものが背後にあったが、そうした構図は薄れてくる。さすがに90年代ぐらいにもなるとかつての列強諸国も露骨に植民地主義的な行動はとれなくなるし、冷戦構造が崩壊したことで東西の対立もなくなっていく。そこで、新しい紛争の形が生じることになる。湾岸戦争は、その新しい事例のさきがけといえるだろう。

 ことの発端は、1990年。
 この年の8月2日に、フセイン政権下のイラク軍がクウェートに侵攻する。イラク軍は、またたく間にクウェートを席巻し、わずか6時間で首都のクウェート市を占領。8日にはクウェートを併合すると宣言し、28日にはクウェートを19番目の州とする、とした。
 これに対して、国連は即時無条件撤退を要求。期限までに撤退しない場合には武力行使も辞さないとする国連決議を採択する。
 その撤退の期限とされたのは、1991年の1月15日。結局のところ、その期限までにイラク軍が撤退することはなく、1月17日に、多国籍軍はイラクへの攻撃を開始した。世にいう湾岸戦争のはじまりである。この戦争に敗北し、イラクはクウェートからの撤退を余儀なくされる。

 この経緯だけをみれば、この事例は成功例のようにも思えるかもしれない。
 たしかに、目的が「クウェートをイラクから解放する」ということだとすれば、それには成功している。その意味では、集団的自衛権行使事例のなかでも、小国への弾圧という形以外で当初の目的を果たすことができた数少ない事例の一つではある。国連が本来意図している「集団安全保障」に近いものともいえるだろう。

 だが、いくつか留意しておかなければならない点がある。

 たとえば、そもそもアメリカは、湾岸戦争以前にはフセイン政権を支援していたということ。
 これは、こういった問題に関心をもっている人にとっては常識として知られていることだと思うが、いくらか補足的な説明をしておくと、アメリカによるフセイン支援は、以前ニカラグアの事例で紹介した「イラン・コントラ事件」ともつながっている。
 1970年代末にイラン革命でイランにイスラム体制ができたことで、それを打倒しようとするイラクとの間でイラン・イラク戦争が勃発。欧米諸国は、これを兵器産業にとっての“商機”ととらえ、イラン、イラクの双方に武器を売却して利益を得ていたとされるが、そんななかで起きたのがあのイラン・コントラ事件だった。この“取引”でアメリカがイランに売却した武器はかなりの規模にのぼっていて、それによってイラン側がイラクを圧倒する可能性が出てきた。欧米にしてみれば、イランとイラクがずっと戦争をし続けて武器販売の“お得意さま”でいてくれていることが望ましいのであり、どちらが勝ってしまってはうまみがなくなる。まして、勝つのがイランの側であっては非常に困る――そこでアメリカは、慌ててイラク側を軍事支援し始めた。つまり、アメリカは、自分の勝手な都合でフセイン政権を支援していたのである。このような経緯を考えれば、湾岸戦争について「正義のアメリカが悪のフセイン政権を倒した」などという見方は成り立たないことがわかるだろう。

 そして、危機の発生から開戦にいたる過程においても、いろいろと胡散臭い話がある。たとえば、イラク側は密かにクウェート侵攻についてアメリカに打診していたといわれている。われわれはクウェートに侵攻するつもりでいるが、もしそうした場合、アメリカはなんらかの対抗措置をとるか、と。
 これに対して、アメリカ側は黙認の姿勢をみせた、あるいは、そのようにもとれる発言をした。それを受けて、イラクはクウェートに侵攻したというのである。
 
 また、開戦に先立って“ナイラ証言”というものがあった。
 これは、イラクの侵攻後にクウェートから逃れてきたという少女ナイラが、その壮絶な体験を証言したというものなのだが、その内容は実は虚偽だったことが後にあきらかにされている。実際には、このナイラという少女はクウェートの駐米大使の娘で、イラクの侵攻後に逃れてきたというのはウソだった。アメリカ国民の間に開戦の機運を盛り上げようと、当時のブッシュ政権が画策し、ヒル&ノウルトンというPR会社にでっちあげさせた宣伝工作だったのである。
 にわかには信じがたいような話かもしれないが、アメリカにはこうやって嘘で戦争を始める伝統が昔からある。以前このブログで紹介したベトナム戦争のトンキン湾事件がそうだったし、大量破壊兵器があるといってはじめたイラク戦争もそうだ。この伝統は、古くは今から100年以上前の米西戦争にさかのぼるともいう。その背景には、「たとえきっかけが嘘であったとしても結果がよければ別にかまわない」という考え方があるともいわれる。そして、湾岸戦争もその延長線上にあるのだ。

 このように、湾岸戦争はそこに至るまでの経緯に嘘や欺瞞が散見される。
 こういったことを考えれば、「アメリカを中心とする正義の多国籍軍が悪のイラクをやっつけた」というような単純なものではない。
 そして、湾岸戦争によって生じた状況は、その後のイラク、もちろん現在のイラクにまでつながっている。今のイラクの状況をみれば、湾岸戦争を本当に“成功例”と呼んでいいかどうかも疑わしくなってくるのである。

戦争放棄は日本人自身の手によるもの

2016-02-26 17:27:01 | 政治
 昨夜の報道ステーションをみていたら、面白い特集をやっていた。戦後、日本 国憲法をつくる過程で、幣原喜重郎が戦争放棄を提案したのだという。以前から いわれている説ではあるようだが、その一つの証拠となる資料が出てきたという 話だ。 そういうわけで、今回は久しぶりに歴史ネタとして、幣原喜重郎について書いてみたい。

 幣原といえば、駐米大使としてワシントン軍縮会議に出席し、後に若槻内閣で 外相をつとめた人物である。外相としては「協調外交」路線をとり、日ソ国交回 復(戦前の)にあたり、保守派の強い反発を呼んだが、それでも国交回復を実現 した。それは、日本を孤立化させないための国際協調路線だった。

 また、昭和2年の南京事件の際には、不干渉路線をとって、「軟弱外交」とも 批判された。 このあたりのことは、現代にもつながる論点をふくんでいると思うので、その後の経緯について少し書いておきたい。

 時は昭和3年。 南京事件の直後に、台湾銀行問題で若槻内閣は総辞職。当時の慣行で政権交代 となり、「軟弱外交」を批判していた政友会の田中義一が首相となる(外相も兼 務)。 政友会政権は、民政党政権の協調外交とは反対の「積極外交」を打ち出し、そ れに基づいて、3次にわたる山東出兵を行った。そして、そのうちの第2次出兵 では、「済南事件」と呼ばれる軍事衝突を引き起こすことになる。こうした行動 が結局は中国の抗日運動を激化させ、張作霖爆殺事件もあって、対中国外交は完 全に行き詰る。張作霖爆殺事件や、それとほぼ同時期に起きた万宝山事件などで 対中関係は悪化の一途をたどり、その緊張状態はついに満州事変となって爆発し、日本は泥沼の戦争に突き進んでいったのだった。

 南京事件では、南京の日本領事館も襲撃を受けて、略奪に遭ったうえに多くの 負傷者を出した。そんな状態でなんの行動もしないのはけしからんといって出兵 したのが田中義一の「積極外交」なわけだが、その行動の結果、日本は中国との 関係を悪化させ、それが太平洋戦争にむかっていく一つの伏線ともなっているの である。 こうした経緯をみたとき、幣原の「協調外交」と田中の「積極外交」はどちら が日本にとってよかったのだろうか。 そして、この歴史から現代の問題を考えると、対中国、対北朝鮮といったところで強硬路線をとることの危険を私は感じずにいられない。むこうが敵対的な行 動をとってきたからこちらも対抗して強硬路線をとる――というのは、そのときは 溜飲を下げられていいかもしれないが、後に重い対価を払わされることになりか ねないのだ。

 突然だが、私は、複雑な事情があってアメーバでもブログをやっている。 最近そちらのブログでも書いたのだが、第一次世界大戦後に、それまでの「勢 力均衡」の考え方では戦争は防げないという反省から、国際協調の枠組みが作ら れてきた歴史がある。幣原の「協調外交」は、その国際協調の枠組みに沿ったも のなのだ。ワシントン軍縮会議もそうだし、日ソ国交回復もそうで、いずれも、 国際協調を優先させるために日本はかなりの譲歩をしている。 しかし、世界史的にみて、その「集団安全保障」体制は、残念ながらうまく機 能しなかった。 それは、その枠組みに加わることがもっとも必要とされる国々が最初から国際 連盟に加盟していなかったり脱退していったりしたということも大きな要因だろ う。そして、日本に関して言えば、幣原外交を「軟弱」と批判したような人たち こそが、国際協調の枠組みをなし崩しにして日本を二度目の世界大戦に引きずり 込んでいったのである。

そして、その大戦争で焼け野原になった日本で、幣原喜重郎は総理大臣として 再び表舞台に登場する。 ここまでの歴史的経緯を振り返れば、彼が“戦争放棄”を憲法に取り入れるべき だと主張するのももっともなことである。おそらく幣原は、軍事に頼る外交が結 局は世界を大戦争に導いたという事実から、武力によらない国際的な協調体制の 必要を痛感していたのだろう。それが“戦争放棄”という提案になったのではない か。 「マッカーサーが幣原が提案したことにさせた」という見方もあるようだ が、幣原喜重郎という人の来歴を考えれば、彼が戦争放棄を提案したということ は十分にありうるだろう。 そしてそうだとすれば、憲法9条は、押しつけなどではなく、日本人みずから が日本の歴史にもとづいて作ったものということになる。今年は日本国憲法が誕 生してから70年となるが、その憲法の謳う平和主義の理念がかつてない挑戦に あっているいま、その価値をもう一度評価しなおしてみるべきではないだろう か。

政権構想など必要ない いま日本政治に必要なのは、安倍政権の退場

2016-02-24 20:02:46 | 日本を守るためのアクション 2016
 民主党と維新の党が合流にむけて大筋合意した。
 3月中にも、合流して新党を立ち上げる方向で動いていくという。
 両党への支持率などを見るとその効果は未知数であるが、参院選にむけた野党共闘の一環として、この動きをひとまず支持したいと思う。
 一方、共産党は、一人区でかなり大幅に候補者を取り下げる意向を示しているようで、野党共闘はかなり進展してきた。

 この動きを、菅長官は批判している。
「政策の異なる政党間の選挙協力を進める、ましてや政権構想もないとすれば、そうした行動は有権者からどのように映るかというのは、極めて疑問ではないのかなと思う」というのである(TBS Newsiより)。
 いつもながら、まったく的外れな批判である。
 私にいわせれば、いまこの状況で、野党の選挙協力に政権構想など必要ない。

 これは、緊急避難的な措置である。
 憲法なんか知ったことじゃない、俺がルールだ、といわんばかりのゴーマンな政治をすすめる安倍政権がこのまま存続し、社会を根っこから破壊していくことが、いまの日本が直面している最大の危機であり、野党がばらばらになっていることでそれを続けさせてしまっている状態こそ、解決しなければならない最大の課題であると私は考える。
 とにかく、立憲主義や民主主義といった、民主的で自由な国家であるための最低限の基盤を破壊しようとしている安倍政権をストップすることが日本政治喫緊の課題なのであって、そのためには政権構想などといっていられない。この危険な流れから日本を守ろうという勢力は、細かい違いはわきにおいて、まず安倍政権の暴走を止めるという一点で結束するべきである。その意味で――私は必ずしも民主や維新を支持しているわけではないが――今回の合意は支持したい。

アベノミクスはどこへむかうのか

2016-02-24 19:51:07 | 政治・経済



 先日発表された昨年10-12月期のGDP成長率が、マイナスとなった。前期は当初マイナスで後に修正されてプラスになったが、今期もまたマイナスの数字が出た。アベノミクスの失速はあちこちで指摘されているが、これはもう本当にやばいところにきているのかもしれない。そこで今回は、あらためてアベノミクスについて考えてみたい。

 まずはじめに書いておきたいのは、このブログでは以前に一度紹介した北岡孝義・明治大学教授の予言である。
 北岡氏は、著書『アベノミクスの危険な罠』(PHP研究所)のなかで、アベノミクスの効果についてシミュレーションしてみた結果、その効果は2年半ほどしかもたないという結果を紹介している。そして、アベノミクス開始から2年半というのは、去年の夏ぐらいになるわけだが、そこからの3期のうち2期がマイナス成長に陥ったというのは、はたして偶然だろうか。アベノミクスは、もう崩壊しつつあるのではないか。

 ついでなので、ここからしばらく、北岡氏の著書を参考にして、書いていきたい。

 この本のなかで北岡氏はアベノミクスの「異次元緩和」を鋭く批判しているが、特に問題視されているのは、アベノミクスが「打ち出の小槌」であることだ。
 日銀は、いくらでも紙幣を発行できる。だから、いくらでも市場にマネーを供給し続けることができる。だが、なんの代償もなしにそんなことを続けられるはずがないというのは、少し分別があればわかることだろう。
 こういうやり方には、当然ながら代償はある。それは、そのようなやり方が通貨の信認を破壊してしまうということだ。

 極端な例で考えてみると、それはよくわかる。
 たとえば、政府が高額な硬貨を発行するということは可能である。紙幣を発行できるのは日本銀行だけだが、硬貨は政府が発行できる。ということは、やろうと思えば、一兆円コインを発行して、それで借金をさっぱり返済することだってできるわけである。だが、それをやれば通貨の信認は崩壊する。だから、どこの国でもそんなことはやらない。
 このような極端な例を考えてみると、通貨を大量に発行して赤字を埋めるというやり方の問題点が見えてくる。もちろん、表向きには“異次元緩和”は物価上昇が目的であり、赤字の穴埋めというふうにはいっていないわけだが、実質的にそうだと見られればどうなるかということが問題なのである。
 “信認”は目には見えない。
 その目に見えない信認を掘り崩すことによるリスクも、目に見えない。だから、その危険さが認識されていない。
 もし政府が一兆円コインを千枚発行して、それで借金1000兆円を返済したら。
 それで借金は返済できるかもしれないが、もはや誰もその通貨を信用しなくなるだろう。円の価値は暴落し、経済は大混乱に陥るだろう。基本的に、アベノミクスの異次元緩和というのは、それと同じことなのである。

 では、信用はどうやったら維持できるかというと、そういう無節操なやり方はしない、ということで維持されるのである。日銀がある程度政府から独立していて、政府が無茶なことをやろうとしてもそれには応じない。そういう姿勢を示してこそ、通貨の信認は維持される。
 北岡氏によれば、アベノミクスがはじまるまで、日銀は「打ち出の小槌」をふるって大量にマネーを供給するというようなやり方には消極的だった。その事実が、円の信認を支えていたという。そこを破ってしまったということは、円の信認が崩壊するリスクが日々上昇していっているということなのだ。「リスクは目には見えない」ということが、そのことの危険を認識しにくくしている。

 小難しい話になったが――結論としてはこういうことだ。
 もし仮に、近い将来、国債が暴落して日本の財政が破綻状態に陥るというような事態が生じたとしたら、それはアベノミクスによって引き起こされたものである可能性がある。そうなる可能性を、アベノミクスがはじまった当初の時点で指摘していた専門家がいる。そのことは、いまのうちにいっておきたい。姑息な総理大臣が後であれこれ屁理屈をこねて言い訳をするような場合にそなえて。


 そしてもう一つの問題として、緩和策には“限界”が存在するのではないかということも、最近よく指摘されるようになった。
 周知のとおり、現在の緩和は、すでに発行されて市中にある国債を日銀が買い取るというかたちで行われている。物価上昇を達成するまで、年間80兆円ぶんの国債を買い取るというのである。
 だが、当然ながら、すでに発行されている国債というのは無限に存在しているわけではない。額にはかぎりがある。そのすべてを買い取るというところまではいかずとも、民間銀行の側がいずれ国債を売り渋るようになるのではないかといわれている。国債が資金調達の際の担保になっているとか、リスクウェイトで自己資本比率がどうだとかややこしい事情があり、銀行は銀行で、保有している国債をいくらでも売り払っていいわけではない。したがって、手持ちの国債がどんどん減っていけば、ある一定のラインを超えたところで「もうこれ以上は売れません」となる可能性が高い。そうなれば、緩和策は終了せざるをえない。国債の発行残高は1000兆円あまり。毎年2、30兆円ずつ増え続けているとはいえ、上に述べたような事情を考慮すれば、年間80兆円国債を買い取っていくというのをそう長く続けることはできなさそうである。これについて、IMFの研究員は、2017年から18年ぐらいに限界を迎えると予想したという。もしそのリミットがやってきたときに物価上昇目標を達成できていなかったら? そのときは、もう完全に詰みである。

 ことのついでに、アベノミクスがよってたついわゆる「リフレ」という発想が根本から間違っているのではないかという疑念も表明しておきたい。
 リフレとは、一般的に「期待インフレ率を高めることで実質金利を低下させる」というふうに説明される。
 インフレは借金負担を軽くするので、将来インフレが起きると予測されれば「実質的な金利」は名目上の金利よりも小さいことになり、お金が借りやすくなる――という理屈である。しかし、本当にこれで銀行が融資を増やすようになるのかは疑わしい。以前マイナス金利についての記事でも書いたが、お金の借りやすさ、借りにくさというのは、お金が動かないことへの根本的対処にはならないし、また、貸す側からすれば利ザヤがほとんど見込めない状況では安全・確実な融資先にしか投資できないということになり、金利の低下は――それが“名目的”であろうと“実質的”であろうと――むしろ融資をしぶる原因にさえなりうる。というか、現状はかぎりなくそちらに近いのではないか。やはり以前書いたが、マイナス金利を導入したというのも、つまりは「リフレ」が理屈どおりに機能していないがために、そういうトリッキーな手法をとらざるをえなくなったとも見られているのである。

 また、リフレの構図を一般消費者にあてはめて、「期待インフレ率によって消費意欲が高まる」というふうな説明がされることもある。
 つまり、将来モノの値段が上がりそうだという雰囲気が世間に広がると、値段が上がる前に買ったほうがいい、ということになり、人々がモノを買うようになる。そうすると企業の業績が上がる。従業員への給与も増え、インフレが進み、消費はさらに活発化する――そういう正の循環が生じるというわけである。この理屈がアベノミクスの説明としてどの程度妥当なのかはわからないが、しかし、これも本当にそういう効果があるのかは疑わしい。
 いまの世の中をみて、そういう“正の循環”が生じているように見えるだろうか?
 将来モノの値段が上がりそうだということになったら、「いまのうちに買う」という選択肢とは別に、「そもそも買うこと自体をあきらめる」という選択肢もある。いまの消費者は、ほとんどが後者のほうをとっているのではないか。日本のような成熟した消費社会にあっては、「これはなんとしても買いたい」というような強い需要があまり存在しない。テレビ、冷蔵庫、車といったちょっと高い買い物は、買い替え需要がほとんどで、そういったものは買わなくてもしばらくは大丈夫な場合が多く、「お金に余裕があったら買ってもいい」という程度の需要にしかならない。そんな「お金があれば買ってもいい」というぐらいの消極的な需要では、「物価があがるなら今のうちに」というような消費行動にはつながらないだろう。将来に対する不安が、むしろ、消費者を「不必要な出費はなるべく避けよう」という心理にさせているのが実態ではないか。実際、今月内閣府が発表した消費動向調査では「消費者態度指数」が低下しているし、「景気ウォッチャー」の調査でも景気実感は悪化している。その調査では、来年の消費税再増税を意識して消費者は財布のヒモをかたくしている、という意見もあったという。
 そして、それはお金がある人の場合の話だが、世の中にはもっと切実に「お金がない」という人もいる。そういう人は、ない袖はふれないのだから、期待インフレ率がどうなろうとお金を使いようがない。この点について、連合総研の調べによると、世帯収入の半分以上を稼ぐ非正規労働者の2割が、食事の回数を減らすなどの行動をとっていたという。食事の回数を減らすほど生活を切り詰めている人たちが、無駄な消費などしようはずもない。
 こうした事実を踏まえれば、アベノミクスの方法論は、その根底から間違った方向を向いているのではないか。


 そして最後に、もう一つ北岡氏の著書に書かれている論を紹介しておきたい。
 北岡氏は、アベノミクスを、高橋是清によるいわゆる“高橋財政”の再来であると指摘している。高橋財政は、浜口雄幸内閣の緊縮策が失敗に終わったことから積極財政に転換したものだが、それは結果として軍部の暴走を財政的に支援することになった。アベノミクスも、基本的な考え方は高橋財政と同じであり、それが「軍事」部門の膨張につながるおそれがある。
 当ブログでも何度か取り上げたが、今年度の防衛予算は5兆円の大台を突破する見通しである。これからさらに膨れ上がっていく防衛予算を「打ち出の小槌」がファイナンスするということになったら、それはまさに高橋財政の負の側面が繰り返されることになりかねないのではないか。

丸山議員の仰天発言 日本まるごとアメリカに献上?

2016-02-21 20:10:47 | 安倍政権・自民党議員の問題行動
 自民党の議員らの失態が相次ぐ中、丸山和也参院議員から、仰天の発言が飛び出した。
 参院の憲法審査会において、「日本がアメリカの51番目の州になることに憲法上の問題があるのかないのか」などといい、しかも、人種差別ともとれる発言をしたのである。

 私はこの手の失言に関してあまり揚げ足取り的なことはいわないようにしているつもりだが、しかし今回の丸山発言はなかなかのトンデモ発言といわざるをえない。
 この件に関して、朝日新聞の電子版は該当部分の発言を編集ナシで掲載した記事をアップしている。
 「発言の一部を切り取られた」というようなことをいう政治家がいるからだろうが、朝日の電子版では、物議をかもすような発言があったときには、よく編集なしで発言を丸ごと掲載するということをやっている。その記事で件の発言を読むと、丸山議員はアフリカ系の人に対する差別意識を持っているんじゃないかと思えてくるのである。
 「奴隷の血を引く」といっているところも問題視されている。
 オバマ大統領はケニアにルーツがあって、昔アメリカに連れてこられた黒人奴隷の子孫ではないといわれている。仮に黒人奴隷の子孫であったとしたところで丸山発言が問題であることには変わりはないと思うが、しかも事実でないのである。この文脈だと、話がアフリカ系一般に広がっていて、聞きようによってはアフリカ系の人種全体を奴隷扱いしているようにもとれてしまう。

 また、「日本がアメリカの51番目の州になったら……」というのも、驚きだ。
 これも発言全体を読むと、割り当てられる議員定数のこととか「日本自体がいくつかの州にわかれるとすると」とかかなり詳しく具体的にあれこれいっていて、ただの冗談とも思えない。結構本気で考えているらしいのである。この発言に先立って丸山議員は「ややユートピア的かもわかりませんけれど」といっているのだが、アメリカの一部になるのが「ユートピア」だというのが私にはまったく理解できない。これはむしろディストピアだろう。
 まあ、どこまでもアメリカ追従の安倍自民党だから、日本まるごとアメリカに差し出しますと言い出したとしても別に驚くべきことでもないのかもしれないが、それにしても、ネトウヨの人たちはこの“売国”発言をどう思っているのだろうか。