真夜中の2分前

時事評論ブログ
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沖縄を返せ――安倍政権、辺野古新基地建設強行の横暴

2015-10-31 00:33:53 | 沖縄
 政府は、とうとう辺野古の基地建設にむけた工事に着手した。
 当然ながら、地元では猛烈な反発がおき、車両の前に反対派の市民が体を張って立ちふさがるなど、まるで天安門事件さながらの光景である。強制排除する警察に対して、反対派は「沖縄を返せ」という歌を歌って抗議したという。恥ずかしながら私は知らなかったのだが、そういう歌があるそうだ。
 沖縄県民でもない私ではあるが、沖縄の声が一人でも多くの人に届くように、その歌詞をここで紹介しておきたい。

 
 固き土をやぶりて
 民族の怒りに燃える島
 沖縄よ
 我らと我らの祖先が
 血と汗をもて
 守り育てた 沖縄よ
 我らは叫ぶ 沖縄よ
 我らのものだ 沖縄は
 沖縄を返せ
 沖縄を返せ


 今回の工事着手は、そもそも存在するかどうかも疑わしい“抑止力”なるもののために沖縄の海とそこに住む人々の暮らしを破壊する暴挙といわなければならない。
 私はかねてから、“抑止力”という発想の疑わしさについてこのブログで書いてきた。もう一度繰り返すが、20世紀前半までのヨーロッパでは、ほとんど絶えることなく戦争が繰り返されてきた。それは、みながありもしない“抑止力”という幻想にとりつかれて、「抑止力を強化する」といって軍備を増強し、他国と同盟を結んだりして、結果としてはむしろ軍事衝突を起こすリスクを高めてきたためではないか。むしろ、第二次大戦以降、そういうことをやめたからヨーロッパでは戦争が起きなくなったのではないか。
 その実例として、以前も紹介したエピソードのいくつかを再び紹介しよう。
 いまから100年ほど前に「日英同盟」が結ばれたとき、当時のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は「これで戦争は回避された」といったという。日本とイギリスが同盟を結んだことによって、抑止力が高まるためにロシアとの戦争は未然に防がれたというわけだ。しかし、実際にはその2年後に日露戦争が勃発した。後から振り返れば、日英同盟は「戦争を事前に防ぐ」どころか、むしろ日露開戦の決定的なステップだった。
 また、かつてベトナムが南北に分断されていたとき、アメリカは南ベトナムを支援し、軍を駐留させていた。しかし、それによって戦争が防がれるということにはならなかった。むしろ、駐留している米軍の側が戦争を起こしたのである。そして、その戦争に敗れて南ベトナムは消滅した。
 このような事例を見れば、「米軍駐留によって抑止力で軍事衝突を防ぐことができる」という発想が非常に疑わしいものであることがわかるだろう。


 そして――これもこのブログでは何度か書いてきたことだが――そもそも本当にわれわれを脅かすものは何なのかということを考えなければならない。
 北朝鮮や中国の脅威があるから抑止力が必要だというが、そのような強大な軍事力をもった国同士が互いに近代兵器をフルに駆使して戦うような戦争は、これまでにほとんど起きたことがない。弾道ミサイルやらイージス艦やらを互いに出しての戦争ということになると、皆無である。国家同士の全面戦争というのは、現代においては起こる可能性がきわめて低いリスクなのだ。それに対して、国家の横暴によって地方自治体の主権やそこに暮らす人たちの人権が侵害される事態は、いま現に生じている。そしてこれは、沖縄だけの話にはとどまらない。これがまかりとおるとなれば、来年あなたの住む町に同じようなことが降りかかってきてもまったく不思議ではない。そういう、現実的なリスクだ。われわれは、いったいどちらをおそれるべきなのか。
 答えはあきらかだろう。政府がいま沖縄に対してやっているような横暴は、絶対に許されてはならない。

行動しよう。自由のために

2015-10-28 18:17:35 | 政治・経済
 今回は、最近気になった二つのニュースについて書く。

 一つ目は、ジュンク堂が安保法関連のコーナーを撤去したという話。
 「自由と民主主義のための必読書50」というブックフェアを行っていたが、このフェアについてのツイッターでの発言が抗議を受けたためという。
 以前、学校の図書館におかれていた漫画『はだしのゲン』が、抗議を受けて校長室に下げられていたという話があったが、それに通ずるものがあるように思える。たった一人からクレームを受けただけで図書館の本を撤去してしまうということのおそろしさを感じたものだが、そうしたことが大型書店でも起きた。ジュンク堂だから報道されたが、もしかするとこれは氷山の一角で、もっとあちこちで同じようなことがおきているのかもしれない。

 二つ目は、立教大で、安保関連のシンポジウムの開催を大学側が拒否した件。
 「岐路に立つ日本の立憲主義・民主主義・平和主義」と題されたシンポジウムである。これに立教大学の講堂使用を申請したのだが、大学側が拒否した。そもそも、学外の団体には使用を許可しないからだというのが、大学側のいいぶんである。
 それだけ聞くともっともなようにも思えるが、一部報道では、「政治的な意味をもちうる」ためとの指摘があったためともいう。
 たとえば朝日新聞電子版の記事があるが、その記事によれば、立教大には講堂の使用に関して「学外の宗教、学術、教育、芸術、その他学校が適当と認めた会合に限り許可する」という決まりがあるという。
 この説明にも、疑問がわいてくる。学術・芸術はよくて、なぜ憲法や平和主義について語ることはダメなのか。それに、そのきまりには“その他”というカテゴリーがちゃんと設けられているわけだから、「純粋に学術とないえないから」というのは理由にならない。純粋に学術的でなくとも大学側が「適当と認め」れば許可できるのであって、講堂使用の拒否は、大学側がシンポジウムを「その他学校が適当と認めた会合」とみなさなかったということにほからなないのである。そして、「政治的」であることをもって「適当でない」と判断したのなら、それは大いに問題があるだろう。いったい、大学は、政府が進める政策に反対するようなことをいってはいけないとでもいうのだろうか? それでは、“学問と良識”の自死ではないか。
 こうしたことが積み重なって、自由は侵蝕されていくのではないか。そして、気がつけばいいたいこともいえない世の中になってしまうのではないだろうか。

 ここで、本稿のタイトルについて。
 この記事を書く際に「講堂使用」と打ち込もうとして変換したら、「行動しよう」と出た。なかなか気の利いた誤変換だ。まるでパソコンに促されているようでもあり、それをタイトルにすることにした。決して、ただの駄洒落ではない。

 あの“元”自民党・武藤議員の騒動や自民党の憲法草案が教えてくれるのは、自由というものが気に食わなくて、すきあらばそれを縛ろうとしている政治家が少なからず存在しているということだ。である以上、自由というのは放っておいてもいつでもそこにあってくれるものではない。それを守り、ときには勝ちとるための行動を起こさなければ維持できないものなのだ。
 自由を守るためには、行動が必要だ。そういう自由の“危険水位”に、いまの日本はもう入り込んでいる。そんな今だからこそ、声を大にしていいたい――行動しよう。自由のために。

沖縄を“植民地”扱いする安倍政権の非道

2015-10-27 22:50:42 | 沖縄
 政府が、辺野古の3地区に直接振興費を支出する。
 朝日新聞電子版によれば、26日、辺野古の豊原、久辺、久志の3地区の代表者らを首相官邸に招き、菅官房長官が年内に振興費を支出する意向を伝えたという。辺野古の新基地建設に沖縄県も名護市も反対するなか、それらの自治体を通さず頭越しに直接振興費を出すことで、3地区を移設賛成の側にまわらせる意図がある。
 札束で頬をはたく、あまりにも露骨で卑劣なやり方である。
 そしてまたこれは、単に懐柔策というだけでなく、沖縄側を分断するための工作でもある。
 今回のこの報道を聞いていると、かつてインドネシアを植民地支配していたオランダのやり方を思い出す。
 オランダは、19世紀にインドネシアのアチェ王国に侵攻する際、ジャワなど近隣にある植民地の兵士を多数投入した。それによって、植民地内の民族同士を対立させ、統一意識を持たせないようにしたのである。
 いま安倍政権がやっていることは、構図としてはそれと同じだ。沖縄の内部で対立を起こさせ、それを利用して沖縄の結束を乱そうとしているのである。これでは、まるで百年以上前の植民地統治だ。彼らの沖縄に対する差別意識は、もはや沖縄を“植民地”視するレベルといっていい。こんなとんでもない連中が政権を握っているということを、日本国民はおそれるべきである。

 沖縄側の埋め立て承認取り消しに対して、政府側は、国土交通大臣がその効力を停止した。
 以前にも似たようなことがあったが、政府内の機関が政府の方針を審査するというデキレースを、安倍政権はまたしても繰り返している。そしてそれだけにとどまらず、さらには、地方自治法に基づく是正の勧告・指示、代執行にむけた手続きに入る方針という。アメリカにはへいこらして、沖縄に対しては威圧的に対応する――弱いものいじめばかりしている安倍政権の体質が如実にあらわれた行動といえるだろう。こんな暴虐を許していたら、中国がどうの北朝鮮がどうのという前に、安倍政権によって日本社会が破壊されてしまう。いい加減、この暴君政権をなんとかしなければならないときだ。


追記:本稿を書くにあたって、 “振興費”と打ち込もうとしたら、“侵攻費”と誤変換された。しかしこの変換も、あながち間違いではないのかもしれない。

まだまだ終わらない、みんなデモ

2015-10-25 19:09:49 | 安保法廃止を求める抗議行動


 本日10月25日、福岡市中心部で集会、デモが行われた。
 安保法採決後初となる「みんなデモ」である。最近あまりこういった行動に参加できずにいたのだが、今回は私も参加することができたので、その様子を紹介する。



 今回出発地点となったのは、長浜公園。
 ここで集会が行われ、そこからデモで警固公園へむかった。



 参加したのは、主催者発表で200人ほど。
 決して多いとはいえないが、夏に天神で行われていたデモの規模を考えれば、それほど減っているともいえない。安保法の採決からすでに一ヶ月以上が経っていることを考えれば、なかなかの人数だろう。安保法に反対する声は、まだまだ衰えていないのだ。



 デモのゴールとなった警固公園では、参加した団体がそれぞれに旗を掲げて並び立った。FYM、「女たち」、「ママの会」など主要な団体が勢ぞろいした様子は、なかなか壮観である。

 この場で、複数の団体が今後の行動についての告知を行った。
 「戦争法を廃止する会」はこれから月イチでデモを行ってくなど、もう完全に来年の参院選に向けて、具体的なスケジュールが組まれている。どこの団体も、あきらめる気配など微塵もみせいてない。安保法廃止、安部政権打倒を求める声は、今後も衰えないだろう。そのうねりが、安倍政権を崩壊に追い込む日が一日でも早くやってくることを期待したい。

怒りのアフガン――集団的自衛権行使事例を検証する(ソ連によるアフガン侵攻)

2015-10-21 20:00:42 | 集団的自衛権行使事例を検証する



 集団的自衛権の行使事例を検証するシリーズの第4弾として、今回は、ソ連によるアフガン侵攻をとりあげる。アフガンについては、2001年にNATOなどが介入したケースもあるが、その件はまた別にとりあげることにして、ここではソ連のことだけを書く。

 アフガニスタンは、「ソ連のベトナム」ともいわれる。
 アメリカがベトナムに介入して国力の衰退を招いたのと同様に、ソ連もアフガンに侵攻したことで国力を衰えさせた。この戦争もまた、多大な犠牲の末に目的を果たすことができず、しかもソ連そのものの崩壊につながったという意味で、集団的自衛権行使事例のなかで、ベトナム戦争に並ぶ失敗例といえるだろう。

 まずは、簡単に歴史的経緯を説明する。

 アフガンは、その地政学的な重要性のために、古来から多くの国が勢力争いの舞台としてきた地域である。
 かつてのモンゴルや、その流れを汲むムガル帝国、ペルシャのサファヴィー朝などが、この地をめぐって争いを繰り広げてきた。
 19世紀頃になると、そこにイギリスとロシアが加わる。南下のルートを確保したいロシアとそれを防ごうとするイギリスの争いは“グレートゲーム”と呼ばれ、日露戦争などもその一環だが陸路での南下ルートとしてロシアが目をつけたのがアフガンであり、それを防ごうとするイギリスとの間で、激しい争奪戦となった。結末としては、ほかの地域でもそうだったようにイギリスの側が勝利をおさめ、アフガンは実質的にイギリスの支配下におかれることになる。
 その後、半植民地状態が続くが、中東諸国などと同様に、アフガニスタンも20世紀になると独立を果たす。しかし、その地政学的な重要性は変わらず、第二次大戦後には、おなじみの冷戦の構図でふたたび大国間の覇権争いに巻き込まれることになる。
 この1970年代の勢力争いでは、ソ連の側がひとまず勝利をおさめ、1978年、「サウル革命」によって、ムハンマド・タラキーを首相とする社会主義国家「アフガニスタン民主共和国」が誕生した。
 しかし、そのまま社会主義政権で安定するというわけには行かなかった。
 革命以後のアフガンは混迷していた。タラキー政権の急進的な政策はイスラム教徒たちの反発を招き、各地で“ジハード”と呼ばれるゲリラ戦が展開されるようになる。そしてそんななか、1979年に、かねてから権力の座を狙っていたアミンが、クーデターを起こして政権につく。アミンは、「民族共産主義者」としてアフガン民族の自決権を重視する立場から、ソ連と距離をおく方針をとり、のみならず、経済援助を得るためにアメリカに接近しようとする動きをみせた。
 このときのソ連は、ブレジネフ政権の時代。この不穏な動きに対して、アフガニスタンを東側陣営にとどめてくために、ブレジネフはただちに軍事介入に踏み切る。「集団的自衛権の行使」として、アフガニスタンに軍を投入し、アミンを殺害。そのうえで、親ソ派のカルマルを政権につかせたのだった。

 以上が、ソ連介入にいたるまでの簡単な歴史である。
 その経緯から、このケースは、冷戦期の陣取り合戦というパターンに属するといえる。そういう意味で、同じくソ連が行ったハンガリー侵攻やチェコ侵攻と同じ構図といえるが、もちろん異なる点もあった。それは、軍事介入で話が終らなかったということである。アミン体制打倒は、ソ連にとって泥沼の戦争のはじまりでしかなかった。

 そもそも、ここにいたるまでのアフガニスタンの政情は、単純なものではなかった。
 先述のとおり、社会主義体制に反発するイスラム教徒たちが激しい反政府運動を行っており、その「政府VS反政府ゲリラ」という対立と並行して、政府内部で親ソ派とそうでないものたちが反目しているという複雑な構図があった。そこに介入していったソ連は、アミンを倒したはいいものの、“イスラム聖戦士(ムジャヒディン)”たちと戦わなければならなかったのである。
 その戦いがはじまると、ちょうど、この十数年間のアメリカと同じ状況がソ連を待っていた。
 最大で12万人にものぼる兵士を派遣し、激しい空爆を加えたが、ムジャヒディンたちはいっこうに勢力が衰える気配をみせなかった。それもそのはずで、アメリカを中心とする西側陣営が、ムジャヒディンたちを後方から支援していたのである。
 「鉄のカーテンは鏡にすぎない」とサルトルはいったが、まさにこれは、ベトナムの共産主義勢力をソ連や中国が支援していたのをそっくりそのまま鏡に映したような図だ。こうして、いくら攻撃してもまったく衰えない敵を相手にして、ソ連は底なしの泥沼にはまり込んでいくのだった。
 結果としては、ソ連はアフガン情勢を好転させることができないままで撤兵をせまられる。
 80年代後半になると、ゴルバチョフ大統領によるペレストロイカという時代背景もあり、アメリカの「ベトナム化」政策と同様、ソ連もまた、軍を引き上げさせて間接的に支援するという方向に舵を切ったのだった。
 これも鏡に映したようにそっくりな展開で、アメリカのベトナム支援が失敗したように、ソ連のアフガン支援も思うようには行かなかった。ソ連軍の撤退後、ムジャヒディンたちはみずからの政権樹立を宣言。アフガニスタンには二つの政権が並び立つという内戦状態になった。
 そして、これまた南ベトナムの場合と同様に、ムジャヒディンたちと対立するナジブラ政権は、それ以降ソ連の支援を受け続けることはできなかった。だがそれは、アメリカの場合のように、政治の論理で援助が打ち切られたからではない。ソ連自体が崩壊してしまったためだ。

 ソビエト連邦が崩壊したのは、1991年のこと。
 その原因はいろいろあるだろうが、一つには、アフガンでの終わりの見えない戦いがソ連を疲弊させ、連邦解体の間接的な原因になっているともいわれる。つまり、ソ連は、集団的自衛権によって自国を防衛するどころか、集団的自衛権を行使したことによって国家の崩壊を引き起こしてしまったことになるのである。
 もう少しいえば、東欧諸国での民主化運動の高まりもソ連崩壊の原因のひとつだが、かつてソ連はそれらの運動を弾圧していた(当ブログ「プラハの春」参照)。チェコやハンガリーへの介入は集団的自衛権の行使として行われたわけだが、結局これらの介入も、民主化運動を完全におさえ込むことはできず、東欧諸国で一気に噴出した民主化運動が連邦衰退に拍車をかけた。そういう意味でも、集団的自衛権は自分の国を守るという役割を果たせていないのである。

 一方、ソ連という後ろ盾を失ったアフガニスタンのナジブラ政権は、もはや政権を存続させることができず、1992年にナジブラは辞任、その後の内戦状態を経て、1994年にタリバン政権が誕生することになる。結論としては、ソ連が集団的自衛権の行使として行ったアフガン侵攻は、ソ連にとって「自衛」の目的を果たすどころか、むしろ体制崩壊の一因となり、介入を受けたアフガンでは、タリバンという過激派政権を生み出すことになったのだった。

 そして、アフガン侵攻の失敗はこれだけにとどまらない。
 先述のとおり、ソ連のアフガン侵攻に対して、西側諸国はムジャヒディンたちを支援していたが、そのときアメリカが支援していたムジャヒディンのなかに、かのオサマ・ビンラディンがいたことは周知のとおりである。
 ビンラディンだけでなく、各地の過激派イスラム教徒がこのアフガンでの“聖戦”に参加した。そして、それから彼らはイスラム世界の各地に散って、過激主義を拡散させるという結果になった。その後継者たちは、今でも中央アジアから北アフリカにまたがる広い範囲でテロリストとして活動し続けている。そういう意味で、ソ連によるアフガン侵攻は、集団的自衛権の行使が、当事国だけでなく、世界全体をより危険にしたという実例でもあるのだ。
 さらに、アメリカの側から見れば、“敵の敵は味方”という理屈でムジャヒディンたちを支援したことが、結果としては後のテロリストたちを養成したことになる。ある意味で、9.11テロは自分たちのまいた種によるものでもあるのだ。こういう観点からすると、アフガンのケースは、もはや集団的自衛権云々というところにとどまらず、武力の行使によって事態を解決しようという発想そのものの致命的な失敗といえる。
 ちなみに、本稿のタイトルは映画『ランボー』シリーズの3作目にあたる『ランボー3 怒りのアフガン』からとっている。
 この映画では、いつものことながら終盤でランボーはピンチに陥るのだが、そんな彼を窮地から救ってくれるのが、ムジャヒディンたちだ。そのときのアメリカにとって、ムジャヒディンは邪悪なソ連と闘う“正義”の側だったわけである。しかし、そんな彼らが今ではアメリカを脅かすテロリスト。“敵の敵は味方”というのは、とても危険な考え方なのだ。アメリカは、ムジャヒディンを支援することで、“パンドラの箱”を開けてしまった。そういう意味で、このアフガンのケースは、集団的自衛権を行使した側と、それに対抗して介入した側の両者に致命的な結果をもたらしたのである。


 ここまでお読みいただければ、このアフガン戦争が、ベトナム戦争にまさるとも劣らない失敗例だということが納得できるだろう。
 このような歴史を目の当たりにすれば、「自衛は他衛、他衛は自衛」などという御託が実にそらぞらしく聞こえてくる。“自衛”のためにといって行った“他衛”は、“他衛”にも、まして“自衛”にもならず、それどころか、むしろ自国を衰亡に追いやった。これが、集団的自衛権の現実なのである。
 もう少し私の意見を補足しておくと、これは、なにも偶然にそういうことになったわけではない。
 私が考えるに、このようになった背景には、集団的自衛権というものの持つ構造的な問題がある。
 集団的自衛権というのは、AとBという二つの勢力が衝突しているときに、Cという国がAに肩入れするということなわけだが、このようになるのは、多くの場合、CがもともとAの後ろ盾のような立場にある場合である。そして、たいていの場合はBの側にも同じように後ろ盾Dが存在している。そういう状況があれば、Cの介入は必然的にDの介入も引き起こす(※)。その結果、紛争は拡大し、また、長期化し、その紛争が終わっても別の場所に飛び火していったりすることになる。アフガニスタンで起きたことはまさにそれで、集団的自衛権の行使から30年以上がたち、その当事者だった国々が消滅した後でさえ、それによってまき散らされた火種が世界中で紛争を引き起こし続けているのである。まさに、集団的自衛権というものが、百害あって一利なしの代物であることがよくわかる。



(※)……ベトナム戦争を例にとれば、Aが南ベトナムでBが北ベトナムとすると、Cはアメリカ、Dはソ連、中国など。
アフガンの例では、Aがカルマル政権、Bがムジャヒディンとすると、Cはソ連、Dはアメリカということになる。