新宿バルト9で、原恵一監督の新作アニメ映画「カラフル」を見てきました。
日曜の午後、場内は9割ほどの入りだったかな?
作品の感想ですが、まず特筆したいのは、前半でずっと続く「気まずさのリアリズム」の徹底ぶり。
一度死んだ人間が生き返ったんだから、普通ならもっと明るいお話を期待するところですが、
実は死ぬまでのいきさつがいろいろあって、すんなり喜べるという状況ではないわけですな。
しかもそのへんをなんとなく探っていくうちに、現実のイヤな側面を見ることになってしまって
逆に居たたまれなくなってしまう・・・というジレンマがなんともキツく、そして生々しい。
しかしこの息詰まるような「居たたまれなさ」をじっくりと見せることが、後半で結ばれていく
人と人のつながりと、その距離がじわじわ狭まっていく過程を「体感として」受け止めることへと
つながっているように思うのです。
前半の閉塞感は半端じゃないですが、それが解きほぐされていくまでの過程もまた丹念に
組み立てられており、これがクライマックスでの「静かな、しかし胸の奥から湧きあがるような」
感動を生むのだと思います。
そしてもうひとつ注目したいのは、「家族」という集団の中に見え隠れするギスギスした空気を、
丹念に拾い上げていること。
ちょっとしたことでイラッとくる感じとか、家族ならでは無神経さがやたらとカンに触るところなど、
見ている自分にも思い当たるような場面がいくつも出てきます。
実のところ、家族というのは客観的に見るとケンカばかりしているか、お互いに対してかなり
よそよそしい態度をとっていることが多いのではないでしょうか。
ほとんどはささいなことなので、長いスパンで見れば忘れてしまいがちだし、その結果として
「普通の家族」はおおむね温かいものだという幻想が維持されてきたわけですが、そんな中で
この「カラフル」という作品は、家族という微温的な領域の中にあるエゴや弱さを容赦なく抉り出し、
「普通の家族」という暗黙の了解をえげつないほどに突き崩していきます。
特に、自分も家族崩壊の一因でありながら、なお必死で「普通の家族」を維持し続けようとする
母親の態度はあまりに痛ましく、またそれゆえに最も深く傷ついていくのがはっきりわかります。
あまりのイタさに、一部の感想で「岸辺のアルバム」と比較されているというのもうなずけるところ。
私はというと、食事のシーンで「家族ゲーム」を思い出してしまいました。
しかし、家族という集団の抱える欺瞞を厳しく指摘した上で、それでも気後れすることなく
「人間はみんな誰かの支えであり、また誰かに支えられている」
というあたり前のことを再確認していく筋立てには、すごく納得させられるものがありました。
やや甘いと思われる結論であっても、そこまでの手順をしっかり踏んでいくことによって
きちんとした説得力を持たせることができるという好例ではないかと思います。
これこそ「映画の作り方」の基本にしてお手本と言えるかも。
ところでこの作品に対し「アニメでなくてもいいのでは」という声があるそうですが、実際に見て
ネガティブな意味ではなく「ああ、そう思っちゃう人もいるだろうな」とは思いました。
たぶん不満を感じる人の多くは、いわゆる「アニメでしか表現できない映像」を見たいのでしょう。
それが色彩なのか風景なのか動きなのか、あるいは現世にありえない美形キャラなのかは
ちょっとわかりかねますが、とかくアニメとは“そういうものであるべき”と認識している人たちが
かなりの数に上るのは確かだと思います。
アニメが提供してくれるものが「ここではないどこか」であると期待する人が「カラフル」を見たら、
やっぱり厳しい、苦しい、そしてつまらないと思ってしまいそうですね。
だってここにあるのは、まぎれもない現実そのものでしかないわけですから。
また逆に実写映画を好む人の一部にも、アニメ絵への抜きがたい抵抗があるわけでして・・・。
そしてこういう気持ちを持つ人たちから「実際にあるものなら、アニメで見せなくてもいい」
「どうせ声をあててるのだって本物の役者だし、だったらそのまま実写でやればいいだろう」
というような声がでてくることも、まあありそうな話だとは思います。
しかし「カラフル」の中には、やっぱり絵でしか、アニメでしか描けない表現があるのです。
たとえば小さな表情の変化や手のしぐさ、体のゆすり方といったひとつひとつにまで
狙って意味を与えることができるのは、アニメーションならではの演出だと思います。
そして「カラフル」には、そういう細部へのこだわりが随所に見られるのです。
小さな行動やささいな表情の蓄積が、やがて起きる感情の爆発に向けてマグマのように
じわじわと溜まっていく、その過程の見せ方、演出の効かせ方が実に丁寧なのですよ。
アニメでリアルな日常を描く事は、空想の光景を描く以上に世界観の強度を求められるわけですが、
観客からの「実写でもいいじゃないか」という声は、実写に近いリアリティを獲得できたことへの
ある種の賛辞ととらえてもいいんじゃないかな、とも思いました。
逆に言えば、これでアニメの表現領域がさらに広がった、と考えることもできそうですし。
また、最近のアニメに顕著な「滑らかでリズミカル、かつダイナミックで目を引く動き」を
常に期待するファンにとって、「カラフル」に見られる地味で堅い感じの動きへの不満は
かなり大きいように思います。
例えば主人公がひろかの手を引いて町を駆け抜ける場面など、やや動きがぎこちないですし、
終盤の重要場面ではカット飛びらしきものも見られました。
作画面が気になるファンが増えた中で、こういう点はこれまで以上にネガティブに映りがちです。
しかしその一方で、「カラフル」に出てくるキャラクターには、最近になって多くのアニメが
自覚的に取り入れてきた「アニメとしての媚び」を感じさせる動きがありません。
その媚びのなさに、キャラクターの「自然な佇まい」を感じられたのは、非常によかったと思います。
現に今年劇場公開された某アニメでは、キャラの動きにあからさまな媚びの要素が感じられて
作品の真剣さにやや水を差すといった感じを受けたものですが、「カラフル」に関しては
作品が求めるリアルな人間像に見合う、落ち着いた動きがつけられていたと思います。
また作中に張られた各種の伏線が、後で効いてくるのもうまいところです。
特に秀逸と思ったのは、ひろかに関する描写。
常に駄菓子を持ち歩いているのが、彼女の心理的な幼さと肉体的な成熟とのアンバランスさを
うまく象徴していたように感じました。
この前ふりのおかげで、後段での独白場面もすんなりと受けとめられましたね。
あと宮崎あおいの演じる唱子、顔はジムシィ系(!)だけど、妙なかわいらしさもあったりして。
絵の動かし方もよかったけど、やはり中の人の好演が一番大きかったと思います。
そして彼女たち、そして早乙女くんの存在は、「学校で浮かない」ということが大切なのではなく、
「どんな形でもいいから居場所と仲間を見つけて、なんとか毎日を生き抜くこと」のほうが
よっぽど大切なんだ、ということを教えてくれました。
いま学校でいろいろ無理して悩んでる子たちにも、これはぜひ知っておいて欲しいと思います。
音楽については、残念ながら一部でやや音量が過大と感じられたところも。
特に「手紙」の合唱は意図があまりに明快なので、音の大きさが押し付けがましさに思えます。
あそこは背景音楽で小さく歌わせ続けてもよかったんじゃないだろうか。
謎解きの部分で基本的にアンフェアと思える点があること(真相へのヒントは途中で示される)、
そして作中で多くの重荷を母親ひとりに背負わせてしまった感じがするのはややひっかかりますが、
「カラフル」は非常に手をかけて作られた秀作であり、また現在の日本アニメの到達点の高さを示す
ひとつのショーケースでもあると言えるでしょう。
残酷さはないにしろ、厳しさと痛みから目を背けず、むしろそれに目を向けさせるような内容は
人によって好き嫌いがはっきり出ると思います。
いわゆる「泣ける作品」と感じるかについても、個人差がかなりあるのではないでしょうか。
それでもやっぱり、大人のアニメファンとして見ておきたい作品であるのは間違いありません。
原監督の果敢な挑戦の成果を、ぜひ自分の目で確かめてみてください。
日曜の午後、場内は9割ほどの入りだったかな?
作品の感想ですが、まず特筆したいのは、前半でずっと続く「気まずさのリアリズム」の徹底ぶり。
一度死んだ人間が生き返ったんだから、普通ならもっと明るいお話を期待するところですが、
実は死ぬまでのいきさつがいろいろあって、すんなり喜べるという状況ではないわけですな。
しかもそのへんをなんとなく探っていくうちに、現実のイヤな側面を見ることになってしまって
逆に居たたまれなくなってしまう・・・というジレンマがなんともキツく、そして生々しい。
しかしこの息詰まるような「居たたまれなさ」をじっくりと見せることが、後半で結ばれていく
人と人のつながりと、その距離がじわじわ狭まっていく過程を「体感として」受け止めることへと
つながっているように思うのです。
前半の閉塞感は半端じゃないですが、それが解きほぐされていくまでの過程もまた丹念に
組み立てられており、これがクライマックスでの「静かな、しかし胸の奥から湧きあがるような」
感動を生むのだと思います。
そしてもうひとつ注目したいのは、「家族」という集団の中に見え隠れするギスギスした空気を、
丹念に拾い上げていること。
ちょっとしたことでイラッとくる感じとか、家族ならでは無神経さがやたらとカンに触るところなど、
見ている自分にも思い当たるような場面がいくつも出てきます。
実のところ、家族というのは客観的に見るとケンカばかりしているか、お互いに対してかなり
よそよそしい態度をとっていることが多いのではないでしょうか。
ほとんどはささいなことなので、長いスパンで見れば忘れてしまいがちだし、その結果として
「普通の家族」はおおむね温かいものだという幻想が維持されてきたわけですが、そんな中で
この「カラフル」という作品は、家族という微温的な領域の中にあるエゴや弱さを容赦なく抉り出し、
「普通の家族」という暗黙の了解をえげつないほどに突き崩していきます。
特に、自分も家族崩壊の一因でありながら、なお必死で「普通の家族」を維持し続けようとする
母親の態度はあまりに痛ましく、またそれゆえに最も深く傷ついていくのがはっきりわかります。
あまりのイタさに、一部の感想で「岸辺のアルバム」と比較されているというのもうなずけるところ。
私はというと、食事のシーンで「家族ゲーム」を思い出してしまいました。
しかし、家族という集団の抱える欺瞞を厳しく指摘した上で、それでも気後れすることなく
「人間はみんな誰かの支えであり、また誰かに支えられている」
というあたり前のことを再確認していく筋立てには、すごく納得させられるものがありました。
やや甘いと思われる結論であっても、そこまでの手順をしっかり踏んでいくことによって
きちんとした説得力を持たせることができるという好例ではないかと思います。
これこそ「映画の作り方」の基本にしてお手本と言えるかも。
ところでこの作品に対し「アニメでなくてもいいのでは」という声があるそうですが、実際に見て
ネガティブな意味ではなく「ああ、そう思っちゃう人もいるだろうな」とは思いました。
たぶん不満を感じる人の多くは、いわゆる「アニメでしか表現できない映像」を見たいのでしょう。
それが色彩なのか風景なのか動きなのか、あるいは現世にありえない美形キャラなのかは
ちょっとわかりかねますが、とかくアニメとは“そういうものであるべき”と認識している人たちが
かなりの数に上るのは確かだと思います。
アニメが提供してくれるものが「ここではないどこか」であると期待する人が「カラフル」を見たら、
やっぱり厳しい、苦しい、そしてつまらないと思ってしまいそうですね。
だってここにあるのは、まぎれもない現実そのものでしかないわけですから。
また逆に実写映画を好む人の一部にも、アニメ絵への抜きがたい抵抗があるわけでして・・・。
そしてこういう気持ちを持つ人たちから「実際にあるものなら、アニメで見せなくてもいい」
「どうせ声をあててるのだって本物の役者だし、だったらそのまま実写でやればいいだろう」
というような声がでてくることも、まあありそうな話だとは思います。
しかし「カラフル」の中には、やっぱり絵でしか、アニメでしか描けない表現があるのです。
たとえば小さな表情の変化や手のしぐさ、体のゆすり方といったひとつひとつにまで
狙って意味を与えることができるのは、アニメーションならではの演出だと思います。
そして「カラフル」には、そういう細部へのこだわりが随所に見られるのです。
小さな行動やささいな表情の蓄積が、やがて起きる感情の爆発に向けてマグマのように
じわじわと溜まっていく、その過程の見せ方、演出の効かせ方が実に丁寧なのですよ。
アニメでリアルな日常を描く事は、空想の光景を描く以上に世界観の強度を求められるわけですが、
観客からの「実写でもいいじゃないか」という声は、実写に近いリアリティを獲得できたことへの
ある種の賛辞ととらえてもいいんじゃないかな、とも思いました。
逆に言えば、これでアニメの表現領域がさらに広がった、と考えることもできそうですし。
また、最近のアニメに顕著な「滑らかでリズミカル、かつダイナミックで目を引く動き」を
常に期待するファンにとって、「カラフル」に見られる地味で堅い感じの動きへの不満は
かなり大きいように思います。
例えば主人公がひろかの手を引いて町を駆け抜ける場面など、やや動きがぎこちないですし、
終盤の重要場面ではカット飛びらしきものも見られました。
作画面が気になるファンが増えた中で、こういう点はこれまで以上にネガティブに映りがちです。
しかしその一方で、「カラフル」に出てくるキャラクターには、最近になって多くのアニメが
自覚的に取り入れてきた「アニメとしての媚び」を感じさせる動きがありません。
その媚びのなさに、キャラクターの「自然な佇まい」を感じられたのは、非常によかったと思います。
現に今年劇場公開された某アニメでは、キャラの動きにあからさまな媚びの要素が感じられて
作品の真剣さにやや水を差すといった感じを受けたものですが、「カラフル」に関しては
作品が求めるリアルな人間像に見合う、落ち着いた動きがつけられていたと思います。
また作中に張られた各種の伏線が、後で効いてくるのもうまいところです。
特に秀逸と思ったのは、ひろかに関する描写。
常に駄菓子を持ち歩いているのが、彼女の心理的な幼さと肉体的な成熟とのアンバランスさを
うまく象徴していたように感じました。
この前ふりのおかげで、後段での独白場面もすんなりと受けとめられましたね。
あと宮崎あおいの演じる唱子、顔はジムシィ系(!)だけど、妙なかわいらしさもあったりして。
絵の動かし方もよかったけど、やはり中の人の好演が一番大きかったと思います。
そして彼女たち、そして早乙女くんの存在は、「学校で浮かない」ということが大切なのではなく、
「どんな形でもいいから居場所と仲間を見つけて、なんとか毎日を生き抜くこと」のほうが
よっぽど大切なんだ、ということを教えてくれました。
いま学校でいろいろ無理して悩んでる子たちにも、これはぜひ知っておいて欲しいと思います。
音楽については、残念ながら一部でやや音量が過大と感じられたところも。
特に「手紙」の合唱は意図があまりに明快なので、音の大きさが押し付けがましさに思えます。
あそこは背景音楽で小さく歌わせ続けてもよかったんじゃないだろうか。
謎解きの部分で基本的にアンフェアと思える点があること(真相へのヒントは途中で示される)、
そして作中で多くの重荷を母親ひとりに背負わせてしまった感じがするのはややひっかかりますが、
「カラフル」は非常に手をかけて作られた秀作であり、また現在の日本アニメの到達点の高さを示す
ひとつのショーケースでもあると言えるでしょう。
残酷さはないにしろ、厳しさと痛みから目を背けず、むしろそれに目を向けさせるような内容は
人によって好き嫌いがはっきり出ると思います。
いわゆる「泣ける作品」と感じるかについても、個人差がかなりあるのではないでしょうか。
それでもやっぱり、大人のアニメファンとして見ておきたい作品であるのは間違いありません。
原監督の果敢な挑戦の成果を、ぜひ自分の目で確かめてみてください。
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