かって、五木寛之さんは、その講演の中で、「慈悲」に付いて次のように語られています。
「仏教には『慈悲』と云う言葉があります。『慈』とは励ましであり、ヒューマニズムであり、希望であり、明るく、近代的でなじみやすい。しかし、『悲』は慰めであり、思わず知らず発するため息、うめきのような感情であり、本能的で、古めかしく、前近代的だとして、戦後の日本は目をそむけ、排除してきたのではないか」として、この『悲』の感情をきちんと受け止めるこころを持つ事が大切だとお話になられました。
又、広辞苑では、『慈悲』について、「仏が衆生に楽を与えるのを慈、苦を除くを悲という」と、あります。
この「慈悲」と云う言葉を揮毫した犬養毅の色紙を持っています。それも、あの5・15事件の直前に書いていただいた木堂の最後の揮毫です。
昨日の「不躁」の掛け軸よりも、大層柔らいと云うか、何となく慈しみ深さが思われるような筆さばきが感じられます。「木堂七十八叟」と云う字と相まっって、調和のとれた、誠に、ほれぼれするような見事な書だ、と、思っています。私の自慢のお宝です。
なお、私は、この字こそが、近頃一段と、最も、木堂の木堂らしい字ではないかと思えて仕方ありません。
また、この色紙の字を見ていると、「話せば分かる」と、呼びかけた海軍の青年将校にたいして、期せずして、人には「慈悲のこころ」が大切だよと、その事前に語らっているかのようさえ思われるのですが。
毎年五月十五日には、必ず、床の間に掲げて、陰ながら木堂の遺徳をしのんでいます。
なお、昨年の(2010)の5月15・16・17日にも、木堂に付いて、同じような内容で書いていますのでご覧いただけると幸いです。