今日休日出勤を終えて自宅に戻ると年老いた両親が写真の整理をしていた。
ふと覗いてみると幼い頃目にした事がある親父が若い頃の写真が目にとまった。
この写真である。
親父は昭和7年生まれ。
福島第一原発の影響を受けて有名になった飯館村の出身である。
親父にこのJEEPと共に撮影した時の思い出を改めて聞いてみると淡々と語り出した。
時は昭和29年9月、場所は北海道の恵庭町(現在の恵庭市)だという。
親父は何も職が無い故郷の飯館村を飛びだし、当時発足したばかりの警察予備隊(自衛隊の前身)に入隊した。
理由は沢山の恩給が貰えるからだったそうだ。
警察予備隊で配属されたのは北海道の丘珠。現在の丘珠空港周辺らしい。
その後、警察予備隊は保安隊と名前を替える。写真はその当時のものらしい。
この日は恵庭の駐屯地(現在の陸上自衛隊北恵庭駐屯地らしい)に北海道全ての部隊が集結し、隣接する演習場(現在の千歳・恵庭演習場)秋季大演習が行われたらしい。この演習は戦車や大砲が実弾を発射し、2時間に渡って行われたそうだ。
この演習を視察したのは中野総監という方だったそうで、親父はその総監を乗せ、演習場や北部方面総監部へ送る言わば総監の送り迎えをしたらしい。
その証がこのジープのウィンドウ左に桜2つのプレートが付いている事で証明できる。
無事総監を総監部に送り届けた親父は総監に「安心して乗っていられた」と大そう褒められたらしく、その話を中隊長に報告すると隊の名誉と更に褒められたと話してくれました。
このジープは三菱がノックダウン生産したものだという。
注目したいのはラジエータグリルに刻まれているロゴが三菱の3ダイヤモンドでは無く、オリジナルのウィリスである。
また、左ハンドルでフロントガラスは2分割。
バンパーに書かれている北方は北部方面を意味し、61特-3は61大隊3中隊所属車輌という意味らしい。
当時、朝鮮戦争が終結するかどうかの時期で三菱もこのノックダウンJEEPを沢山生産していたのだろう。
余談だが、ある日親父が豊平川沿いの堤防をこのジープで走っていると駐留していた米軍の黒人が運転するジープが狭い道幅を無理やりい追い越して行ったらしい。当時は舗装もされていない凸凹の埃まみれになる道。
血気盛んな頃の親父はこの黒人が駆るジープを追走。
やがて親父が黒人のジープを追い越して先に出ると黒人の米兵は運転を誤り土手から豊平川に向かって転げ落ちたそうだ。
親父が救助に向かうと「Nothing has any problem!」と言ったかどうかは分からないが互いの健闘を讃え合い大笑いしたそうだ。
実に平和でのどかな時代だったんだろう?
もしかするとアメリカ製ジープと日本製ジープの日本初バトルだったのかもしれない?
その後、親父は丘珠に発足した保安隊航空隊(現在の航空自衛隊の前身)の整備士として活躍するのだがこれまた面白い話が沢山ある。
朝鮮戦争で偵察機や連絡機に使用され、保安隊に供与されたL-5やL-19等の思い出は後日紹介したい。