ベル・カントを求めて

ベル・カント唱法の追求。「私の声」を探して一人稽古に励む日々を綴ります。

本当の話

2007-11-20 16:54:50 | Weblog
「ベル・カント唱法」という本に出会ってから約半年、
まずは胸声と頭声の分離を目指してきた。
それまでの歌い癖を介入させないように注意しながら、
弱かった胸声をしっかりさせるために、使ったことのない丸裸の声を出した。

そうしている間に、私の話し声に変化が生じた。
小さく、宙に浮いたような声で喋っていたのが、
地についた、はっきりしたトーンに変わってきた。
非常に親しい人に電話をかけても名乗らないうちは
「どちら様ですか?」と尋ねられる事もあった。
私は自分の話し声が好きではなかった。
喋っているうちに喉が塞がれたような感覚が起こったり、
度々咳払いしなければならなかったり。
私の喉は生まれつき丈夫ではないのだろう、
そう泣く泣く決めつけていた。
しかし、胸声を稽古するうちにそうした喉の閉塞感や痰がからまってしまう症状などが、するすると改善されていった。

結局私は、歌声だけでなく話し声まで喉を自然のまま使うことが出来なくなっていたのだ。
それは小さい頃から合唱をやっていたことが原因だ、と直感した。
子供には「本当の子供の声」がある。
現在、コンクールなどで上位に入賞する小中高の合唱の多くは、子供の声をそのまま生かした声ではなく、大人が聴いて何となくきれいだと感じる声で歌っている。
それが私が考えるところの、
胸声排除の頭声至上主義の発声法だ。
その頭声至上主義が何故あちこちで聴かれるのか。
それは、ある種の響きやハーモニーをつくるのが手っ取り早く、
イヤな感じのきつい声になりにくいのが理由。
しかし、それは本当の子供の歌声ではない。
「大人のための」子供の歌声なのだと思う。
長年合唱団の頭声至上主義で歌い続けていたことと、私の話し声が宙に浮いて安定しなかったことにはきっと強い因果関係がある。
本当の歌声以前に「本当の話し声」も無くしてしまっていた。


最近、胸声を開発するようになってからは風邪もひかなくなった。
喉を生理的に正しく使うようになったことで、
喉自身の健康が回復しているのだと思う。
また話し声が楽になってさらに良いことがあった。
「本当の話」が出来るようになってきたことだ。
以前は、感じていることをどう相手に伝えたらよいか、
常に迷っていた。
やっとの思いで言葉にしても、
伝えたい内容とはほど遠いものになってしまう。
ところが胸声を使い声を地に落ち着けると、
選ぶ言葉も自然に地についたものとなった。
心のままに話が出来る。
話をするのが怖くない。
本当の、心からの気持ちを、
楽に、落ち着いた声で表現することが出来るなんて・・・。
「胸声よ、ありがとう!」
という心境である。

純粋、そして未知なるものへ

2007-11-19 05:12:51 | Weblog
声を純粋にすることは                          
心を純粋にすることと同義である。



この数日、体調を崩して寝ている間、
そのほとんどの時間を歌について考えていた。

消えてしまったベル・カントという技術を
この世に再び掘り起こすという作業は、
未知なるものへ手をのばし
必死につかみとろうとする挑戦と同じだ。

かなりの覚悟が必要だ、と改めて感じた。
ましてや「昔のベル・カントをさらに発展させたい」
と欲するならば
覚悟どころではなく、もう捨て身だ。

あまりのことに
よくなったはずの頭痛がぶり返しそうになる。

でも、それでも、真理に近づきたいのだ。
人間の歌の本当の姿を知りたいのだ。
ベル・カントを見つけたいのだ。

大きな流れ

2007-11-12 14:54:34 | Weblog
「大きな流れ」ということを最近よく考えます。

大切なのは大きな流れであって小さな流れではない。


以前あるイタリア人の男性と一緒にアップルケーキを焼きました。
バターの固まりをザクッと切るとフォークで細かくくだき砂糖をバサッと加え、鼻歌を歌いながら2~3分混ぜ、卵をいくつか割って加え小麦粉をドサドサッと入れてまた混ぜます。
材料を計ることは一切しませんし、混ぜる器具もフォークだたひとつです。
私は半ば驚き半ば感心して“あなたは適当にやってもケーキが作れるんだねぇ。”と彼に言いました。
すると彼は“これは適当ではないよ。バターはこのくらいだし、砂糖はこのくらい、そして卵を入れて小麦粉はこのくらい。ちゃんとやってるんだよ。”と答えました。
その時は彼の言葉がわかったようなわからないような気持ちで、ただ“ふーん”と返事をしました。
でも後になってよく考えると、彼は「大きな流れ」をつかんでお菓子を作っていたことに気が付きました。
まず本を開き、バター200グラムとレシピにあれば200グラムを正確に計る。
そして小麦粉もきちんとふるいにかけて・・・あぁ、卵は室温にもどさなくては・・・・・
等々細かい手順を踏むのではなく、ケーキにはバターに砂糖に卵、そして小麦粉がこのぐらい必要だ、という一番重要な事だけを見つめて彼の作業は進行するわけです。
そしてその場の雰囲気で、砂糖を増やしたり焼き加減を変えたりします。

結果、「大きな流れ」にのって出来上がったアップルケーキの味は極上だったのでした。


私たちの生活の中には、小さなことばかりに気をとられ、大きなことを見逃してしまっている例がたくさんあるような気がします。
「大きな流れ」とは、人生について考えていた時に私の心をふとよぎった言葉です。
“今までずいぶん小さな事ばかりにこだわって生き、大きな物事を無視し続けていたなぁ。これからは「大きな流れ」に乗ろう。”
そう決心した時です。

肝心なのは表面に浮かんでいる細々とした出来事ではなくて、その底に流れる大きなもの。
仕事でいえば、何をどれだけやったか、ではなく、どんな気持ちでやったか。
歌で言えば、何を歌っているか、ではなく、どう歌っているか。
声で言えば、どんなに声量があるか、ではなく、どんな声をしているか。
どこまで高い音が出たか、ではなく、どういう気持ちでその音を出したか。

歌声は目に見えません。
だからといって何かの量を計りながら歌をうたったり聴いたりするのは、とても滑稽です。
むしろその目に見えない、耳にも聴こえない何かにこそ、歌における「大きな流れ」が存在していると私は感じるのです。

大きな流れを無視して何をやっても結局いつかもとの場所に戻されます。
大きな流れを大切にしていれば、それはやがて豊かで人を喜ばせるものへと育ちます。


あのアップルケーキは、今でも私に色んな事を教えてくれています。











母音

2007-11-11 01:51:22 | Weblog
母音「あ」といっても様々な種類があります。
明るい「あ」・暗い「あ」・厚い「あ」・薄い「あ」・・・等。

胸声の開発のために、私がまず「あ」を選んだのは、その他のすべての母音の要素が一緒に含まれているからです。
また、母音の歪みを自分自身で認識しやすいからという理由もあります。
歪みとは・・・ひねくれた音質であったり、かすれていたり、奥にこもっていたり、しゃくりあげたり、最初に発した音質がすぐに変化してしまったり・・・等の事です。
そういった歪みのない「素直な音質」の「あ」を探します。
この作業を「ベル・カント唱法」という本では「母音の純化」と呼んでいます。
とてもいい表現でだと思います。
純粋な母音を探す。
まずは「あ」で。


「あ」という母音は不思議な音です。
日本語の五十音は「あ」で始まっていますが、さらに大きく大きく拡大して考えて、この世界の音の全ては「あ」で始まった、最初に生まれた音は「あ」だった、という説もあります。
歌を続けてきた過程において、私は「あ」という音に宇宙の色々なメッセージが込められているような気がしてなりませんでした。
それが何なのか私にはまだわかりませんが、世界の人々の平和につながるものである、ということは常に感じています。
もちろん「い」「う」「え」「お」という他の母音にもメッセージがあります。
ただ「あ」にはその他の母音の基盤となる役割があると感じるのです。
それぞれの母音にはそれぞれの役割があり、「あ」はその代表格、といったところでしょうか。

そのように、母音について考え大切に扱っていると神聖な気持ちで歌に接する事が出来ます。
歌うことが決して自己満足のためだけにあるのではなく、この世界や宇宙の発展へのある一つの行為のように感じられてきます。
そして、その神秘的な感覚が「母音の純化」への感性をさらに高めてくれるようです。
「あ」「い」「う」「え」「お」という音を、単なる音としてでなく歌として、音楽として表現出来る私たちは何と幸せなんだろう、と感謝の気持ちになります。


胸声を鍛える【あ~~~~】という稽古はいたって単純な練習のようですが、実はとても奥深い意味があります。
毎日少しずつやっていくと必ず感じられてくるはずです。

純粋な「あ」「い」「う」「え」「お」を探す稽古から決して離れてはならない、と。



基盤

2007-11-09 14:10:59 | Weblog
「頭声」について、以前少し触れました。

結論から言いますと、
<「本当の頭声」は「胸声」をきちんと出せるようになってはじめて認識できる>
ただし、これは特に女性に限ったことで、男性にとっては、
<「頭声」をきちんと出せるようになってはじめて「本当の胸声」が認識できる>
と思われます。

女性と男性とで真逆の表現となっています。
これは普段の話し声や初めて歌声を発した時の声が、女性では「頭声」に近く男性では「胸声」に近い事が原因です。
(ただし最近では女性でも胸声に近い話し声や歌声を耳にすることがあります。一般論と捉えてください。)

私は女性ですので、女性の声の場合、についてもう少し詳しく書いてみます。
胸声の存在を無視したまま歌の勉強を続けていくと、「頭声のようなもの」を使って歌うことしか出来なくなります。
低い音域は声量が極端に減り、響きもほとんど無くなってしまうでしょう。
また、中音域以上の声にも豊かな響きは現れず、声量が無く地味な色合いの声(聞き苦しくは無い)か、もしくは耳障りな響きや揺れを持つ声にしか仕上がりません。
ただし、生まれつき心地よい歌声を、高・低両音域に渡って持ち合わせている方もいらっしゃいます。
その様な方にはこの原則は(表面的には)当てはまりません。
ですが、「胸声・頭声」について正しく理解しているかいないかで、長い年月歌い続けた場合に大きな差が出る、ということは明らかにしておきたいと思います。
私はもともと美声ではなく、話し声もどちらかというと通りにくく小さな声をしています。
そして、「頭声のようなもの」で歌い通していました。
「ベル・カントを求めて」いるのです。


そこで登場、
「胸声」です。

ピアノの鍵盤のだいたい中央のド(一点ハ)の音のすぐ下にある「シ」の音か「シ♭」または「ラ」のあたりで喉の周辺や首など体に無理なく声が出せる音を選び【あーーーー】と長くのばす練習をします。
この時、きれいな声にしようと思わないことが大切です。
何となくぶっきらぼうで味も素っ気もない、ビリビリとした響きの、とにかく何も飾っていない音であることが重要です。
ただし、すぐに喉にひっかかりや痛みを感じたりするような出し方はいけません。
どっしりとした感覚で気持ちよく声を出せる感覚をつかみます。
重ねて言いますが、きれいな声を出そうとしないことです。
これは絶対に間違ってはいけません。
稽古とは本番を想定した練習であるべきですが、これは基盤を築くための練習です。
「完璧な技術習得の道」のスタートラインに立つための準備の練習です。
決していい声をイメージしないこと。
充実した、自分の根底から出る声を目指します。

そして、最初から長々とやらないことです。
毎日少しずつ続けること。
また、実際に声を出さなくとも自分の「本当の胸声」について常に考えること。
人の話し声や歌声から、どれが「胸声」なのか聴き分ける訓練をすること。



男性の場合は「頭声」について、考えることが重要です。
男性の「ファルセット」は特別な声として捉えられているようですが、私は頭声と同じものだと考えています。
言い方を変えれば、現在「ファルセット」と言われている声を訓練して鍛え上げたものが「本当の頭声」だ、ということです。
このことはまた詳しく書いてみたいと思います。


2007-11-08 18:04:53 | Weblog
挨拶をする、話をする、電話をかける等、声を出す場面は日常生活に色々とあります。
それは普通、私たちが何気なくやっていることです。

しかし、「歌う」という事になると、心に何らかのモーションが必要です。
ふと鼻歌を歌う時、おそらく上機嫌なのでしょう。
カラオケで歌う時、自分の好きな、またはその日その場の気分に合わせた歌を選曲しているでしょう。
では、歌を稽古しよう、と第一声を出す時・・・一体何が心を動かしているのでしょうか。

数年前のある日、さあ練習しましょう、と立ち上がった時、何も感じられず心が真っ白になってしまった瞬間がありました。
思えばその少し前から「練習しなくては。練習しなくては。」という強迫観念に追い回されていました。
そしてその日、とうとう歌うことに何の感慨も持たず、いつもの習慣で声を出そうとしていた自分に、はっと気付いたのです。
ショックでした。
人の心が動き、特別な時間と空間が現れる事が嬉しく、歌をうたっていた自分はどこへいったのだろうと。
それからしばらくして、人前で歌うこと、教えることをやめました。

歌うためには心のエネルギーを必要とします。
エネルギーが充ち満ちているからこそ人前に立てるのです。


あれから数年経ち、ようやく私の心に歌うためのエネルギーが舞い戻ってきました。
キーワードは「耳」でした。
耳をすます。
少し極端に言うと「自分の声を診断する」のです。

よく言われている、歌うための「ああする・こうする」があります。
例えば
“のどの奥を開けて”
“腹筋を利用して”
“~へ声を当てて”
等。

しかし、それらは全て後付けで生まれた方法だ、と私は感じるようになったのです。
素晴らしい声をしている人に歌唱法についてインタビューしたところ、
“のどの奥が開いているようだ”
“腹筋の支えは重要です”
“額のあたりに音が当たっている感覚があります”
等とお答えがあり、それが語り継がれて指導法として定着したのではないでしょうか。
生まれながらに美声を持つ人が歌手になるケースが多い昨今においては、本人がそう学んだわけではなくて「(もともと)そう感じる」という事を若い声楽家の卵たちに伝授していたのではないかと考えられます。

「方法」が先にあってはいけないのです。
「耳」が先でなければ。

いくらのどが開いていても、腹筋の動きが見事でも、顔面に音が当たっているように感じても、肝心の出てきた音が心地よいものでなかったら全く無意味な事です。
明確でわかりやすい指導が求められる中、それに流されて本質を見失ってはならないと思います。

自分の声がどんな風に出ているのか・・・
“ア・イ・ウ・エ・オは歪まず純粋か”
“響きは聴き苦しくないか”
“音程は正しいか”
等々、自分自身の耳で確かめる。
有り難いことに現在は録音の機材に事欠きません。
様々な手段で自らの声を聴くことが出来ます。


「自分の耳を信じよう」
そう決心した時、歌うための心のエネルギーが帰ってきてくれました。




声区

2007-11-07 13:53:52 | Weblog
「胸声」という言葉があります。

「胸の声」とは何かというと「胸から出ている(ように感じられる)声」のことです。
私は幼少より合唱団にいくつか所属しましたが、女声の胸声はたいへん嫌われます。
(自己紹介していませんでしたが私は女性です)
胸声は、ポピュラーソングではむしろ歓迎されているようです。
またジャズソングでは欠かせないものです。
それらのジャンルの歌において胸声は「地声」とほとんど同じ感覚で用いられているような気がします。
マイクを使わないことを原則とするクラシックの声楽では、胸声として地声を素の状態のまま使うことは無理です。
胸声を排除するのではなく、鍛えなければなりません。


どこの合唱団の指導者も「高い音を出すのと同じやり方で低い音も歌いなさい」という意味の事を折りに触れてはおっしゃいました。
この言葉が「高い音も低い音も同じように均質に歌えるように訓練しなさい」と頭の中で変換できれば、非常に正しい指導だと私は思います。
ですが、実情は学ぶ側にその様な言葉の翻訳は出来ないことが多いわけです。
私ももれなく翻訳できず、高い音を出すやり方で低い音を歌おうと心がけました。
ところが、高い音から低い音へ順次下降する発声練習で、あるポイントにさしかかると声がひっくりかえる感覚が生まれ、響きは非常に薄く頼りなく、下手をすると音程もふらふらになることに気が付きました。
しかし、そこを乗り切らないといけません。
必死にごまかそうとします。
・・・結果、現在の私の悪癖となりました。

何の分野の勉強や練習でもそうだと思うのですが、わけもわからず中途半端な状態でごまかして続けていくと、いくら長い年月重ねても手元に何も残りません。
その反対にやり方の正解、不正解にかかわらず、何かを信じて、何かを成そうとして、目的を持って努力した場合、成果や結果が生まれ、体の中に何かが残っていくものです。
実は私は合唱団の指導にも携わったことがあるのですが、皆さんに何を積み重ねて欲しいのか、答えを出せないままでした。
ただひとつ、心からの喜びを感じて歌っていただきたい、という事だけはいつも念頭においていました。
しかし、歌声が自由にならなければ本当の喜びは生まれないということも知っていました。
今なら言えそうです。
「胸声を探し、鍛えましょう」と。

・・・ここで注意ですが、個人差があるのでもともと胸声が立派な方もいらっしゃいます。
そういう方は「頭声(頭から出ている[ように感じられる]声)」を鍛えます。
どちらも立派な方はそれぞれがさらに生き生きとするように。・・・



胸声・頭声の話は長くなります。
2つを分けているポイント「ブレイク」の話も必要です。
次回にまた別の角度から書いてみます。

現在、私は合唱の活動はしていません。
どうしても一人で歌う独唱がやりたいのです。
大勢で声を合わせ、厚い響きとメッセージを創りあげる、という事より、一本の声の線が生み出す流れ、響き、表現、に惹かれています。
でももしも将来、「私の声」を見つけ自由に歌えるようになったら、心からの喜びがふくらんだら、また多くの方々と声を重ね合わせてみたい、と感じるのかもしれません。








ごあいさつ

2007-11-06 16:56:36 | Weblog
はじめまして。

「ベル・カントを求めて」のブログを開設しました。

このページを目にされた方は、何らかの形で歌と関わっていらっしゃるはずです。
毎日私と同じように歌の事を考えて過ごしていらっしゃるのでしょうか。
それともこれから歌の稽古をはじめようとなさっているのでしょうか。

タイトルの通り、現在私はレッスンに通うことなく一人で歌の稽古をしています。
歌、といっても様々なジャンルがありますが、ここでは主に「クラシックの声楽」に分類される歌について書いていきます。



歌を始めた頃から15年余り経ちました。
最初はレッスンに通っていました。
それから、手の指の数は遙かに越える教師の方々の元を転々としました。
ですが、残念なことに自信の持てる技術は身に付きませんでした。

半年前、「ベル・カント唱法」という本に出会い、それまでの全ての疑問が晴れ渡ることになります。
簡単に言うと「これだ!」という気持ちでした。
たくさんの声楽家のコンサートやオペラ、CD等を聴いて心が動かなかった事も納得できました。
「私の心が求めている声」は今やどこにも見あたらない(聴きあたらない)からなのです。

300年ほど昔、劇場やサロンで歌われていた声の響きは、現在の声楽界で良しとされているものとは異なっていたと私は考えています。
私の心が良しとしている声は、どうやら大昔のそれに近いようです。
その時代の録音など、もちろんありませんから断定はできませんが。

当時の文献には、歌手の声の特徴として「軽やか」「正確」「澄んだ」「柔らか」「均質」「音域の幅広さ」・・・
等々があります。
それと比較して、現在の歌唱の特徴は(あくまで私見ですが)「力強い(が重たい)」「(一見[一聴])華やか」「気息音が同時に鳴っている」「高音部(低音部)の困難」・・・
等々があるように感じられます。

大昔は人々の音に対する感性が今とはかなり違っていたのでしょう。
私は「今の音」に満足出来ていません。
昔の技を掘り起こし、身につけることで「私の音、私の声」を探したい、そう考えるようになりました。