サブスクの配信で小さい頃に見たアニメをまた見出しました。
というか、もうすべて見終わったのですが。
私と同じ年代の方は覚えているでしょうか。
『世界名作劇場』
その中でも、大好きだったのが
『赤毛のアン』
小学校にも行っていない保育園児の私でしたが、
毎週楽しみに見ていたのを記憶しています。
この年になって再び見たのですが、
いや~
この物語を、保育園児の自分はどれだけ理解していたのか…
まず、言葉遣いや、描写が思った以上に大人向け
ナレーションなんて、
けっこう難しい言葉で語られている。
でも、私の中での『赤毛のアン』は
間違いなくあのアニメが最初の出会いで、
そこから原作本、映画などに派生していったから、
なんとなく聞いて、理解していたんだろうな。
私の中では
アニメで描かれた登場人物の顔が
そっくりそのままあの物語のイメージになっているのだから。
保育園児の私は、どんなふうに受け止め、
感じていたのだろう…
この内容を、ストーリーの重さと深さを
どれだけ理解していたのだろうか…
今から考えるとそんなふうに思ってしまうが。
でも、アニメを見ていると、身体やハートが
昔のように反応するのもわかる
今の私の考え方や発想に
大きな影響を与えている部分も多々あることが、わかったりして
えええええ?
ここから来ているの~?
と思うところも、しばしば。
で、珠玉のストーリーの数々の中でも、
今回、私が特に心を打たれたのがこのシーン。
アンが、アラン牧師夫人に悩み事を打ち明けたときの、
夫人の一言
「人生というものは、わりきれなくていいのよ、アン」
「いいえ、わりきれてしまっては、ならないの。」
ひょええええ~
そうですか、そうですか。
そうなんですね。
人生は、わりきれないもの。
わりきれないからこそ、悩みを抱えたまま、生きていくのよ。
生きて学ぶの。
というようなニュアンスの語りが続くのですが、
今の私は、夫人のこの言葉に、
深く胸を打たれたのでした
マインドは、すぐに白とか黒とか、
善とか悪とか、0とか10とか、損とか得とか、
対極で物事を考える。
すぱっと割り切れることを求め、
明快な答えや解決策を得ようとする。
でも、そもそも人生はわりきれないという前提に物事をとらえてみると、
何だかモヤッとするところもあるけれど、
心の許容範囲が大きく広がる気がする
良いか悪いかわからないけれど、こっちにしよう。
損かもしれないけれど、まわりまわって得するかもしれないし。
失敗するかもしれないけれど、それが大きな気づきをもたらすこともあるし。
完全に良くはならないけど、ちょっと気持ちが軽くなったし。
な~んていう、
「間のところ」「わからない部分」を受け入れて生きていくことが
何かをもたらし、おもしろいことにつながったりする。
これは、こういうもの。とか、
こうでなきゃならない。とか、
こうすべき。とか、
これが正解!これは間違い!
みたいなところからちょっと距離を置いて、
グレーなところをグレーなままに体験していく勇気
その中で学びと気づきを得ていく姿勢
それは、大いなるものに意識を合わせ、
大いなるものがもたらす現実を受け入れ、
それに歩調を合わせて生きることなのではないかと、思うのです
まあ、結局何が正しいかは人生、わからない。
もう、完全幸せ
完璧、正しい
って、なんだか嘘くさい
いつもどんなときも、
吉凶混交、
幸せと試練が交互に訪れていく
そのはざまで、
生きる意味を模索しながら
けんめいに私たちは生きている
そういうのが、なんだか人間らしい
わりきれない人生を
わりきれないままに生きる。
というアラン夫人の言葉には、
何か深い受容と明け渡しの精神が宿っていて、
今の年齢だからこそ、スーッとしみわたるものが
私には、あったのでした
いつも正解とか答えを得ようとする、せこせこしたマインドを
ふわりと静める、そんな効果がある気がして
それ以来、時々、私のハートの中で、
アラン夫人が私に語りかけてくるのです(笑)
「わりきれなくていいのよ。」って
そしたら、すーっと何かラクになる
当時の自分がそこまで深く感じ取ったとは思えないけど(←だって保育園児)、
語られる言葉の重みや、
アンの生き方・在り方は、
確実に私の中の何かを形作っている
ままならない人生の中で、想像力を駆使して
物事を建設的に捉える思考や
すでにあるもの、与えられているものに感謝する心、
自然を愛し、人を慈しむ姿勢。
そんなあこがれの姿だけじゃなく、
意地を張ってうまく本音を伝えられないところや
調子に乗ってやり過ぎてしまうクセ、
見栄を張ったりどこまでも相手とやりあったり…
ネガティブもポジティブも、
両方、ありのままを一生懸命生きている姿が、
すべて手本のようになっている
それこそ、「わりきれない」姿ですね
古いアニメが、思いがけず
自分の考え方や在り方の基盤を教えてくれました
いろんなところに、
気づきは転がっているものですね