ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観 | |
D・L・エヴェレット | |
みすず書房 |
D・L・エヴェレット『ピダハン』を読む。
今年のナンバー1本はこれで決定だろう。とんでもない本である。
ピダハンとはアマゾンに住む少数民族で、著書のエヴェレットは伝道師としてピダハンのもとに赴き、30年ほど住みこむ。目的は聖書をピダハン語に翻訳することなので、言語学者としてピダハン語を習得することも重要な任務だ。
その結果、著者はピダハン語には、チョムスキー以来の言語学界の主流であった理論が通用しないことを思い知らされる。人間のあらゆる言語には共通の文法(関係節による再帰という概念らしい)があり、それは人間に言語本能なるものが備わっているから、というのがチョムスキーの理論であるらしいのだが、ピダハン語には、その再帰という構造が見つからないというのである。
要は、著者はピダハン語を研究することで、人間には言語本能なんてない可能性を発見してしまったのだ。チョムスキーの学説は間違っていたと、世界有数の頭脳に喧嘩をふっかけたわけだ。
言語本能がないということは、人間の言語の文法は、それぞれの民族の文化の影響を受けて成立しているということになる(これは当たり前のようであるが、当たり前ではないらしく、詳しくは本書を読んでほしい)。
ピダハン語を規定しているピダハンの文化のポイントは、自分たちが直接体験した事実や話しか信じないという原則である。なぜなら、ピダハンが住む環境は、生と死が充満した自然の中であり、彼らはその自然の瞬間の中を生きているからだ。彼らは魚を釣って、動物を狩り、子供を産んで、マラリアにかかって死ぬ。自分の身は自分で守るのが原則で、それが人生のすべてなのだ。
その結果、どういうことが起きるかというと、著者は伝道師なので自分の信仰を捨ててしまうのである。どうやら家庭も崩壊したらしい。伝承に支えられた信仰よりも、ピダハンのリアルな生のほうが本物だ、と気づいてしまうのだ(ネタバレのようだが、著者が信仰を放棄したことは本のカバーの紹介にも書いてあるので、まあOKでしょう)。
このへんは、マーク・ローランズ『哲学者とオオカミ』を彷彿とさせる。頭のいい人が、人間はなんのために生きているのかを真剣に考えると、哲学よりもオオカミ、キリストよりもピダハンの方がよく知っていることに気づいてしまうのだろう。
このように内容をかいつまんで説明すると、堅苦しい本のように聞こえるだろうが、文体はユーモアたっぷりで非常に読みやすい。難しい言語学の理論でさえ、身近な例を用いて説明してくれるので、本当にそんなに単純なのかと読んでいる方が心配になるくらい分かりやすい。唯一、不満だったのは、妻や子供との、その後の関係に触れていない点である。信仰を捨てた結果、どうやら家庭も崩壊したらしいのだが、できればその崩壊過程も知りたかった。ケレンとは一体、どうなったんだ?
みすずの本なので3400円と高いが、5500円でも読む価値はある。