石ころ

キリストの律法




 ずっとパウロの書簡を読み続けていた。その中で「キリストの律法」という言葉が心に残った。
「私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、・・」(1コリント9:21)

それは、完全に行えない人に呪いである「律法」に対して、十字架のあがないによって与えられた恵みの「キリストの律法」である。
律法は肉よる良い行いであり、キリストの律法は御霊に拠る行いである。

 パウロはイエスさまによって倒され、御霊による「キリストの律法」によって生きる者となった。
彼は生まれながらの血統も、教育も、健常な体も捨てて・・いや、これは彼が望んだことではなく、恵みによって捨てさせられたことである。
そうして新しい創造が彼に実現し、御霊に拠り頼んで生きる者となったのだ。

割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。(ガラテヤ6:15)

主は古い革袋に新しいぶどう酒を入れるようなことはされず、彼を新しく造り変えられた。パウロはそのキリストの律法を守ることによって、すべての艱難を御霊に導かれて乗り越え、みこころを成し遂げた。

それが、もし彼の生まれながらの良きものに拠るなら、何もできなかっただろう、それらは決して混じり合うことはないものである。彼は肉の行いによってイエスさまに倒されたのであり、良い行いを願っていながらみこころに逆らってしまっていたのである。

なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。(ガラテヤ5:17)


 パウロはその身に十字架の焼き印を押された者として、キリストの律法から堕ちた教会に苦しむことになる。
福音から堕ちたニュースは、焼き印を押された彼を痛めつける。

これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。(ガラテヤ6:17)

十字架のキリストの焼き印は福音を喜び続ける印である。その者はキリストの恵みから堕ちることはないが、相反する律法の行いに極度に敏感となって、焼き付けられた十字架は痛むのである。


 私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。(ガラテヤ1:6)

教会が、キリストの律法に留まり続けることは簡単なことではない。肉はどこからでも入り込んで来て、生まれながらの部分を誘惑するからである。
ほかの福音があるわけではなく、いつの間にか堕ちて行くのは律法による縛りであり、福音からの離反である。

互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。(ガラテヤ6:2)

十字架の恵みから目を離さずに、互いに福音に留まるように聖霊によって見張り、目を覚ましていなければならないのである。
ヤコブ書には、「自由の律法を一心に見つめて離れないように」とある。

ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。(ヤコブ1:25)

この「実行」とは何を行うことか・・、間違っても肉による善行であってはならない。
新しい創造による御霊の導きに拠ることである。

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