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《雑記》『白い巨塔』研究(その3)

2006-06-21 05:46:53 | 『白い巨塔』研究
◎『白い巨塔』におけると学閥と閨閥(1)
 私がなぜ『白い巨塔』が好きなのかを考えてみると、医学部を舞台に「組織と権力と人間」が描かれているからでしょう。これは私が最も興味関心があるテーマです。
 そこで、『白い巨塔』における学閥と閨閥について、関連部分を抜き書きする形で、研究(笑)をすすめていきたいと思います。なお、テキストは1965年発行の新潮社版です。

 財前五郎が、この八年間、地方大学からあった教授の口に耳もかさず、この割の合わない助教授のポストを辛抱強く勤めて来たのは、東教授が退官した後の教授の椅子を得るための忍耐であった。それだけに、何としても、来年の春の東教授退官の機会に、教授に昇格しなければ、国立浪速大学医学部教授のポストにつく機会を失い、万年助教授で終るか、それとも地方の医科大学の教授に転出させられてしまうかもしれなかった。浪速大学医学部の教授の停年は六十三歳であるから、東教授の退官のチャンスをはずせば、また次の新任教授が停年になる時までまたねばならない。ということは、四十三歳の財前五郎にとって、永遠にその機会を失うことに等しい。(p.6)

 小学校を卒業する年に、小学校の教員をしていた父の事故死に会い、中学校、高等学校、大学とも父の弔慰金と母の内職と奨学資金で進学し、浪速大学の医学部へ入学した年からは、村の篤志家で開業医である村井清恵の援助を受けて勉学出来たのであった。その村井清恵と、妻の父である財前又一が大阪医専の同窓であったところから、財前が医学部を卒業して五年目の助手の時に、将来を嘱望されて、財前家の養子婿になったのであった。(p.14)

 言うまでもありませんが、財前五郎は『白い巨塔』の主人公です。メスは切れますが、野心家です。浪速大学医学部教授を目指し、その目的を達成した後も、際限なく上をめざしていきます。

 余裕と威厳――、それは、東の最も愛好する言葉であった。どんな場合でも、国立大学教授としての余裕と威厳を失わないということが、彼の生活信条であった。
 東京の国立東都大学医学部を卒業し、三十六歳で同大学医学部の助教授になり、四十六歳で大阪の浪速大学医学部の教授になって、今日に至るまでの間、この信条を変えずにやって来、それが今日の東の外見と地位をつくりあげているのであった。
 内心は人一倍小心で、石橋を叩いても渡らぬほどの臆病な性格であったが、そんな気振はおくびにも出さず、余裕と威厳に満ちた表情とポーズを取りつくろっていると、何時の間にかそれが、東貞蔵の得意な風貌になり、彼をして医学部の有力教授の一人にしてしまったのだった。(中略)
 退官後のことを考えると、浪速大学の現役教授の椅子で退官を迎えることは、他の地方で退官を迎えるより倖せなことであるかもしれなかった。東都大学医学部の助教授から浪速大学医学部の教授に転じた当時は、母校の東都大学で教授になれなかったことを終生の痛恨事に思い、暫く思いきれずにいたものであったが、三年ほど経つと、経済都市の大阪にある浪速大学医学部の教授に転じたことは、長い人生を通してみると、決して損ではなかったと思うようになった。
 東都大学に残って、学問一筋の学者生活を貫くならともかく、学問的業績とともに、そこそこの経済的余裕をも望むのであってみれば、財界人の大物クラスの患者が、ずらりと居並ぶ浪速大学医学部の教授の椅子の方が、経済的に恵まれている。(pp.6~7)

 東貞蔵は財前五郎の前任者です。財前の教授就任を阻止しようとしますが、敗れます。貧しい出自の財前に対して、純然たるエリートに見えますが、かなり屈折しています。

 見え見えですが、浪速大学は大阪大学、東都大学は東京大学ですね。後から出てくる洛北大学は京都大学です。

※画像は財前五郎(田宮二郎・左)と東貞蔵(東野英治郎・右)。映画『白い巨塔』(山本薩夫監督)より。

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1 コメント

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5へぇ~くらいかな (悠)
2006-06-21 19:41:19
どうということでもないのですが、

ある検索から、漂着しました。

ΓΝΩΘΙ ΣΑΥΤΟΝ

かの人の言葉と伝えられる、

そのまんまの看板。

日本では初めてお目にかかり

ました。

そうそ、内容も幅広く intelligent

なのは、楽しそう。

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