電話は向かいのビルの三階の託児所にいる、8才になったばかりの息子トミーからだった。
「ママ、もうレッスン終わった?」
「うん、ちょうど終わったよ」
「おちょいよ〜。もうつかれた」
「ごめんね。着替えたらすぐ迎えに行くから、もう少し待っててね」
「うん・・・・・・」納得したようなしないような返事をして、トミーは携帯の電源を切った。
トミーは思った。
そうだ。こっちからママをお迎えに行こう。お着替えにはいつも30分はかかる。きっとビックリするぞ。もしかするとお兄ちゃんになったねってほめてくれるかも知れない。大丈夫さ。いじわるな託児所のおばさんの目を盗んで通りを渡れば、ヌーヴェルヴァーグ・タワーはすぐそこだ。
トミーは決心すると、託児所の壁にかかっていたダウンジャケットを保母に気づかれないようにこっそり手に取った。いつもトミーをしかりつけるコワイ保母の目を盗んで、ドアに向かう。
「トミー」彼に目を留めた保母が声をかける。「どうしたの?」
「おちっこ!」思わずダウンジャケットを後ろ手にして答える。
「そう、もうすぐママがお迎えにくる時間でしょ。おトイレが終わったらすぐ戻ってくるのよ」
「わかりまいた」
トミーは、外に出る言い訳が通っていい気分になった。
部屋のドアを開けて右にあるトイレを素通りすると、そのまま託児所を出てしまう。エレベータで、一階まで下りる。ビルの出入り口まで行くと、通りの向かい側にもうヌーヴェルヴァーグ・タワーの明かりが見えた。
よーち、ママを驚かせてやるんだ。もうお兄ちゃんになったところを見せてやるぞ。横断歩道の信号が、「渡れ」になっているのを確認して歩き出そうとした時だ。
コトン。小さな音を立てて、携帯電話が道に落ちた。
ずっと握りしめていたのが、一瞬、横断歩道の信号に気を取られた時に緊張がゆるんだようであった。生まれ育つまで使った毛布を手元に置いておかないと落ち着かない神経症をブランケット症候群と呼ぶが、この場合のトミーは携帯電話症候群と言えるかも知れない。
ママとつながる頼みの綱の携帯が・・・・・・
携帯電話は、まるで自分の意識を持った生命体のように飛び跳ねて道路に飛び出た。次の瞬間、信号が変わると飛び出して来たジープに踏みつけれてペシャンコになってしまった。とたんにいままでのいい気分に不安が取って代わり、トミーは大声で泣き出した。
泣きながらも、何か自分が見られている気配がして道路の向かい側を見た。ニューヴェルヴァーグ・タワーの前で魔女たちが、おもしろそうに見つめていた。
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