城址史跡を歩く。

日本の城や城址、史跡などを見て歩くのが好きです。
今のところ、九州の城址・史跡が中心です。

高城址(宮崎県)

2010-10-12 | 城(城址)歩き
戦国時代に大友軍(豊後)と島津軍(薩摩)が戦った 『耳川の戦い』。
その激戦で島津軍の前線の拠点となった高城の城跡を見たくなり、
10月11日、宮崎県木城町(日向市の隣)へと向かった。

宮崎県にある城跡といえば、飫肥城と高鍋城くらいしか印象がなかったが、
耳川の戦いでは、高城は重要な役割を果たした。

大分~宮崎間の最短コースは高速道路が通ってなく、一般道それも一本道になっている区間もあるため、
所要時間の約3時間がとても長く感じる。

古戦場となる耳川を通過。
宮崎県東臼杵郡から宮崎平野を流れ、日向市に到り日向灘へと流れこむ。
美々津川とも呼ばれる。

耳川の戦いでは、敗戦を喫した大友軍の兵の血で赤く染まったといわれる。

【耳川】

天正5年(1577)、薩摩の島津家16代当主・島津義久は、日向を統治する伊東義祐を追放。
伊東氏は豊後の大友宗麟を頼り、大友氏は3万の軍勢を日向に派遣する。

日向に侵攻した大友軍は次々と城を攻略。
日向北部を流れる耳川まで達した。

一旦、豊後へ兵を退いた大友軍は、再び倍の軍勢で日向へ侵攻。
耳川を突破した大友軍は、高城近くまで達した。

【高城祉遠景】

高城址は城址公園となっており、公園入口と書かれた看板から入った。
さらに進むと公園ゲートがあり、整備された駐車場があった。

【公園ゲート(第6空堀跡)】

広めの駐車場内には古墳があった。

横穴式石室のある永山古墳。
主に朝鮮半島から製造法が伝わったとされる須恵器(すえき)などが発掘され、
軍事的要素をもつ鉄器、馬具、鉄鏃、直刀なども発掘されたことから、
被葬者は、軍事的な力を持つ豪族である可能性が考えられるとのこと。

【永山古墳の横穴】

同じく駐車場内には城址の図があった。
それによると、
公園入口の看板があった所が第7空掘跡、
公園ゲート下が第6空堀跡になる。

下図より、この先、順に第5~第1空堀跡があるようだ。
公園手前にも駐車場があるようなので、そのまま車で進んだ。



すぐの場所に、水分神社があった。



天正6年(1578)、大友軍は高城を攻撃。
しかし、島津義久の末弟・家久の援軍の協力もあり、
当時の城主・山田有信はわずかな兵力でこれを防いだ。

さらに救援依頼を受けた島津義久が進軍。
途中、弟の義弘らと合流し、4万の軍勢が高城近くの佐土原城に到着した。
そして義弘率いる別働隊が、高城を包囲する大友軍を撃破。
大友軍からの停戦申し入れを受諾した。

しかし、戦いの続行を主張する大友配下の武将達が再び島津軍を襲撃。
義弘率いる別働隊を退却させるも、義久率いる本隊からの攻撃を受け、総崩れとなった。
この時点で、大友軍は多数の重臣と約半数の兵力を失い、
以降、衰退の一途をたどることとなった。

城山公園に近い2つ目の駐車場に車をとめた。
水分神社からここまで、4つの空堀跡を通過。
それぞれには石の欄干が架かっており、ここから覗き込むと、各空堀の様子が見れる。

公園側からみた下の写真は、手前の欄干が第2空堀跡。 奥が第3空堀跡。



【空堀跡】

城山公園は城の本丸にあたる場所のように思えるが、
案内板には 『東側主郭と考えられる曲輪』 と書かれてあった。

ここには櫓風のメロディー時計台が建っていた。
平成4年、この時計台を建設する際に発掘調査が行われ、
竪穴状の遺構のほか、杯、皿、青磁器、陶器などが発掘されたとのこと。
これらの遺構、遺物は戦いが繰り広げられた時代のものに該当するらしい。

【時計台】

標高60mにあたる場所にある高城城址は、三方が崖となる自然の地形を利用した城で、
舌状に細長く伸びた台地にある。
周囲は平地になっているので、とても見晴らしがいい。



本丸西側のみが緩やかな斜面になっているため、7つの空堀で防御。
こちら時計台下、南側斜面には帯曲輪がみれる。

【南側斜面の曲輪】

時計台は展望台となっており、周囲の地形がよくわかる。

【時計台からの景色・南側①】

南方を流れる小丸川。
高城址は、小丸川とその支流である切原川に挟まれた場所にある。

【時計台からの景色・南側②】

城山公園内。
城主・山田有信ら島津軍は、この辺りに本部を置き、戦いに備えていたのだろう。

【時計台からの景色・城山公園】

耳川の戦いでの戦死者の供養塔。
今も山中や周辺の田畑の中に供養されずにある無縁墓が放置されており、
その供養のために建てられたもの。

【供養塔】

城山公園内には他に忠魂碑、高城での戦のことが記された石碑が建っている。

【忠魂碑】

【高城興亡記石碑】

天正15年(1587)、
再び大友氏は日向攻略のため、今度は豊臣秀吉を頼り、秀吉は弟の秀長を派遣する。

秀吉軍は根白坂で島津軍と激突。
島津軍は敗れ降伏するも、高城城主・山田有信は開城を拒んだ。
そのため秀長率いる15万の大軍に高城は包囲され、猛攻を受ける。
しかし、有信はわずかな戦力でこの攻撃をも防いでみせた。

結局、島津義久の説得に応じ、有信は子の有栄を人質に差し出し降伏する。
(1609年、有信死去の際は主君・義久は有信の棺の前で自ら焼香し、その死を惜しんだと言われている。)

その後、秀吉の九州平定により、高城は秋月氏の領するものとなるも、
元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった。

今では小さな公園となった高城だが、
2度の大きな合戦を耐えた堅固な砦として、
また、それを守り抜いた名将・山田有信の名とともに強く印象に残った。


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