Twitterで、「もしも、聴覚障碍者が誰もいない場所で、突然具合が悪くなったら…」というシチュエーションを描いたショートマンガを読んだ。
絵で見せるのが一番いいかもしれないが、私が描いたわけではないので、勝手にここに掲載するわけにはいかない。
そこで、簡単にストーリーの流れを話したいと思う。
1.聴覚障碍者が夜に誰もいない路上で、突然具合が悪くなった。
2.彼のスマホの電源は切れていた。(つまり友人や知人にメールもできない)
3.公衆電話で救急車を呼ぶが、電話の向こうの相手の声が聞こえない。
私も健聴者なので、聴覚障碍のある方がこのような事態になった場合、健聴者中心の社会システムに不安を感じているということに気付きもしなかった。
私は、聴覚障碍者専用救急ダイヤルを設置し、体調不良は1、ケガは2、事故は3というふうにダイヤル入力をし、GPSでその公衆電話のある場所を特定するのはどうかと考えた。
聴覚障碍者の当事者の方から、「公衆電話でダイヤルでやるよりは、公衆電話にテレビ電話を設置し、手話がわかる人が待機し、手話で会話ができるようにする」という案が出た。
聴覚障碍のある方は、何か目に見えるツール、つまり「可視化できるツール」があるのがいいのかということに気付いた。
健聴者は聞こえる世界の中で不自由を感じることはないし、
身体に障害のない健常者は道に少々の段差があっても平気である。
聴覚障碍者と健聴者、
身体障害者と健常者、
この両者の間には、どうしても「マイノリティとマジョリティの温度差」が生じてしまう。
「今、こんなことで困っているのだけど…」
「この社会システムって、どうなんだろう?」
とマイノリティが疑問に感じていても、
マジョリティにとっては、何の不自由も感じていないので、疑問を持つこともない。
だから、マジョリティは、マイノリティには見えている溝すら気づかないことも少なくないだろう。
そこで、マイノリティの方たちが、「ここに、あなたたちには見えない溝があるよ」とマジョリティの人たちに言いやすい社会を共に創っていくことが、本当の意味でのノーマライゼーションだと思う。
「そんなことは、障碍者本人や障碍者の家族、福祉だけに任せとけばいい」
ではなく、社会全体で考えていけるようになるといいなと思い、この記事を書きました。
BY.Tomo