海と空

天は高く、海は深し

詩篇第二十篇註解

2005年09月18日 | 詩篇註解

 

第二十篇   戦場に向かう者の祈り

 
この詩篇の主題は第六節にある。戦争を前にして勝利を神に求める祈りである。ダビデはサウルの跡を継いでヘブライ人の指導者になった。当時の王はその王位を継承するときに油を注がれたので、王は受膏者とも呼ばれる。歴代誌にはダビデが当時のエルサレム周辺の住民であったペリシテ人やエブス人と戦ったことが記録されている。(歴代上第十一章以下)今日もユダヤ人はパレスチナ人と戦争しているが、そうした戦を前にして、民衆が不安におののきながらダビデ王の勝利を期して祈った歌である。

 
この詩篇に登場するのは、主なる神、王たるダビデ、歌の指揮者、そして民衆である。指導者ダビデに対する賛歌が歌われる。戦争という苦難や危機は今日の時代にも絶えることがない。今もイラク戦争が戦われているが、逆境や苦難は単に個人ばかりではなく、国家や民族にもこもごも訪れる。個人の苦境は神に頼って自ら切り開くしかないが、国家や民族の窮迫を打開するのは、昔なら国王や将軍、今日のような民主国家では首相や大統領などの指導者である。優れた指導者を持ちうるか否かが国運を左右する。日本においても明治期は比較的に優れた指導者を持ちえたといえるが、太平洋戦争時や今日のわが国の指導者はどうか。  

しかし、指導者といっても共同体の外部から連れてこられるのではない。その内部から選ばれるのである。優れた資質のない国民や民族から優れた指導者が生まれる道理はない。この詩は単に個人の逆境からの脱出を祈る詩というよりも、国家や民族が危機にある時の社会的な祈りとして読まれる。だから、私たちはこの詩を、私たちの中から神が優れた指導者を賜ることを願う祈りとして、彼の指導が万全であることを願う祈りとしても読むことができる。優れた指導者を持ちえる国民は幸福である。

    
聖書においてはダビデはイエスの先駆でもある。だから、ダビデはイエスでもある。父なる主がイエスの戦いに勝利を与えて下さることを祈願する祈りとも読める。そのとき、ダビデの捧げものとは、イエスの十字架上の犠牲に他ならない。この生贄が快く受け入れられ、イエスの心の願いをがすべて実現されるようにと、イエスの勝利の旗を私たちが掲げることができるようにと祈る。イエスは私たちにとっては究極の指導者である。


個人においても国家においても主は、強い砦であり盾である。富者や軍事大国は戦争において自分の財産や戦車や馬の脚力を誇るかもしれない。今日の時代で言えば、核弾頭を搭載したミサイルや原子力空母、潜水艦、ハイテクの塊のような戦闘機に頼るようなものである。しかし、イスラエルの民が頼るのは、固い岩、高き砦にたとえられる神である。

 私たちの神に依頼する限り、個人も国民も支えられ、力に満ちて再び立ち上がる。アメリカ軍やイスラエル軍が強いのは、科学技術の先端をゆく武器もさることながら、聖書によって主への祈りに支えられているからだと思う。 
 
この詩篇は、家族の世帯主や国家の指導者に対する祈りでもある。私たちの王や家長や指導者が神から勝利を賜ることによって得るものは、私たちの救いである。

 

 

 

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