有田芳生の『酔醒漫録』

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「ぜんぶ、フィデルのせい」

2007-10-06 09:17:01 | 映画

 10月5日(金)秋らしい気候になってきた。「政策ノート」を買いに日本橋の丸善へ。文房具売り場で予定していたものを手にするとどうもなじまない。すべてのノート類を物色した結果に選んだのはケンブリッジのライティングパッドだった。もちろん政策は新党日本の総選挙に向けてのものである。京橋で「ぜんぶ、フィデルのせい」の試写を見た。この「フィデル」とはキューバの国家評議会議長であるフィデル・カストロのことだ。1970年のパリ。9歳のアンナの父は弁護士、母は雑誌記者だった。あの時代は国境を越えて政治が生活のなかに浸透したものだ。70年にはチリで民主連合のアジェンデ政権が成立する。この政治勢力が71年に地方選挙で勝ったとき、パリで政治運動をしている人たちは熱い握手を交わし、それからの世界に希望を抱いた。この日本でもそうだった。遠い中南米に成立した民主的政府の行方は日常的な関心事であった。ところが73年にアジェンデ政権はクーデターで倒される。アジェンデ最後の演説が映画でも流された。「ベンセレモス」(われらは勝利する)という人民連合の歌も映画のシーンに出てくる。あのチリが世界で注目された3年間であった。

071005_18090001  私も京都にいてこの政権の行方がとても気になっていた。国際的な連帯精神が生き生きと蠢(うごめ)いていた時代。アンナは大人たちの世界に疑問を持ちつつ、影響もされていく。映画は9歳の子供の視点から描かれている。最後あたりで、30数年が経過して、中年になったアンナが出てきて、当時を振り返って欲しかったと「ないものねだり」。「縦型」ではなく「水平型」の運動ならば「澱み」は少ないのかも知れないとも思った。「21世紀型のミニ・スターリニズム」とは、実体的には「20世紀全体主義」の残滓なのだ。「インサイダー」からの情報で全国で問題が起きていることを知る。たとえば関西。勤務時間中にもかかわらず特定政党の後援会の仕事をしろとの業務命令があった。それを拒否したところ処分があり、裁判沙汰になったそうだ。「思想信条の自由」とは建て前で、組織と官僚の自己都合でいくらでも蹂躙する。こうした体質を自己切開できないのなら、外部からの力で変えていくしかない。いくつかの週刊誌と新聞から問い合わせが来ている。午後6時半から湯島の「岩手屋」で五十嵐茂さんと日本酒を飲む。


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3 コメント

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チリのアジェンデ政権の崩壊を描いた映画、「サン... (渡邉明)
2007-10-06 12:37:48
チリのアジェンデ政権の崩壊を描いた映画、「サンチャゴに雨が降る」を思い出しました。30年近く前に観た映画なので、記憶がおぼろげなのですが、サッカー?競技場に集められた反ピノチェト側の学生、労働者。その一人が、ベンセレーモスを歌い始める。ふつうは、その声が、大きくなり、兵士がたじろぐという具合なのですが、いきなり、兵士の銃座で殴られ、血まみれになり、その場に倒されてしまう。そんなシーンが頭に残っています。ちなみに、この映画は、誰が邦題をつけたかわかりませんが、「特攻要塞都市」ということでビデオとなっているそうです。
人間の権利を説く思想が民主主義であり、義務を説... (榎本康夫)
2007-10-06 19:56:06
人間の権利を説く思想が民主主義であり、義務を説く思想が全体主義と呼ばれています。

民主主義は弱者の論理が優先され、
自由主義は強者の論理が優先されます。

これを考えても 民主主義、全体主義、自由主義のどれもが中途半端であるけれども 三本のベクトルを考えると どうも民主主義のベクトルが強くて一本勝ちが良さそうで、且つ全体主義も自由主義もほどほどに内在している社会像が目に浮かんできそうです。

しかし、私は 健全な人間社会を構成する為には 民主主義者、全体主義者、自由主義者ではいけないの考えています。

新しい理念が必要だと思っています。多分皆さんもその様に思うところがあるのだと感じながら書かせていただいています。

新しい理念とは・・
「人心権思想」というべき「心」を人権の中に入れた考え方ではないかと思っています。
1970年代における中南米の軍事クーデタによる... (中野)
2007-10-08 12:23:00
1970年代における中南米の軍事クーデタによる独裁政権の犯罪は凄まじい限りで、今なおかつ影を引いています。
然し今の一般の日本人には地球の裏側の事件であり、映画でこそ悲劇を知り悲しみを覚えますが、実感としてその恐怖は共有できない気がします。
振り返れば小生も、「アジェンデが倒された」というニュースにピノチェトに怒りこそすれ”遠い出来事”でした・・・。

一昨日、「山形国際ドキュメンタリー映画祭」に参加して、その中で出品されたアルゼンチンの若い監督(ニコラス・プリビデラ)作品「M」は、彼の”母親探し”のまさしく軍事権時代の”負の追求”でした。
それは今でも1万人以上もの「名前さえ消された」失踪者(母)の怒りと、もしかしたらニコラス氏の一生涯”終ることのない”追求の旅になるかも知れないと思うと、この現代社会の人間自身の内にある”闇”を考えざるを得ません。従って、”音楽”を敢えて入れませんでしたと上映後の討論で言ってました。
然も、幼稚園で普通に働きペロン派の集まりには出てはいても本当の秘密のゲリラ組織のメンバーではないと思われていた(男性幹部は既に国外に逃げていたし、母親は周囲の心配にも「私は大丈夫」と答え、家族と一緒に居た)だけに、市民社会に潜む”密告”という疑念です。
むしろ「殺人者はまだ我々の中に居て、大手を振って生きてる」可能性があり、従って我々は「過去を置き去りにすることは出来ないのだ」と。
小生は良く知りませんが、日本では30年代かの治安維持法時代に遭った密告とか裏切りとかに匹敵するのかと思うと、とても背筋の寒くなる「セルフ・ドキュメンタリー」でした。

この前のキューバ参事官ロペス氏の送別会で、聞いてみました。
「カストロがもし死んだ後のキューバはどうなりますか、心配してます」と言ったら、
すぐ「変わると思います。但し!反米は変わらない」と返答してくれました。
今日は「ゲバラ・フォーラム」、今週末「キューバ・フォーラム」ありますが、キューバ大使館として誰かが参加してくれるようです。

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