目に見えないものを共有するのは
すごく時間のかかることだ
時間がかかったとしても共有できない場合もある
昔おつきあいしていた人に
「愛って思いやることだよ」と言われて
僕はそのとき
そりゃあ「思いやること」はあなたにとっての愛だろうけど
僕にとっては愛って思いやることでないかも
しれないじゃないかと思った
そもそも愛なんて目に見えないものなのに
「思いやる」なんてまた目に見えないものに
例えられたって、こちらはそんなこと理解できるほど
頭よくねーっつーの!!なんて言いたかったけど、
思っただけで、何も言わなかった。
頑固で自分を曲げない信念がある子だったので
言ってもけんかっぽくなって雰囲気を壊すと思ったから。
それに、じゃああんたに愛ってなによ!?って言われたら
うーん、愛ってんだろうね?
と口ごもってしまうのは間違いないとおもったのもある
転んで泣いている子どもに手を差し伸べるのも
愛だろうし、そのまま自分の力で立ち上がるのを
見守るのも愛だろうし。
笑いころげて、
「だっせー!!転んだくらいでないているんじゃないよ!!」と
突き放すのも愛だろうし。
その時はなんか怒られてるというか、
そんなことを言われてるくらいだから
僕には思いやりも愛も足りないんだろうなと
思って、そのころから愛ってなにかを
相当考えている。
阿久悠さんが愛について具体的に愛を定義していて
「愛とは相手のことを忘れない記憶力と、それを相手に伝える誠意だ」
みたいなことを「清らかな厭世」というエッセイに書いていた
あーあいつ元気かなってことを
思い出して、それを伝えたり、
料理でも、あ、あの人ねぎ嫌いだったから
ねぎをいれないメニューを考えようとか
そういうのが愛だって具体的な愛のカタチを示してくれた
愛って忘れないこと
それを伝えること
これを書いているってことは
その子のことを思い出しているということで、
それは僕なりの愛なんだろう。
そうすると愛なんていくらあっても
足りない気もする
伝えるかどうかは別として