藤川球児投手が、今シーズン限りでの引退を発表しました。
ついにこの日が来てしまったか・・・という感じですが、まさかあのJFKの時代からこんなに長く現役を続けられるなんて思ってもみませんでした。
JFKの一員として活躍する前の球児といえば、なかなか勝てないピッチャーという印象でした。先発して何試合かは、あと少しで勝ち投手になれそうなのにあと一歩のところで勝ちが逃げてしまう。そんな感じでした。広末涼子の同級生だったとか、中学時代に人命救助をしたとか、野球とは別のところで話題になったこともありました。
記憶にある初勝利は、神宮の試合でテレビ放送がなかったためラジオ観戦での試合でした。ヒーローインタビューで涙ぐんでいる様子が、ラジオの音声からも伝わってきたのを覚えています。
先発で初勝利を挙げたものの、その後もパッとせず1軍と2軍を行ったり来たり。そして、忘れられないのが、2003年4月11日の巨人戦。9回に6点差を追いつかれて引き分けた試合です。忘れもしない後藤の同点3ラン。球児・・・なんてことしてくれたんや・・・という感じでした。いや、球児!何してくれてんねん!アホボケカス!やったかな?(笑)けれども、後々その試合が優勝へのきっかけとなった試合だったと語られるようになったことを思えば、タイガースにとっても球児にとっても意味のある試合だったのだと思います。
そして2004年。山口コーチの「球児、右足ちゃうか」というかの有名なアドバイスにより、投球フォームのきっかけを掴んだ球児。オリンピックで安藤が抜けたこともあり、中継ぎでの登板機会が増え一気にそこで覚醒しました。
2005年からの球児はもう語るまでもありません。JFKという野球界にとっては革命ともいえる中継ぎリレーを完成させました。先発が降板した後の7回、そこを如何に完璧に抑えるかでその後のゲーム展開を有利に進めることができるということを体現して見せました。
改めて当時のブログの内容を見ると、岡田監督による球児の酷使に対してやたらキレてましたね。もっと大事に使えー!って感じで。いや、アホの一つ覚えみたいに何でもかんでもJFK使うな!どんでんのアホボケカス!やったかな?(笑)とにかく、3イニング跨ぎとか10連投とか卒倒しそうでした。こんな使い方で、消耗品と言われる肩がどれだけ持つのか?このままだとあと2~3年で故障するかもしれない。この火の玉ストレートをこの先長く見ることはできない。そんな思いもあって、当時の球児の投球を刹那的な目で見ていた気もします。
全盛期の球児は全く打たれる気がしなかった。来ると分かっていてもバットにかすりもしないホップするようなストレート。“ストレートという名の魔球”とはよく言ったものです。球速は150キロあるかないかだったけれど、とにかく回転数が多い。覚醒する前から、球児とキャッチボールした井川が、「回転数が多くて球児とキャッチボールするのが怖い」と藪さんに話していたそうです。とにかくよく伸びると。
けれども、私が本当にすごいと思ったのが2019年。抑えに転向してからの球児でした。春先は調子が悪く、2軍に落ちたこともあって、「さすがに球児もここまでか・・・」と思った矢先、1軍に昇格して登板を重ねていくうちに本来のピッチングを取り戻し、不調だったドリスに代わってクローザーを任されることになりました。あれから15年。40歳を前にして、これまでの酷使や手術を乗り越え、当時と変わらぬピッチングスタイルを貫き続けるその姿は、私の遥か想像を超えるものでした。
250セーブまであと5つ。あと7つからスタートした今シーズン、開幕して近いうちに達成されるものと思っていました。ところが、新型コロナの影響で開幕が遅れたこともあり、調整不足のせいか思ったようなピッチングができず、2軍落ち。一旦昇格したものの、その後も不調が続いて再度2軍落ちとなり、今回の引退発表へとつながりました。
もちろん、250セーブを達成してほしいという思いはあります。けれども、手術が必要なくらいの状態と聞くと、現実的にはかなり厳しいでしょう。
でも、球児はまだ残りシーズンを諦めていない。だから私も諦めない。たとえセーブがつかない場面であろうとも、リンドバーグの曲に乗せて甲子園のマウンドに向かう球児を見届けたい。渾身のストレートを投げる姿を目に焼き付けたい。そう思っています。
それまで、「お疲れさま」も「ありがとう」もとっておくことにします。頑張れ!球児!
ついにこの日が来てしまったか・・・という感じですが、まさかあのJFKの時代からこんなに長く現役を続けられるなんて思ってもみませんでした。
JFKの一員として活躍する前の球児といえば、なかなか勝てないピッチャーという印象でした。先発して何試合かは、あと少しで勝ち投手になれそうなのにあと一歩のところで勝ちが逃げてしまう。そんな感じでした。広末涼子の同級生だったとか、中学時代に人命救助をしたとか、野球とは別のところで話題になったこともありました。
記憶にある初勝利は、神宮の試合でテレビ放送がなかったためラジオ観戦での試合でした。ヒーローインタビューで涙ぐんでいる様子が、ラジオの音声からも伝わってきたのを覚えています。
先発で初勝利を挙げたものの、その後もパッとせず1軍と2軍を行ったり来たり。そして、忘れられないのが、2003年4月11日の巨人戦。9回に6点差を追いつかれて引き分けた試合です。忘れもしない後藤の同点3ラン。球児・・・なんてことしてくれたんや・・・という感じでした。いや、球児!何してくれてんねん!アホボケカス!やったかな?(笑)けれども、後々その試合が優勝へのきっかけとなった試合だったと語られるようになったことを思えば、タイガースにとっても球児にとっても意味のある試合だったのだと思います。
そして2004年。山口コーチの「球児、右足ちゃうか」というかの有名なアドバイスにより、投球フォームのきっかけを掴んだ球児。オリンピックで安藤が抜けたこともあり、中継ぎでの登板機会が増え一気にそこで覚醒しました。
2005年からの球児はもう語るまでもありません。JFKという野球界にとっては革命ともいえる中継ぎリレーを完成させました。先発が降板した後の7回、そこを如何に完璧に抑えるかでその後のゲーム展開を有利に進めることができるということを体現して見せました。
改めて当時のブログの内容を見ると、岡田監督による球児の酷使に対してやたらキレてましたね。もっと大事に使えー!って感じで。いや、アホの一つ覚えみたいに何でもかんでもJFK使うな!どんでんのアホボケカス!やったかな?(笑)とにかく、3イニング跨ぎとか10連投とか卒倒しそうでした。こんな使い方で、消耗品と言われる肩がどれだけ持つのか?このままだとあと2~3年で故障するかもしれない。この火の玉ストレートをこの先長く見ることはできない。そんな思いもあって、当時の球児の投球を刹那的な目で見ていた気もします。
全盛期の球児は全く打たれる気がしなかった。来ると分かっていてもバットにかすりもしないホップするようなストレート。“ストレートという名の魔球”とはよく言ったものです。球速は150キロあるかないかだったけれど、とにかく回転数が多い。覚醒する前から、球児とキャッチボールした井川が、「回転数が多くて球児とキャッチボールするのが怖い」と藪さんに話していたそうです。とにかくよく伸びると。
けれども、私が本当にすごいと思ったのが2019年。抑えに転向してからの球児でした。春先は調子が悪く、2軍に落ちたこともあって、「さすがに球児もここまでか・・・」と思った矢先、1軍に昇格して登板を重ねていくうちに本来のピッチングを取り戻し、不調だったドリスに代わってクローザーを任されることになりました。あれから15年。40歳を前にして、これまでの酷使や手術を乗り越え、当時と変わらぬピッチングスタイルを貫き続けるその姿は、私の遥か想像を超えるものでした。
250セーブまであと5つ。あと7つからスタートした今シーズン、開幕して近いうちに達成されるものと思っていました。ところが、新型コロナの影響で開幕が遅れたこともあり、調整不足のせいか思ったようなピッチングができず、2軍落ち。一旦昇格したものの、その後も不調が続いて再度2軍落ちとなり、今回の引退発表へとつながりました。
もちろん、250セーブを達成してほしいという思いはあります。けれども、手術が必要なくらいの状態と聞くと、現実的にはかなり厳しいでしょう。
でも、球児はまだ残りシーズンを諦めていない。だから私も諦めない。たとえセーブがつかない場面であろうとも、リンドバーグの曲に乗せて甲子園のマウンドに向かう球児を見届けたい。渾身のストレートを投げる姿を目に焼き付けたい。そう思っています。
それまで、「お疲れさま」も「ありがとう」もとっておくことにします。頑張れ!球児!