「サクヤはちょっと来てみろよ。変なのがいるぞ」
庭に面したポーチからキジローが呼んだ。
「ほら、あの丸いヤツ。俺は初めて見るぞ」
「ほんと、キマワリだわ。あなたが餌箱をぶら下げたから、いつもの鳥たちに混じって山から下りて来たのね」
ポーチに出て来たサクヤを、キジローが肩かけで包んだ。
「側で見たい?呼んでみましょうか?」
サクヤが口笛で細い音をいくつか出すと、15羽ばかりの小鳥が2人の周りに集まって来た。
「この子がキマワリ。新顔さん。こっちの子は毎朝来てるのよ。マスクしてるからゾロって呼んでるの。この子も常連。眉が2本なの」
肩や頭に鳥を止まらせながら、キジローは感心した。
「あんた、いつからこういう芸当、覚えたんだ?」
「前からずっと。水に入ると魚が集まって前が見えないくらい」
「へえ、たいしたもんだ」
「ありがとう。巡回に戻って」
サクヤが手を広げて、小鳥達を飛ばせた。
キジローは思わずサクヤの腕を掴んだ。
「どうかして?」とサクヤが振り返った。
「いや……すまん。あんたが一緒に飛んでっちまいそうな気がして」
サクヤがふっと微笑んだ。
「大丈夫。あなたといるわ」
「冷えるな。中に入ろう。珈琲でも煎れよう」
キジローが珈琲ポットを持って、リビングに入って来るとサクヤが大皿一杯のドライフルーツを糸に通していた。
「何してるんだ?」
「鳥たちにもサンクス・ギビングのご馳走。今年の冬は厳しいから、若鶏を応援しようと思って」
「えらく豪勢だな。プルーンにくるみにナツメ? これはデーツか?俺が食いたいぐらいだ」
「はい、口開けて」
サクヤはキジローの口に、デーツを1コ放り込んだ。
「10本、鳥の分が出来たから残りは全部あなたのものよ? 後で木に下げてくれる?」
キジローはサクヤの手首を掴んで、指をくわえた。
「俺はこっちでいい」
1本1本時間かけて舐った。
「もう味しないでしょう?」
「甘い。あんたの指はいつも甘い味がする」
「そう…?」
「それに香りがする。オレンジの花ってこんな匂いか?」
「さあ……?」
「初めて会った時から、ずっと気になってた。何の香りだろう?」
両手首をキジローに掴まれたまま、サクヤは微笑んだ。
「自分では、よくわからないわ」
「髪かな? 肌が香ってるのか……?」
キジローはサクヤの肩に手をかけて、うなじに顔を埋めた。
「ユリかな? 水仙もこういう涼しい匂いだよな」
「さあ……。キジロー……くすぐったいわ」
「じっとして」
「キジロー……」
2人の後ろで咳払いが響いた。
「お2人さん。1人息子が帰省中なのを忘れてない?」
「ちったあ気を利かせろよ」
「どれだけ台所に潜伏してたら済むのさ。微妙な年頃なんだから、そっちこそ気を使って欲しいよな」
エクルーはソファにずぼっと座って、ナツメを口に放り込んだ。
「料理を俺に押し付けて、2人でイチャイチャと……まったくシンデレラになった気分だよ」
「ターキーは絶対に自分で作るって言い張ってたの、お前じゃないか」
「だってヒョンヒから面白いレシピ貰ったんだ。モチ米と朝鮮人参、栗、はすの実入り、サムダゲン風ターキー」
キジローが世にも情け無さそうな声を出した。
「それ食えるのか?」
午後、エクルーがネットで論文を拾い読みしているとキジローがドアをノックした。
「ソラマメ潰した?」
「豆をやっつけて、リビングに戻ったらサクヤがいない」
「玄関は開かなかったよ?」
「でも家の中に見当たらない」
エクルーは一緒に階下に下りて、まっすぐに西側の窓に歩み寄った。
そして両腕を少し上げて、空中の何かを軽く掴んだ。
「サクヤ? 鳥を見てるの? うん。ツルも帰って来てるよ? 去年巣立ちした足の悪いヤツ、ちゃんと戻って来た。そいつを探してたんだろ?」
「本当? 元気だった?」
「うん。寝ぐらを見つけといた。明日の朝、案内するよ」
「ええ。約束ね」
エクルーの腕の中にふうっとサクヤが帰って来た。
「ずっと窓の外にいたんだろ? 冷え切ってる。顔が青いよ。ディナーまで2階で横になってたら?」
「でも別に眠くないわよ?」
「キジローがレバノン料理に苦戦してるから、ツルの機織りを見ないでやろう?」
「わかった。できたら呼んでね?」
「後でホットミルク持ってくよ」
「お砂糖、入れないでね?」
「了解」
トントンと軽い音を立てて、サクヤが2階に上がって行った。
リビングの入り口で、キジローが立ち尽くしていた。
身体が震えていた。
エクルーは乱暴にキジローの肩を抱いて揺すぶった。
「しっかりしよろ。覚悟してたんだろ?」
キジローはエクルーの身体にぶら下がるように、しがみついて声を出さずに泣いた。
無言で叫んでいた。
エクルーは自分より大きなキジローを包むように支えていた。
「俺、このまま家にいる。休み前に最期の論文提出して来たんだ。ずっと一緒にいる。何度でもサクヤを見つけて呼び戻すから」
クリスマスまでには、キジローもかなりサクヤを見つけるのがうまくなった。
口笛で低い音をいくつか吹くと、部屋の中で風の動くような気配がする。
そっと側に近寄ると花の香りがするので、香りを抱きしめて話しかけているとたいてい腕の中にサクヤが現れるのだ。
ふわっと微笑みながら。
「もともと“星読み”は俺達“風読み”ともちょっと違う位相に足つっこんでる人間なんだ。今はそのズレが大きくなって、むしろ俺達と重なってる領域の方が狭くなってる。でも身体はここにある。絶対に呼び戻せる」
「あのまま、帰ってこなくなったりしないのか」
「それはない。サクヤは律儀だし、絶対“光”を俺に私に来るはずだ」
キジローはしばらく握りこぶしを口にあてて黙っていたが、やがてポンとエクルーの肩を叩いて言った。
「お前がいて助かったよ。俺ひとりなら、もうとっくに姫さんを見失ってたかもしれん」
「まさか」とエクルーが笑った。
「窓辺にもいつもウィングチェアーにもいない時は、たいていサクヤはキジローの側にいるじゃん。いつもみたいに右腕を伸ばして引き寄せたら、キスできる所にいるんだよ? キジローがいつまでも情けない顔してるから、ほっとけないじゃないの?」
エクルーはどしんとキジローの背中をどやした。
「父さん。しゃんとしてろよ。今の内にサクヤといちゃつけるだけいちゃついていいから。俺に遠慮しなくていいよ」
新年を迎える頃には、サクヤは消えていることの方が多いぐらいになっていた。
庭や台所、あるいはセージの咲き乱れるムースで、何かの気配がしてキジローが振り返るとサクヤがたたずんでいる。
それはあまりにも確か過ぎる予感だった。こういう形で、自分は慣れていくしかないのだ。いつかサクヤを失うことに。
消えている間、サクヤはあっちこっちに漂っているらしい。
そこが何万光年先だろうと、未来や過去だろうと、関係ないようだ。自分を呼んでくれるものがあれば、頓着せずに出没して驚かせて楽しんでいるフシがある。
その日の午後、キジローの腕の中に現れたサクヤはくすくす笑っていた。
「今度はどこへ行ってたんだい」
「ユリエさんにあなたの秘密を聞いちゃった」
サクヤはまだ笑っていた。
ユリエはキジローの前の妻だ。幼なじみの従妹でもある。生まれつき勘が強く、自分でも持て余して苦しんでいた。それで家族とぎくしゃくして、祖母のところによく逃げ込んで来ていた。2人の祖母は、神主をやりながら頼まれると怪しい除霊めいたこともやっていた。
ごく自然に、当り前のように、キジローはユリエと結婚した。そしてキリコを産んだ翌日、ユリエはこの世を去ったのだ。
「ユリエに会ってたのか? あんたの今日の服、あ、ユリエが”白いモナリザ”って呼んでたの、あんたのことだったのか」
ユリエやしょっちゅう怪しいものを見る娘だったので、キジローもいちいち騒いだりしなかった。それでも”白い服の女の人”はユリエには特別だったらしい。よく話を聞かされた。
「まあ、そんなあだ名がついてたの? 確かに名乗らなかったものね。あなたはいつもクラブだの道場だので留守だから、ユリエさんにあなたのこと聞いていたの」
「ユリエは何て?」
「あなたが国体でバタフライの記録を出したって」
サクヤがくすくす笑い出した。
「この肩幅で泳げないなんてヘンだと思ってた。トラウマでもあるのかと思って追求しなかったんだけど」
出会ったばかりの頃、キジローは”泳げないから水が怖い”と言ってサクヤの手を握って泉に入ったのだ。単にサクヤの瞳の中に緑色が見えないか、側で観察するための口実だった。
キジローは頭をボリボリかいた。
「縁側でユリエさんとおしゃべりしたの。彼女ったらあなたのことばかり。あなたはユリエさんのヒーローだったのね」
「よせよ」キジローがさらに頭をかいた。
「私にとってもヒーローよ。卵を受け取ってくれたし。本当は卵ごと、私を受け止めて欲しかったわ。でも初対面ではしたないかしらと遠慮したの」
初めてイドラのバザールで会った時、サクヤはチンピラに追われていた。キジローはサクヤの逃走を助けて、建物の屋上に追いつめられたサクヤが放った卵の袋を受け取めたのだ。サクヤ自身は危なげなく、ひらりとキジローの隣りに降り立つとにっこりと御礼を言いながら卵の袋を返してもらった。
「そりゃぜひ姫さんのおしりをキャッチしたかったね」
あれはもう18年も前のことなのだ。それでも屋上から長い髪を光に透かせてキジローを見下ろしたサクヤの顔が鮮やかに思い出せる。
”クロクマさん。これ受け取って”
サクヤはキジローの腕の中で、ひとしきり笑っていた。ふと笑い止んで、キジローの胸にもたれた。
「どんなに思い出を作っても、どんなに思い出を追っても満足できない。私って欲張りね」
キジローがぎゅっと抱きしめた。
「忘れないで。私もユリエさんもあなたのことが大好きだった。あなたに夢中だったの。見つめていたい……これからもあなたを」
サクヤはくるっと身体の向きを変えると、キジローの胸に埋めて顔をかくした。両腕をキジローの胴に回して抱きしめるとつぶやいた。
「クロクマさん。大好きよ。あなたにあえて良かった」
「そんな遺言みたいなこと言うな」
かすれた声でキジローが言った。くちびるをサクヤの頭のてっぺんにつけて、髪の香りをすいこんでいる。
サクヤはエクルーに対して自分の気持ちをはっきり出したことがなかった。でもキジローには努めて甘い言葉を言ってくれていた気がする。自分がよっぽど情けない顔をしていて、甘えさせてくれてたんだろうな、と今になって思う。
オプシディアンに来てからはことさらだ。
吹っ切れたように。あるいは残った時間を有意義に過ごして思い出を作るために。
「俺もまだ満足してないからな。もっとあんたの髪を触りたい。あんたの香りをかぎたい。あんたをもっと……抱きたい」
サクヤがキジローの胸から顔を離して、じっとキジローの目をのぞき込んだ。
「私も……もっとあなたが欲しい」
キジローが耳元に口を寄せてかすれ声で言った。
「部屋に行こう。……どこまでできるかわからんが、あんたを全身で感じたい」
サクヤはキスで答えた。
今はお互いに体温と体重が感じられる。呼吸も鼓動も伝わってくる。いつまでかわからない。でも今は、2人ここにいる。
庭に面したポーチからキジローが呼んだ。
「ほら、あの丸いヤツ。俺は初めて見るぞ」
「ほんと、キマワリだわ。あなたが餌箱をぶら下げたから、いつもの鳥たちに混じって山から下りて来たのね」
ポーチに出て来たサクヤを、キジローが肩かけで包んだ。
「側で見たい?呼んでみましょうか?」
サクヤが口笛で細い音をいくつか出すと、15羽ばかりの小鳥が2人の周りに集まって来た。
「この子がキマワリ。新顔さん。こっちの子は毎朝来てるのよ。マスクしてるからゾロって呼んでるの。この子も常連。眉が2本なの」
肩や頭に鳥を止まらせながら、キジローは感心した。
「あんた、いつからこういう芸当、覚えたんだ?」
「前からずっと。水に入ると魚が集まって前が見えないくらい」
「へえ、たいしたもんだ」
「ありがとう。巡回に戻って」
サクヤが手を広げて、小鳥達を飛ばせた。
キジローは思わずサクヤの腕を掴んだ。
「どうかして?」とサクヤが振り返った。
「いや……すまん。あんたが一緒に飛んでっちまいそうな気がして」
サクヤがふっと微笑んだ。
「大丈夫。あなたといるわ」
「冷えるな。中に入ろう。珈琲でも煎れよう」
キジローが珈琲ポットを持って、リビングに入って来るとサクヤが大皿一杯のドライフルーツを糸に通していた。
「何してるんだ?」
「鳥たちにもサンクス・ギビングのご馳走。今年の冬は厳しいから、若鶏を応援しようと思って」
「えらく豪勢だな。プルーンにくるみにナツメ? これはデーツか?俺が食いたいぐらいだ」
「はい、口開けて」
サクヤはキジローの口に、デーツを1コ放り込んだ。
「10本、鳥の分が出来たから残りは全部あなたのものよ? 後で木に下げてくれる?」
キジローはサクヤの手首を掴んで、指をくわえた。
「俺はこっちでいい」
1本1本時間かけて舐った。
「もう味しないでしょう?」
「甘い。あんたの指はいつも甘い味がする」
「そう…?」
「それに香りがする。オレンジの花ってこんな匂いか?」
「さあ……?」
「初めて会った時から、ずっと気になってた。何の香りだろう?」
両手首をキジローに掴まれたまま、サクヤは微笑んだ。
「自分では、よくわからないわ」
「髪かな? 肌が香ってるのか……?」
キジローはサクヤの肩に手をかけて、うなじに顔を埋めた。
「ユリかな? 水仙もこういう涼しい匂いだよな」
「さあ……。キジロー……くすぐったいわ」
「じっとして」
「キジロー……」
2人の後ろで咳払いが響いた。
「お2人さん。1人息子が帰省中なのを忘れてない?」
「ちったあ気を利かせろよ」
「どれだけ台所に潜伏してたら済むのさ。微妙な年頃なんだから、そっちこそ気を使って欲しいよな」
エクルーはソファにずぼっと座って、ナツメを口に放り込んだ。
「料理を俺に押し付けて、2人でイチャイチャと……まったくシンデレラになった気分だよ」
「ターキーは絶対に自分で作るって言い張ってたの、お前じゃないか」
「だってヒョンヒから面白いレシピ貰ったんだ。モチ米と朝鮮人参、栗、はすの実入り、サムダゲン風ターキー」
キジローが世にも情け無さそうな声を出した。
「それ食えるのか?」
午後、エクルーがネットで論文を拾い読みしているとキジローがドアをノックした。
「ソラマメ潰した?」
「豆をやっつけて、リビングに戻ったらサクヤがいない」
「玄関は開かなかったよ?」
「でも家の中に見当たらない」
エクルーは一緒に階下に下りて、まっすぐに西側の窓に歩み寄った。
そして両腕を少し上げて、空中の何かを軽く掴んだ。
「サクヤ? 鳥を見てるの? うん。ツルも帰って来てるよ? 去年巣立ちした足の悪いヤツ、ちゃんと戻って来た。そいつを探してたんだろ?」
「本当? 元気だった?」
「うん。寝ぐらを見つけといた。明日の朝、案内するよ」
「ええ。約束ね」
エクルーの腕の中にふうっとサクヤが帰って来た。
「ずっと窓の外にいたんだろ? 冷え切ってる。顔が青いよ。ディナーまで2階で横になってたら?」
「でも別に眠くないわよ?」
「キジローがレバノン料理に苦戦してるから、ツルの機織りを見ないでやろう?」
「わかった。できたら呼んでね?」
「後でホットミルク持ってくよ」
「お砂糖、入れないでね?」
「了解」
トントンと軽い音を立てて、サクヤが2階に上がって行った。
リビングの入り口で、キジローが立ち尽くしていた。
身体が震えていた。
エクルーは乱暴にキジローの肩を抱いて揺すぶった。
「しっかりしよろ。覚悟してたんだろ?」
キジローはエクルーの身体にぶら下がるように、しがみついて声を出さずに泣いた。
無言で叫んでいた。
エクルーは自分より大きなキジローを包むように支えていた。
「俺、このまま家にいる。休み前に最期の論文提出して来たんだ。ずっと一緒にいる。何度でもサクヤを見つけて呼び戻すから」
クリスマスまでには、キジローもかなりサクヤを見つけるのがうまくなった。
口笛で低い音をいくつか吹くと、部屋の中で風の動くような気配がする。
そっと側に近寄ると花の香りがするので、香りを抱きしめて話しかけているとたいてい腕の中にサクヤが現れるのだ。
ふわっと微笑みながら。
「もともと“星読み”は俺達“風読み”ともちょっと違う位相に足つっこんでる人間なんだ。今はそのズレが大きくなって、むしろ俺達と重なってる領域の方が狭くなってる。でも身体はここにある。絶対に呼び戻せる」
「あのまま、帰ってこなくなったりしないのか」
「それはない。サクヤは律儀だし、絶対“光”を俺に私に来るはずだ」
キジローはしばらく握りこぶしを口にあてて黙っていたが、やがてポンとエクルーの肩を叩いて言った。
「お前がいて助かったよ。俺ひとりなら、もうとっくに姫さんを見失ってたかもしれん」
「まさか」とエクルーが笑った。
「窓辺にもいつもウィングチェアーにもいない時は、たいていサクヤはキジローの側にいるじゃん。いつもみたいに右腕を伸ばして引き寄せたら、キスできる所にいるんだよ? キジローがいつまでも情けない顔してるから、ほっとけないじゃないの?」
エクルーはどしんとキジローの背中をどやした。
「父さん。しゃんとしてろよ。今の内にサクヤといちゃつけるだけいちゃついていいから。俺に遠慮しなくていいよ」
新年を迎える頃には、サクヤは消えていることの方が多いぐらいになっていた。
庭や台所、あるいはセージの咲き乱れるムースで、何かの気配がしてキジローが振り返るとサクヤがたたずんでいる。
それはあまりにも確か過ぎる予感だった。こういう形で、自分は慣れていくしかないのだ。いつかサクヤを失うことに。
消えている間、サクヤはあっちこっちに漂っているらしい。
そこが何万光年先だろうと、未来や過去だろうと、関係ないようだ。自分を呼んでくれるものがあれば、頓着せずに出没して驚かせて楽しんでいるフシがある。
その日の午後、キジローの腕の中に現れたサクヤはくすくす笑っていた。
「今度はどこへ行ってたんだい」
「ユリエさんにあなたの秘密を聞いちゃった」
サクヤはまだ笑っていた。
ユリエはキジローの前の妻だ。幼なじみの従妹でもある。生まれつき勘が強く、自分でも持て余して苦しんでいた。それで家族とぎくしゃくして、祖母のところによく逃げ込んで来ていた。2人の祖母は、神主をやりながら頼まれると怪しい除霊めいたこともやっていた。
ごく自然に、当り前のように、キジローはユリエと結婚した。そしてキリコを産んだ翌日、ユリエはこの世を去ったのだ。
「ユリエに会ってたのか? あんたの今日の服、あ、ユリエが”白いモナリザ”って呼んでたの、あんたのことだったのか」
ユリエやしょっちゅう怪しいものを見る娘だったので、キジローもいちいち騒いだりしなかった。それでも”白い服の女の人”はユリエには特別だったらしい。よく話を聞かされた。
「まあ、そんなあだ名がついてたの? 確かに名乗らなかったものね。あなたはいつもクラブだの道場だので留守だから、ユリエさんにあなたのこと聞いていたの」
「ユリエは何て?」
「あなたが国体でバタフライの記録を出したって」
サクヤがくすくす笑い出した。
「この肩幅で泳げないなんてヘンだと思ってた。トラウマでもあるのかと思って追求しなかったんだけど」
出会ったばかりの頃、キジローは”泳げないから水が怖い”と言ってサクヤの手を握って泉に入ったのだ。単にサクヤの瞳の中に緑色が見えないか、側で観察するための口実だった。
キジローは頭をボリボリかいた。
「縁側でユリエさんとおしゃべりしたの。彼女ったらあなたのことばかり。あなたはユリエさんのヒーローだったのね」
「よせよ」キジローがさらに頭をかいた。
「私にとってもヒーローよ。卵を受け取ってくれたし。本当は卵ごと、私を受け止めて欲しかったわ。でも初対面ではしたないかしらと遠慮したの」
初めてイドラのバザールで会った時、サクヤはチンピラに追われていた。キジローはサクヤの逃走を助けて、建物の屋上に追いつめられたサクヤが放った卵の袋を受け取めたのだ。サクヤ自身は危なげなく、ひらりとキジローの隣りに降り立つとにっこりと御礼を言いながら卵の袋を返してもらった。
「そりゃぜひ姫さんのおしりをキャッチしたかったね」
あれはもう18年も前のことなのだ。それでも屋上から長い髪を光に透かせてキジローを見下ろしたサクヤの顔が鮮やかに思い出せる。
”クロクマさん。これ受け取って”
サクヤはキジローの腕の中で、ひとしきり笑っていた。ふと笑い止んで、キジローの胸にもたれた。
「どんなに思い出を作っても、どんなに思い出を追っても満足できない。私って欲張りね」
キジローがぎゅっと抱きしめた。
「忘れないで。私もユリエさんもあなたのことが大好きだった。あなたに夢中だったの。見つめていたい……これからもあなたを」
サクヤはくるっと身体の向きを変えると、キジローの胸に埋めて顔をかくした。両腕をキジローの胴に回して抱きしめるとつぶやいた。
「クロクマさん。大好きよ。あなたにあえて良かった」
「そんな遺言みたいなこと言うな」
かすれた声でキジローが言った。くちびるをサクヤの頭のてっぺんにつけて、髪の香りをすいこんでいる。
サクヤはエクルーに対して自分の気持ちをはっきり出したことがなかった。でもキジローには努めて甘い言葉を言ってくれていた気がする。自分がよっぽど情けない顔をしていて、甘えさせてくれてたんだろうな、と今になって思う。
オプシディアンに来てからはことさらだ。
吹っ切れたように。あるいは残った時間を有意義に過ごして思い出を作るために。
「俺もまだ満足してないからな。もっとあんたの髪を触りたい。あんたの香りをかぎたい。あんたをもっと……抱きたい」
サクヤがキジローの胸から顔を離して、じっとキジローの目をのぞき込んだ。
「私も……もっとあなたが欲しい」
キジローが耳元に口を寄せてかすれ声で言った。
「部屋に行こう。……どこまでできるかわからんが、あんたを全身で感じたい」
サクヤはキスで答えた。
今はお互いに体温と体重が感じられる。呼吸も鼓動も伝わってくる。いつまでかわからない。でも今は、2人ここにいる。
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