♪風にゆれる 白い花の野
またたく地上の星のよう
白い花を摘もう
摘んで君にあげよう
花の冠、首飾り
ふたりで歩こう 白い花の野
ずっと手をつないで 遠くまで
(風読みの民の伝承歌)
エクルーが北半球のフィールド調査から帰ってくると、ドームは空っぽだった。
「ミスター・ナンブは第8惑星まで出て、シャトルの現在位置を探るとおっしゃっていました。それに、どうやらアカデミーと星団に動きがあったようで」
セバスチャンがキジローの残したファイルをいくつかモニターに開いた。
「ペトリが蛍石の産地だと、アカデミーに知られたのではないかと」
「何で今頃になってわかったんだろう」
「蛍石を埋め込まれた子供が、みんな白い花畑の夢を見るんだそうです。子供がそう言ううちは、前頭葉を操作した副作用の幻覚か何かだろうとナニーや教師も聞き流していたようです。しかし、アンドロイドがそのイメージを克明に報告したので、ようやく蛍石の産地を示している、と気づいたようです。まだ座標までは知られていないようですが」
「時間の問題だな」
エクルーは壁にかけた、アルの絵を見上げた。白い花の野。どんなに記憶を操作されても、前頭葉まで手術されても、消えない風景。蛍石に触れた子供は、みなあの星に還りたいのかもしれない。
「しかし、何でそんなことまでセバスチャンが知ってるの」
「そうカリコボが言っていた、とミスター・ナンブから言付かりました」
「へえ、あの2人、つるんでるんだ」
「わざわざ泉まで行かなくても、通じているようですよ」
「たいしたもんだ。本当にあの男は拾い物だったな」
「サクヤは? 裏にもいないようだけど」
エクルーはサクヤのラボのことを”裏”と呼ぶ。
「ミズ・サクヤは一昨日からお留守です。ミナト様に呼ばれて、2、3日隣に行って来る、との伝言です」
「一昨日って、十七夜か」
「そうです。ちょうど表の泉のゲートが開いておりまして」
「どうやって帰ってくるって?」
「西の低地のゲートが開くはずでございます。どこにしろ、通信が入ればゲオルグがヨットでお迎えに向かう手はずでございます」
「通信って……磁気嵐が来たら、どうするんだ? 船で迎えに行ってくるよ」
セバスチャンが妙に取り澄ました声を出した。
「それは、困ります。だんな様にはこちらにいていただくように、特に言い遣っております」
「何で?」
「理由は承っていませんが。ミナト様のご要望だそうです」
妙だ。走り書きも、ヴォイス・メッセージも無しに、セバスチャンに伝言を残しただけで、何日も留守をするのは初めてだ。しかも、ミナトが俺に来るなって?
エクルーはハンガーに取って返した。メカニック・ターミナルのカンザンとジットクが、船の整備をしていた。この2体はエクルー付きなので、もともとのヘンな名前から呼び名を変えたのだ。ジンに言わせると、もっとケッタイな名前らしいが。
「バッテリー交換した?」
「交換済みです。前輪が磨り減って、車軸も少し曲がってますが、30分後には交換終了です。どこでもいけますよ」
「じゃあ、30分後に出発だ」
「どちらへ?」
「お隣り」
それは、いつも息を飲む光景だった。
澄んだ水の中、青い光しか届かない深い水底に白く林立する長い首、長い尾。かすかに水の動きにあわせて揺れている。白蝋化しているもの、白骨になっているもの。
この深い湖はホタル達の墓場なのだ。死期を悟ったホタルは、この底に下りてきてじっと待つ。身体が冷え切って、心臓が動かなくなる時を。
サクヤはゆっくりと水面に浮かび上がった。誰が待っているかわかっていた。水面に輝いている太陽の中に顔を出した。岸にはちょっとこわばった顔をしたエクルーが立っていた。ゆっくり水から上がったサクヤは、まっすぐにエクルーの方へ歩み寄った。その裸体に気勢を殺がれてエクルーは言いたかったことを忘れてしまった。
「ごめんなさい。服があなたの後ろに」
「ああ、どうぞ」
エクルーが慌てて脇に避けた。 手早く服を身につけたサクヤは、エクルーを岸に残して歩き出した。後ろも振り返らず、足早に草原へと歩み去る。
「サクヤ、待てよ、何を怒ってるんだ?」
足をゆるめず、答えた。
「あなたこそ、何か怒っているようだけど」
「ちょっと待てって。止まれよ!」
勢いよく引っ張られたサクヤは、バランスを崩して地面に座り込んでしまった。
「ごめん、つい……」
謝りながら、エクルーはサクヤの前にひざをついた。
「でも、どうして一人で何も言わずにペトリに来たんだ?」
サクヤはエクルーにつかまれた腕を払いのけた。
「伝言、残したでしょう」
「セバスチャンに言わせただけじゃないか」
サクヤは身を起すと、また歩きだした。背後からエクルーがぽつっと言った。
「シャトルで起こることなら、俺知ってるよ」
ぴたりと足を止めて、サクヤはゆっくり振り返った。
「いつから?」
「イドラに来るずっと前から」
「私のせいね? 私の夢を読んだのね?」
サクヤは両腕で頭を抱えて、へたっと座り込んだ。
「シャトルで起こることは、サクヤのせいじゃないよ」
「こんな事になるのが怖くて、なのに……!!」
声にならない叫びを上げて、サクヤは地面にうち伏して泣き叫んだ。凄まじい感情の爆発。ずっと心にひた隠しにしていた、気づかない振りをしていた怖ろしい予感が、実現してしまった。最悪の形で。
「サクヤのせいじゃないよ」
繰り返しながら、エクルーはサクヤを抱きしめた。まるで、子供をあやすように背中をぽんぽんと叩きながら、泣き叫ぶサクヤをずっと抱いていた。
少し落ち着きを取り戻して、呼吸が楽になってきたサクヤは、エクルーが小さい声で歌を歌っているのに気がついた。空を埋めるように群青色のトンボが飛んでいる。鳥たちはまだ、朝の採餌の時間で忙しい。羽音を立てて、虫たちが花々の間を飛び交っていた。サクヤは頭をエクルーの肩に預けたまま、歌を聴いていた。
「私、その歌、知ってる。昔、あなたが歌ってくれた。あれはどこだった?やっぱり白い花が咲いてたわ」
「もう無い星の野原だよ。この歌は”白い花の野”っていうんだ。わかりやすいだろ」
「風の民の歌ね?」
「そう。羊飼いが放牧しながら歌うのんびりした歌。歌詞も簡単なもんだ」
「教えてくれる?」
「すぐ覚えられるよ」
エクルーは両腕を丸く組んで、サクヤの身体を包んだまま、一節ずつ歌詞を教えた。
「この最後の”遠くまで”っていうフレーズは、もともと”あちら”とか”彼岸”とかそういうニュアンスなんだ」
「じゃあ、これって本当は死出の旅の歌なの?」
「白い花咲く野原って、そういうイメージじゃないか。あの世の風景だよ。死んだ恋人に花を手向けて送る歌だ」
「こんなにやさしいメロディなのに」
サクヤの肩をぽんぽん、と叩いてエクルーが言った。
「ちょっと散歩しない? ずっと地面に座り込んでたから、冷えちゃっただろう?」
サクヤはまだ虚脱状態でぼんやりしていた。
「何か100年分くらい、サクヤの泣くとこ見ちゃったな。まあ、いいよ。いっつも飲み込んでばかりなんだから」
エクルーはサクヤの鼻をきゅっとつまんで笑った。
「キジローの前では、ちゃんと泣くんだよ?」
何とも答えられずにまたぼろぼろ泣き始めたので、エクルーは笑ってサクヤの手を取って立たせた。
「しょうがないなあ。泣いてていいから、歩こうよ。せっかく満開なんだから」
初めは景色など目に入らなかったが、池塘の点在する湿原を歩いていることがわかった。
「ほら、石の上を渡って来てよ。谷地眼に沈んじゃうよ。この石は、スオミのためにスセリとククリが並べたんだってさ。この辺り、苔桃とかベリーの類が何種類も採れるから。ほら、花盛りだ」
尾根をひとつ越えたところで、緑の湿原が広がった。空の青、雲の白を映した池が、水神の足跡のように緑野を横切っている。星のように5弁の花びらをもつ白い花。穂になって咲くベル型の白い花。小さな花が塊りになって、梢を白く染めている低木。湿原は花の香りと、花を行き来する生き物の立てる音で活気に満ちていた。
「ここ、来たことなかっただろ?」
「ええ。きれい」
「内緒にしてたんだ。本当はアルと2人でサクヤを連れてこようって計画してたんだけど、まだアルを連れ出せないから。だから、アルと一緒に来た時は、初めて見たみたいに驚いてやって」
「うん。わかった。そうする」
小さな雲の塊りが次々と湿原を横切って、影が緑野を渡っていく。
「また、すぐ会えるよ。ここでスオミに会えたように。移民団はけっこう成功してて、宇宙に仲間が散らばっているんだと思うな。星の記憶を持つヤツだってきっといるさ」
「でもそれはあなたじゃない。白い花の歌も歌ってくれない」
「また泣く。何だか生まれたてのサーリャに戻ったみたいだなあ」
「私、そんなに泣いてたかしら」
エクルーが声を立てて笑った。
「大変だった。泣いたり、怒ったり。7年分を取り戻していたんだろうね、今、思うと」
「私、よく覚えてないわ」
サクヤがまだ鼻声で言った。
「だから、サーリャが最初に笑った時、すごくうれしかった」
「私、何見て笑ったんだっけ」
「みなしごになったリスの仔を3匹、俺が塔に持ち込んだんだ。そしたら、ミギワが指を噛まれてさ。覚えてない? あの時、初めて声を立てて笑ったんだよ。ミギワは泣き笑いしてたけど」
「私ったらひどいわね」
「こっちの泣き虫もやっと笑ったな。あっちの丘まで歩いてみよう。紫の花が咲いてるから」
ヒースやヘザーの咲くゴツゴツした丘で、二人は昼ごはんを食べた。
エクルーはまるで、魔法のようにザックからシートだのヒーターだの出して、手際よくホットサンドとお茶を用意した。
「朝、私がいないのに気づいてすぐ飛んで来たって言ってたでしょう?よくこんなもの、用意できたわね」
「できる限り、サクヤに飯を食わせるのが俺のモットー。人間、喰わないとロクなこと考えない。サクヤの場合、一人で煮詰まって、どっか行っちゃうパターンだろう。追いかけたら、まずすべきは飯を喰わせる」
サクヤはくつくつ笑った。
「確かにあなたのご飯はいつもおいしいわ。それに、何だか楽しい気分になってきた」
「ほらね。効き目バツグン。はい、デザート」
「プディングまで! どうやって準備したの?」
「イドラからペトリに飛んでくる間」
「あきれた。たいした食いしん坊ね」
またたく地上の星のよう
白い花を摘もう
摘んで君にあげよう
花の冠、首飾り
ふたりで歩こう 白い花の野
ずっと手をつないで 遠くまで
(風読みの民の伝承歌)
エクルーが北半球のフィールド調査から帰ってくると、ドームは空っぽだった。
「ミスター・ナンブは第8惑星まで出て、シャトルの現在位置を探るとおっしゃっていました。それに、どうやらアカデミーと星団に動きがあったようで」
セバスチャンがキジローの残したファイルをいくつかモニターに開いた。
「ペトリが蛍石の産地だと、アカデミーに知られたのではないかと」
「何で今頃になってわかったんだろう」
「蛍石を埋め込まれた子供が、みんな白い花畑の夢を見るんだそうです。子供がそう言ううちは、前頭葉を操作した副作用の幻覚か何かだろうとナニーや教師も聞き流していたようです。しかし、アンドロイドがそのイメージを克明に報告したので、ようやく蛍石の産地を示している、と気づいたようです。まだ座標までは知られていないようですが」
「時間の問題だな」
エクルーは壁にかけた、アルの絵を見上げた。白い花の野。どんなに記憶を操作されても、前頭葉まで手術されても、消えない風景。蛍石に触れた子供は、みなあの星に還りたいのかもしれない。
「しかし、何でそんなことまでセバスチャンが知ってるの」
「そうカリコボが言っていた、とミスター・ナンブから言付かりました」
「へえ、あの2人、つるんでるんだ」
「わざわざ泉まで行かなくても、通じているようですよ」
「たいしたもんだ。本当にあの男は拾い物だったな」
「サクヤは? 裏にもいないようだけど」
エクルーはサクヤのラボのことを”裏”と呼ぶ。
「ミズ・サクヤは一昨日からお留守です。ミナト様に呼ばれて、2、3日隣に行って来る、との伝言です」
「一昨日って、十七夜か」
「そうです。ちょうど表の泉のゲートが開いておりまして」
「どうやって帰ってくるって?」
「西の低地のゲートが開くはずでございます。どこにしろ、通信が入ればゲオルグがヨットでお迎えに向かう手はずでございます」
「通信って……磁気嵐が来たら、どうするんだ? 船で迎えに行ってくるよ」
セバスチャンが妙に取り澄ました声を出した。
「それは、困ります。だんな様にはこちらにいていただくように、特に言い遣っております」
「何で?」
「理由は承っていませんが。ミナト様のご要望だそうです」
妙だ。走り書きも、ヴォイス・メッセージも無しに、セバスチャンに伝言を残しただけで、何日も留守をするのは初めてだ。しかも、ミナトが俺に来るなって?
エクルーはハンガーに取って返した。メカニック・ターミナルのカンザンとジットクが、船の整備をしていた。この2体はエクルー付きなので、もともとのヘンな名前から呼び名を変えたのだ。ジンに言わせると、もっとケッタイな名前らしいが。
「バッテリー交換した?」
「交換済みです。前輪が磨り減って、車軸も少し曲がってますが、30分後には交換終了です。どこでもいけますよ」
「じゃあ、30分後に出発だ」
「どちらへ?」
「お隣り」
それは、いつも息を飲む光景だった。
澄んだ水の中、青い光しか届かない深い水底に白く林立する長い首、長い尾。かすかに水の動きにあわせて揺れている。白蝋化しているもの、白骨になっているもの。
この深い湖はホタル達の墓場なのだ。死期を悟ったホタルは、この底に下りてきてじっと待つ。身体が冷え切って、心臓が動かなくなる時を。
サクヤはゆっくりと水面に浮かび上がった。誰が待っているかわかっていた。水面に輝いている太陽の中に顔を出した。岸にはちょっとこわばった顔をしたエクルーが立っていた。ゆっくり水から上がったサクヤは、まっすぐにエクルーの方へ歩み寄った。その裸体に気勢を殺がれてエクルーは言いたかったことを忘れてしまった。
「ごめんなさい。服があなたの後ろに」
「ああ、どうぞ」
エクルーが慌てて脇に避けた。 手早く服を身につけたサクヤは、エクルーを岸に残して歩き出した。後ろも振り返らず、足早に草原へと歩み去る。
「サクヤ、待てよ、何を怒ってるんだ?」
足をゆるめず、答えた。
「あなたこそ、何か怒っているようだけど」
「ちょっと待てって。止まれよ!」
勢いよく引っ張られたサクヤは、バランスを崩して地面に座り込んでしまった。
「ごめん、つい……」
謝りながら、エクルーはサクヤの前にひざをついた。
「でも、どうして一人で何も言わずにペトリに来たんだ?」
サクヤはエクルーにつかまれた腕を払いのけた。
「伝言、残したでしょう」
「セバスチャンに言わせただけじゃないか」
サクヤは身を起すと、また歩きだした。背後からエクルーがぽつっと言った。
「シャトルで起こることなら、俺知ってるよ」
ぴたりと足を止めて、サクヤはゆっくり振り返った。
「いつから?」
「イドラに来るずっと前から」
「私のせいね? 私の夢を読んだのね?」
サクヤは両腕で頭を抱えて、へたっと座り込んだ。
「シャトルで起こることは、サクヤのせいじゃないよ」
「こんな事になるのが怖くて、なのに……!!」
声にならない叫びを上げて、サクヤは地面にうち伏して泣き叫んだ。凄まじい感情の爆発。ずっと心にひた隠しにしていた、気づかない振りをしていた怖ろしい予感が、実現してしまった。最悪の形で。
「サクヤのせいじゃないよ」
繰り返しながら、エクルーはサクヤを抱きしめた。まるで、子供をあやすように背中をぽんぽんと叩きながら、泣き叫ぶサクヤをずっと抱いていた。
少し落ち着きを取り戻して、呼吸が楽になってきたサクヤは、エクルーが小さい声で歌を歌っているのに気がついた。空を埋めるように群青色のトンボが飛んでいる。鳥たちはまだ、朝の採餌の時間で忙しい。羽音を立てて、虫たちが花々の間を飛び交っていた。サクヤは頭をエクルーの肩に預けたまま、歌を聴いていた。
「私、その歌、知ってる。昔、あなたが歌ってくれた。あれはどこだった?やっぱり白い花が咲いてたわ」
「もう無い星の野原だよ。この歌は”白い花の野”っていうんだ。わかりやすいだろ」
「風の民の歌ね?」
「そう。羊飼いが放牧しながら歌うのんびりした歌。歌詞も簡単なもんだ」
「教えてくれる?」
「すぐ覚えられるよ」
エクルーは両腕を丸く組んで、サクヤの身体を包んだまま、一節ずつ歌詞を教えた。
「この最後の”遠くまで”っていうフレーズは、もともと”あちら”とか”彼岸”とかそういうニュアンスなんだ」
「じゃあ、これって本当は死出の旅の歌なの?」
「白い花咲く野原って、そういうイメージじゃないか。あの世の風景だよ。死んだ恋人に花を手向けて送る歌だ」
「こんなにやさしいメロディなのに」
サクヤの肩をぽんぽん、と叩いてエクルーが言った。
「ちょっと散歩しない? ずっと地面に座り込んでたから、冷えちゃっただろう?」
サクヤはまだ虚脱状態でぼんやりしていた。
「何か100年分くらい、サクヤの泣くとこ見ちゃったな。まあ、いいよ。いっつも飲み込んでばかりなんだから」
エクルーはサクヤの鼻をきゅっとつまんで笑った。
「キジローの前では、ちゃんと泣くんだよ?」
何とも答えられずにまたぼろぼろ泣き始めたので、エクルーは笑ってサクヤの手を取って立たせた。
「しょうがないなあ。泣いてていいから、歩こうよ。せっかく満開なんだから」
初めは景色など目に入らなかったが、池塘の点在する湿原を歩いていることがわかった。
「ほら、石の上を渡って来てよ。谷地眼に沈んじゃうよ。この石は、スオミのためにスセリとククリが並べたんだってさ。この辺り、苔桃とかベリーの類が何種類も採れるから。ほら、花盛りだ」
尾根をひとつ越えたところで、緑の湿原が広がった。空の青、雲の白を映した池が、水神の足跡のように緑野を横切っている。星のように5弁の花びらをもつ白い花。穂になって咲くベル型の白い花。小さな花が塊りになって、梢を白く染めている低木。湿原は花の香りと、花を行き来する生き物の立てる音で活気に満ちていた。
「ここ、来たことなかっただろ?」
「ええ。きれい」
「内緒にしてたんだ。本当はアルと2人でサクヤを連れてこようって計画してたんだけど、まだアルを連れ出せないから。だから、アルと一緒に来た時は、初めて見たみたいに驚いてやって」
「うん。わかった。そうする」
小さな雲の塊りが次々と湿原を横切って、影が緑野を渡っていく。
「また、すぐ会えるよ。ここでスオミに会えたように。移民団はけっこう成功してて、宇宙に仲間が散らばっているんだと思うな。星の記憶を持つヤツだってきっといるさ」
「でもそれはあなたじゃない。白い花の歌も歌ってくれない」
「また泣く。何だか生まれたてのサーリャに戻ったみたいだなあ」
「私、そんなに泣いてたかしら」
エクルーが声を立てて笑った。
「大変だった。泣いたり、怒ったり。7年分を取り戻していたんだろうね、今、思うと」
「私、よく覚えてないわ」
サクヤがまだ鼻声で言った。
「だから、サーリャが最初に笑った時、すごくうれしかった」
「私、何見て笑ったんだっけ」
「みなしごになったリスの仔を3匹、俺が塔に持ち込んだんだ。そしたら、ミギワが指を噛まれてさ。覚えてない? あの時、初めて声を立てて笑ったんだよ。ミギワは泣き笑いしてたけど」
「私ったらひどいわね」
「こっちの泣き虫もやっと笑ったな。あっちの丘まで歩いてみよう。紫の花が咲いてるから」
ヒースやヘザーの咲くゴツゴツした丘で、二人は昼ごはんを食べた。
エクルーはまるで、魔法のようにザックからシートだのヒーターだの出して、手際よくホットサンドとお茶を用意した。
「朝、私がいないのに気づいてすぐ飛んで来たって言ってたでしょう?よくこんなもの、用意できたわね」
「できる限り、サクヤに飯を食わせるのが俺のモットー。人間、喰わないとロクなこと考えない。サクヤの場合、一人で煮詰まって、どっか行っちゃうパターンだろう。追いかけたら、まずすべきは飯を喰わせる」
サクヤはくつくつ笑った。
「確かにあなたのご飯はいつもおいしいわ。それに、何だか楽しい気分になってきた」
「ほらね。効き目バツグン。はい、デザート」
「プディングまで! どうやって準備したの?」
「イドラからペトリに飛んでくる間」
「あきれた。たいした食いしん坊ね」
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