南区別所だいすき 浦和

このブログは、さいたま市南区別所の「青い稲妻」の研究レポートサイトです。
別所研究と見聞録の編集所です。

さいたま市の消防団は63分団・1240名   少年消防団員・161名(定員200人)

2011-01-28 09:32:22 | 日記
町と地域を守る中核は先ずこのかたがたによるところが大なのだ。
この50年以内に必ず来る「関東大震災・震度7~8強級」(1924年9月1日)の地震に対して市民と行政が一体となって、備え強化に
取り組まねばならない最重要課題なのだ。
日常、警察官は一人あたり500~600人を守備範囲としているようだ。
防災はこのような数字には置き換えられない、すさまじい様相のなかで有効な活動を施さねばならないのは言をまたない。
すべての始まりは1995年1月17日の「阪神淡路大震災」なのだ。
この出初式の緊張感は国民共有の芯底の緊張の発露といえのではないか。


「大もり貝塚」を発見したエドワード・モース(1877年来日)がその著書「日本その日その日}のなかで
明治初期の東京の消防事情の見聞を語る部分があった。「竜吐水」をつかって死に物狂いで消火にあたる
自衛消防の様子が記述されていた。



この浮世絵は江戸末期の元治元年(1864)豊原国周(くにちか)の作だが
明治の初期は、まだまだこのようないでたちで消火作業に命がけであたっておてようだ。(一部を除いて)
資料は「博覧亭コレクション・江戸の英雄Ⅱ号」よりおかりした。
博覧亭は浮世絵のコレクション・江戸文化研究家。僕とは同級生で江戸文化から芸術全般の師匠でもあるのだ。


昔話は大事だが、それにばかり気を取られているわけにもいかない
爆音が急接近してきた。上空には急救へりが眼前に迫った。









同時に防災センターの最上階より「レスキュー隊」が実地演習を始めた。
映画・TVでは何度も眺めてさして珍しくない光景だったが、
ヘリとレスキューの一体作戦は迫力満点の厳さがビンビン伝わってきた。







>

頼もしくも勇壮で危険に満ちてはいたが、いちまつの不安が付きまとうのはやもうえないところか。
前年の「秩父に於ける救きゅヘリの墜落事故」が脳中によぎって増幅された。
僚機を、掛け替えのないない僚友を、失ったきょうの実戦さながらのトレーニングと市民への出初披露する
隊員と家族そして、指導者の胸中はさっするに余りあるもなが有って、目頭が熱くなってきた。
晴天微風のなかのひとときだった。

出初式 続編・我が別所消防軍団も登場・冬空に「火消し纏」が乱舞した。

2011-01-26 19:42:41 | 日記


火事と消火は埼玉の華とはいかに









江戸時代の消防は、大名火消と町火消しが消火にあたった。これは江戸城下でのことで(各藩にもあり)
浦和宿や別所村では大方「自主防衛」の方式がほとんどで、その土地の主だったものが、指揮して
だれでもいいから、桶で水をまいていたようだ。当然なかなか消火できないので、燃え移るのを
防ぐために、建物を破壊していたようだった。道具と言えば「ポンプ・鳶口・掛けや」などだった。














正月・19日 大宮防災センターでの出初式に 初参加

2011-01-25 21:49:32 | 日記
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この勇壮な消防車が身近に見られるし、さわれる。

僕の所属する「少年少女消防団」が広報活動、 パンフを配って、意識の向上をよびかけている。











少し高いところから開始直前のようすを眺めた。








県内外の要人も多数着席して、開始直前の緊張感が全体を覆い始めた。
  




市内全域の消防基地より隊旗をかかげて整列は りりしくも頼もしい。



総指揮官は総責任者・「市長」がそのひとだ。
表彰状を授与して多年の労苦と活躍をねぎらい、新年の喜びを添えて健闘を誓う、晴れがましい
場面がつずいた。




>資料 出初式とはなんだ










 

 ある結婚式のワンシーン

2011-01-24 21:02:59 | 日記
 花嫁さんはクリスチャン
 花嫁の介添えは幼馴染の青年、ただし曹洞宗の僧侶
この組み合わせで、セレモニーはなにごともなく、滞ることなく済み披露宴が進んだ。
宴の中ほどに、青年僧侶の挨拶がすみかけた、そのとき、どこからか『お経を』と声が飛んだ。
「そうだ」!!と賛同者が多数におよんだ。
僧侶はためらいつつも、「では、厄よけの偈を」と言ってはじまった。
 朗々とした美声が100人ほどの宴席にひびいた。



みごとに、締めくくって万来の喝さいを浴びた。
 円熟の司会者が「25年の経験で初めて」と感嘆していたが、青年僧侶もほっとして
その表情は紅潮していたが「わたしも、初めて」ですと、 会場は大爆笑。
この日最高の脇役の存在が、むこうの「掛け声」からうまれた。

現代社会とひとびとが求める、素晴らしいコラボレーションとアドリブだった。
もういちど・・拍手を

  曹洞宗・資料  

資料・「道元の冒険」・井上ひさし作

>
>資料・牧師さんとは

今年の「別所見聞録」は相当に良きお知らせができそうです。 1月21日

2011-01-21 22:14:39 | 日記
>暖炉の炎にアカギレの手をかざせば

>ゆっくり温まってゆきなと「T氏が」 コーヒーを湧かしてくれる。 

 別所に関わりの有りそうな資料をみつけたよ。 前日に2冊、今日3冊と 一枚の絵。 
差し出してくれる『FY先輩』はオールド(浦中)サッカーボーイにして隠れた「名誉市民」。


①  文献・ 高師 康 編 「埼玉師範 附属小学校・仰げば尊し」 さきたま出版会
       昭和54年9月20日発行     (50・51・52項より)
  ◎ 福原 霞外描 スケッチ・別所沼風景  明治34年2月17日作品 

               
② 「浦和のあゆみ」 編集 浦和市総務部市史編纂室  東京印書館  昭和49年3月30日発行
 
③ 「荒川・169㌔のみちのり」毎日新聞浦和支局編  さきたま出版会 平成8年2月1日
   
④ 「萌(めばえ)」財団法人 サイサン環境保全基金 創立10周年記念事務局発行
               平成19年4月16日 発行  関東図書株式会社


⑤ 「郷土の石佛・写生行脚一期一会」 酒井 正著   平成22年1月25日発行 
                           有限会社 寄居孔版社
                 


          温かいコーヒーがまた注がれた、話が弾んで、やわいパスが   t     足元にくる、僕の蹴るボールはときどきミスパス。 ぺこり、すみません。

 お借りした本を開くと各箇所にアンダーラインと添え書き、差し込みラベルが読みこなし
の密度を語っていた。さすが先輩よく勉強されてますね。 ありがとうございます。
      拝借します。



    >資料・浦和の画家 福原 霞外について
    資料・サイサン環境保全基金 の活動

明日は出初式を投稿しますが、きょうは詩人の家からの一編をお聞きください

2011-01-19 20:32:03 | 日記


今日、通りを隔てた高砂町の喫茶店でとても良質のひと時をもつことができた。
一言でいえば「桃李おのずから みちをなす」。その場面を説明するのも、それを聞くのも
たいへんなので代弁してくれる詩が見つかったからそれを聞いてください。

    作・谷川俊太郎

  歩いてもいないのに

  何処からか道がやって来た
 
  草木を連れて

  地平線を後ろ手にかくして


  体は歩いていなくても

  心はおずおずと道に従い

  丘を上り川を渡る

  この道はどこへ通じているのか

 
  これは自分だけの道だ

  心がそう納得したとたん

  向こうから言葉がやって来た

  がやがやとうるさい他人を

  ぞろぞろ引き連れて


>いかがでしょうか、詩は数回黙読したら、数回いろいろな声を使って朗読するといいよ。
読む回数分感情がすこしずつ変化して、解釈がひろがってきます。
そうして、時間がたっていつの間にかこの詩などわすれてしまうけど、脳味噌のどこかに
漬けこまれていてそれが時々ぱ~っとあらわれて、自分を驚かせます。
タダシ、これは僕の体験です、とおことわりしておきます。

 >資料 谷川俊太郎のこと
 

幻の別所『トウキン塚』はどこに? 初詣の最終は「女庚申塚と真福時」・別所小へ

2011-01-18 05:31:25 | 日記


庚申塔」
この塔は貴重です。 



造立は1713年(正徳3)別所村 厄女十八人 と彫られているからなんといっても「女性の講中」
 が主役だったことがはっきりしているんです。。
 どんな、事情といきさつがあってのことか?ひじょうに興味がありますね。



この民間信仰の石塔に詳しいのが「県立文書館」です。
次回はしっかり調べてもうすこし楽しい報告ができるようにしますから待っててください。

そうして、真福寺へゆきました。
ここは、史跡の宝庫です。簡単に説明できません。「新編 武蔵風土記」「武蔵郡村誌」の別所の主役
であることにまちがいありません。



岡部六弥太の奉じた「足立六別所」のひとつである、としんじている僕にとって最も大事な古刹です。





御覧のとうり、埋め戻されてスッポンポンの更地になっていました。
出土したも遺物はすでに、研究室の机の上で各種の計測がなされて、発表の日を待っていることだろう。
それが何時頃になるのか、あすにでも問い合わせてみよう。


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もうひとつの ちいさい 嘉永2年(1849年)碑・・・嘉永は1848~1853の6年間

2011-01-15 19:51:26 | 日記
嘉永2年 2月3日  関口とほられています。



正月の事でまわりは整えられてお花がそなえられていた。
すずやかな気持ちで「どんな事情でここにおられますか」と問いかけつつ、町内の無事息災をいのった。



ちいさいけど 善い形の自然石が1849年以来ここに立って年月と人々を眺めていたと思うと
やはり、正月にはご挨拶はかかせないです。 これで2度目です。

享保地蔵(別所3丁目)

2011-01-14 19:54:08 | 日記
享保十四年巳酉(1729年)

正面に  



右上「偈」 おん かかか びさんまい そわか
      高い徳のお地蔵様どうか私の願いをきいてください・
享保は20年まで徳川吉宗(8代将軍)の親政は30年間ほぼ中間期に建てられた碑で
別所で1700年代を窺ううえで貴重な路傍の地蔵様です。
地蔵さんは子供の幸せをつかさどるといわれます。仏のなかでも、高い位だそうです。



吉宗の享保の改革は新田開発や商業資本の活用で財政面にかなりの成果をあげたが、反面
「胡麻ノ油と百姓は、しぼるだけしぼれ」と時の勘定奉行の放言があったように年貢とりたてのきびしさに
治世の後半には百姓一揆が激化していった。(封建体制の危機の始まりでもあったようです)
えらそうなこといってしまいました。
あとのつづき、当時のことは「地蔵様」にきいてください。

まんじゃらく様って知ってますか?  別所に残るとっときの民話ですよ~

2011-01-09 21:50:43 | 日記


別所公民館のあたりに、昔むかしひろ~い沼が有って、真ん中に大きな一本杉が有ったんだとさ。
そこにまつわる、昔話なんですよ。だいいち、「まんじゃらく」なんておしゃれな名前だと
おもいませんか?
別所沼のつぎはここにお参りにゆきました。




公民館よこです。どっしりとしたつるつるの石碑があって、これに由緒がかいてあります。
ぼくはここがだいすきで、買い物のかえりなんかにときどきよります。
でもきょうは特別です。



いろんなことが書いてあるけど、公民館のおじさんに聴けば、パンフがもらえます。
ネットでもしらべられるよ。

でも今日はお参りだけにしておこう。
こんど、ぼくの作った{一本杉とまんじゃらくさま」の絵本をみせてあげるからね。
ここに、投稿しようか。

  



今夜はアジア杯サッカーがあるからそれを見よう・・じゃーまた明日。 さ~TV、TVだ。

地域にお住まいの皆様・別所町会参加の皆々様

全国の別所・別府の地域活動の皆様。