世界の パワースポット 巡り

現在、聖地を巡礼いたしております。
聖地に至る過程を踏まえ色々な出来事などを日記でご紹介いたしております。

インド クシーナガル

2011年12月20日 | Weblog
インド クシーナガル
経由地  パータリプトラ
地図              
ゴーラクプルからバスに揺られて55キロの道を進むとシアーの町にでる。
この町を通り、ビルマ寺、中国寺、チベット寺を抜けると涅槃堂にでる。
沙羅双樹の木々がお堂を見つめている。
悟りを開き人々に教えを説き始めてから四十五年が経ち、仏陀は八十年の生涯をこの地で
閉じた。
五世紀の初めに造立された全長6メートルの涅槃像は全身を金箔で塗られ、黄金の布で覆われている。
参拝者は涅槃像の回りを祈りながら廻る。
チベット仏教徒は五体投地で涅槃像の回りを廻る。
長い長い瞑想を行っている者もいる。
私もここで瞑想をすると、釈尊の最後の言葉が身に染みてくる。

「わたしはもう老い朽ち、歳を重ね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、、」
「思えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いて行くように」
自分の体も革紐の助けによってもっているだけのことだ、と
八十歳の釈尊は、傍にいるアーナンダに向かって呟く。

人間として生まれ、人間として最後を迎える。
意識は悟りを開き永遠の存在ではあるが、体は生身であり聖なる変革をあえて行わずに
普通の人として最後までやり遂げる。
予言者としての神の使命に徹する孤独感。
あまりにも壮絶な最後に涙なくしてはいられなくなった。
ああ、合掌をする手に涙がこぼれ落ちる。

インド ビハール州 クシーナガル

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インド パータリプトラ ヴァイシャーリー

2011年12月17日 | Weblog
インド パータリプトラ ヴァイシャーリー
経由地  ラージギル
地図              
紀元前五世紀のマガダ国の都、パータリプトラは現在ガンガー中流ではバナーラスと並ぶ大都市パトナーと名前が変わっている。
マウリヤ王朝の時に都をラージギルからここへ移したようだ。
この都を囲む城壁は四十キロにも及んでいたようである。
紀元前三世紀のアショーカ王の時代に絶頂期を迎え、国際的な商業都市へと
変貌を遂げていた。
この地が、霊鷲山を発った八十歳の仏陀の、生涯における最後に立ち寄ったパータリ村であることも由来している。
この時仏陀は、夜遅くまで法話をつづけ、人々を励ましたと言われている。
その後、紀元前二四四年にアショーカ王によって千人の高僧が招かれて
ヴァイシャーリーにつづく、仏典の第三結集が果たされた。
この仏典は九か月にも及び行われ、経、律、論の再検討がなされ
「大蔵経」の基礎が編集されたのである。

ヴァイシャーリーはリッチャヴィ族の首都として栄えた町であった。
この国の政治体制は王の独裁では無く共和制を用いていた。
その為か仏陀は何度もここを訪れて説法を行っている。
仏陀入滅後、仏典の第二結集がなされた場所でもある。
その仏典の場所にはシンボルとしてアショーカ王の石柱が立っている。
インド ビハール州 パータリプトラ ( Pataliputra)


インド ビハール州 ヴァイシャーリー

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インド ナーランダー

2011年12月15日 | Weblog
インド ナーランダー
経由地  ラージギル
地図              
ナーランダーはラージギルから十数キロの地にある。
五世紀から十二世紀ごろまで仏教研究の学府としては最高の地位にあり、
世界中にその存在は知られていた。
中国の玄奘三蔵もこの僧院にて六百三十一年から五年間も学んでいる。
「大唐西域記」にはこう記されている。

僧徒は数千人いて、皆才能もあり、学殖のある人々である。
名声を外国にまで知られている人は数百人もおり、厳しい規則があって
人々は皆これを固く守っている。
五百人の商人が十億の金銭を出して買い求め、仏に布施し地

このように僧院大学とも言うべき学府がインドでも理想として仰がれていた。
ここでは大乗仏教と小乗仏教が学ばれ、ヴェーダ、論理学、仏教音楽、医学、ト占、歴数など多岐にわたり学ばれていた。
広い平原の中、南北だけでも四キロはある遺跡の規模である。
その当時、東側に十二の僧院があり、西には仏塔や仏殿があったとされる。
目の前に残るレンガ積みの規模からしても六階から七階の建物に匹敵する。
八世紀頃になると密教を講ずる僧侶も現れ始めたようである。
このようにヴェーダやヒンドゥー教をベースに仏教のいろいろな宗派が派生したと考えられる。
遺跡を歩いていると壁の裏側から経典を持った僧侶が一心に考え事をしながら歩いている
姿が目に映る。
経典や仏陀の言葉を何度も何度も考え自分なりに理解し、本を書く。
その内容を他の僧侶に尋ねたり、問答を行う。
何百年もこの地で研究がされ、新たな解釈がまとまると世界に発信し、伝えていく。
仏教も今では多岐の宗派に分かれているが元は一つであり
後世で学識僧侶の解釈により派生しただけである。
真理は一つであるが個人により進む道はみな違う。
それを伝えるのはさらに難しい事であると改めて実感するのである。
インド ビハール州 ナーランダー

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インド ラージギル

2011年12月13日 | Weblog
インド ラージギル
経由地  ブッダガヤー
地図              
当時ビンピサーラ王が統治するインドでも有数の強国、
マガタ国の首都(ラージギル)があった。
5つの山に囲まれた盆地の中心にある。
その一つに象頭山(ガヤーシーサ山)がある。
象頭山山頂にて仏陀は眼下に煌めく夕方の町(ラージギル)の灯をみながらこう言われた。
「あらゆるものは燃えている。」
「燃えているとはどういうことなのか?」
「貪欲の火によって、瞋りの火によって、煩悩の火によって燃えているのだ。」と仏陀は
語り始め、すべてのものを空しいと感じ、食欲を離れることによって、輪廻の拘束から
抜け出る事できるという「燃える火からの解脱の教え」を説いている。
出家した仏陀が修行に励んだ地であり、晩年も長く滞在し多くの説法をなした地としても知られている。
妙法寺から30分ほどでグリッドラクータ山(霊鷲山)の麓にたどり着く。
ビンピサーラ王によって築かれた石敷きの道が、山の上に続いている。
今でも人々はビンピサーラの道と呼んでいる。
強国の王が仏教を信仰すると言うことは時と場合によっては
支配者を捨てると言うことにもなる。
その当時の事など考えながらゆっくりと坂道を登って行く。
山頂が近くなると眼下の視界が開け、荒涼とした景色が目に飛び込んでくる。
ただの荒野が永遠と広がるのみである。
鷲の峰の由来を示す、巨大な鳥のくちばしにも見える岩峰が山頂の傍に
そそり立っている。
地質時代の堆積岩がこの一帯を覆い、数多くの洞窟を作っている。
仏陀をはじめ迦葉、阿難、舎利弗、、釈尊の十大弟子の方々が居住し
瞑想修行されたところでもある。
説法台と言われる一枚岩の上で弟子たちに向けて大乗仏教の代表的な経典
「法華経」を説かれたとされている。
この説法の中で「如来寿量品」がある。
仏の寿命の無量で無限であることが説かれている。
人々がだだ一心に仏に会いたいと思う時、
「私は衆僧を連れ、霊鷲山に現れるだろう」
「私は常に霊鷲山におり、滅し去ったと見せたのは、たくみな方便としてなのだ」
この地にて仏陀の教えを信じるならば釈尊はその人の前に現れ、
最高の教えを説くであろうと言われている。

インド ビハール州 ラージギル

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