人は痛みを自ら味わって、初めて素直になれたり、穏やかになれるもの。
人の痛みを、適当にあしらって、痛さを分からないで我が儘や傲慢でいると、もういい加減に分からないと…という時に自ら痛い思いを与えられてしまうものです。
それは、運が悪いと思うのではなく、自分の無くしていた心を反省出来て取り戻す事が出来るメッセージで救われたんだと思えたらなによりです。
見捨てられていたとしたら、きっと何もないでしょう。
それより自らのやっている事を分からず、ドンドン答もみつからないまま、落ちていくのでは虚しいよなー…と思います。
なぜなら、お恥ずかしい話しを一つ…
最近、暑さのせいとANN親子はそれぞれにハードで、お互いに疲れている事や自分の中の大変と思う事を、押し付け分からせようと相手を思いやる気持ちも優しさも忘れて、ギシギシと音をたてていました。
自分は大変大変と主張していたのでしょう。
少しでも分かって欲しくて…
まずANNが、足元をとられ、ゴツゴツのコンクリートに倒れてしまい、膝や手などをかなり負傷してしまい、息子は俺は関係ないとばかり、シラーとイジメかのように人に用事ばかり言っていました。息子はどんなハードであれ疲れたと言わないもんで、元気に見せたてながらも体に限界がピークに達していたんでしょう。
彼も彼で無言の中にオレが1番疲れていると思っていたのでしょう。
それも分かる程の毎日だったというのは、痛い程分かってはいました。しかし、心を鬼にして分からぬふりをしていました。
でも、その時はANNはANNで痛いし体中動きたくない程、打ちつけていたので、優しい状況など尚の事つくれなかったのです。
そして次の日、今度は息子が硬式野球の球を目に直撃して、おもいっきり腫れて帰ってきたのです。
それからですねー。
ここ一ヶ月、イライラとまともな口のきき方も出来なかった息子は、邪まで落ちたかのように、また穏やかな優しい気持ちを出し始めたのです。
目が覚めたかのように…
二人して痛い思いを連日したという事は、二人とも何か大事な事を忘れていて、気がつかされたんだと思います。
やっぱり穏やかになれば、お互い優しくなれるもので心地いいものです。
トゲトゲした生活は気分も悪いし、言われる事全て素直に受け取る事など出来なくなるもので…
こういう時は、どちらかだけが…というのでは解決出来ないものです。
何時もお互いが、それぞれ反省だったみたいです。
もの事、上手くいかない時は、必ずと言っていい程、何か欠けていたり、足りない所があるはずです。
認めたくないのが人間の感情に多く悪い所でもあるような気がします。
でも、間違ってると分かっていて誰も押し進めている人もそう居ないはずですから、そんな感情になってしまうのも、普通なのかもしれませんね。
でも、必要であれば何処かで気ずかされるはずです。
それは、まだその者に希望があるからです。
先があるという事で生かされていると考えていいかと思います。
あとは、本来の本当の自分があって、戻れる可能性があるからです。一時の状況は、少しの隙間の出来事という本来のものではないと考えていいのでは…
ある意味、そうやって挽回しながら生きていくのが、人生なのかもしれませんね。
そして、修行や試練なのかなと…
生きている以上、終わりのない人間としての勉強なのかもしれません。
悪い人間ではなくても、ふと感情の波で、人を傷つけたりしてしまう事はあるものです。
でも、それを何処かでいましめられる事で、分かる事も沢山あるものです。
また分からなければいけない事なのでは、ないでしょうか?
人間としての温かい気持ちを持っていくためにも…
何事も必要な事ばかりです。
気付かない時間が1番苦しい時と思います。
気付いた時、いましめの痛さも苦しみも、跡形もなく消えていくものです。
認めようとしなければ、ドンドン自分で自分の首をしめてしまう時もあるという事を、どこか片隅に置いておくといいでしょう。
単調な毎日を過ごしていると、なかなか気付かない事も多く傲慢になっていきがちですが、それを気付けた時、幸せを感じる事が出来たり、運気も上がってくるとANNは思うのです。
人の痛みを、適当にあしらって、痛さを分からないで我が儘や傲慢でいると、もういい加減に分からないと…という時に自ら痛い思いを与えられてしまうものです。
それは、運が悪いと思うのではなく、自分の無くしていた心を反省出来て取り戻す事が出来るメッセージで救われたんだと思えたらなによりです。
見捨てられていたとしたら、きっと何もないでしょう。
それより自らのやっている事を分からず、ドンドン答もみつからないまま、落ちていくのでは虚しいよなー…と思います。
なぜなら、お恥ずかしい話しを一つ…
最近、暑さのせいとANN親子はそれぞれにハードで、お互いに疲れている事や自分の中の大変と思う事を、押し付け分からせようと相手を思いやる気持ちも優しさも忘れて、ギシギシと音をたてていました。
自分は大変大変と主張していたのでしょう。
少しでも分かって欲しくて…
まずANNが、足元をとられ、ゴツゴツのコンクリートに倒れてしまい、膝や手などをかなり負傷してしまい、息子は俺は関係ないとばかり、シラーとイジメかのように人に用事ばかり言っていました。息子はどんなハードであれ疲れたと言わないもんで、元気に見せたてながらも体に限界がピークに達していたんでしょう。
彼も彼で無言の中にオレが1番疲れていると思っていたのでしょう。
それも分かる程の毎日だったというのは、痛い程分かってはいました。しかし、心を鬼にして分からぬふりをしていました。
でも、その時はANNはANNで痛いし体中動きたくない程、打ちつけていたので、優しい状況など尚の事つくれなかったのです。
そして次の日、今度は息子が硬式野球の球を目に直撃して、おもいっきり腫れて帰ってきたのです。
それからですねー。
ここ一ヶ月、イライラとまともな口のきき方も出来なかった息子は、邪まで落ちたかのように、また穏やかな優しい気持ちを出し始めたのです。
目が覚めたかのように…
二人して痛い思いを連日したという事は、二人とも何か大事な事を忘れていて、気がつかされたんだと思います。
やっぱり穏やかになれば、お互い優しくなれるもので心地いいものです。
トゲトゲした生活は気分も悪いし、言われる事全て素直に受け取る事など出来なくなるもので…
こういう時は、どちらかだけが…というのでは解決出来ないものです。
何時もお互いが、それぞれ反省だったみたいです。
もの事、上手くいかない時は、必ずと言っていい程、何か欠けていたり、足りない所があるはずです。
認めたくないのが人間の感情に多く悪い所でもあるような気がします。
でも、間違ってると分かっていて誰も押し進めている人もそう居ないはずですから、そんな感情になってしまうのも、普通なのかもしれませんね。
でも、必要であれば何処かで気ずかされるはずです。
それは、まだその者に希望があるからです。
先があるという事で生かされていると考えていいかと思います。
あとは、本来の本当の自分があって、戻れる可能性があるからです。一時の状況は、少しの隙間の出来事という本来のものではないと考えていいのでは…
ある意味、そうやって挽回しながら生きていくのが、人生なのかもしれませんね。
そして、修行や試練なのかなと…
生きている以上、終わりのない人間としての勉強なのかもしれません。
悪い人間ではなくても、ふと感情の波で、人を傷つけたりしてしまう事はあるものです。
でも、それを何処かでいましめられる事で、分かる事も沢山あるものです。
また分からなければいけない事なのでは、ないでしょうか?
人間としての温かい気持ちを持っていくためにも…
何事も必要な事ばかりです。
気付かない時間が1番苦しい時と思います。
気付いた時、いましめの痛さも苦しみも、跡形もなく消えていくものです。
認めようとしなければ、ドンドン自分で自分の首をしめてしまう時もあるという事を、どこか片隅に置いておくといいでしょう。
単調な毎日を過ごしていると、なかなか気付かない事も多く傲慢になっていきがちですが、それを気付けた時、幸せを感じる事が出来たり、運気も上がってくるとANNは思うのです。