自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

三池炭塵爆発事件/CO裁判闘争

2016-11-09 | 体験>知識

  1963.11.9 撮影 植埜吉生氏 酒店勤務 19歳 故人 

私のCO中毒体験。4回生の寒い昼、活動家仲間数人とAの下宿で練炭ストーブを囲んでダべっていた。それまで何の異常もなかったのに立ち上がった瞬間大きくよろめいた。それから半日ほど頭痛がした。CO中毒は亜急性間歇型疾患であった。
素人の理解だが、体を動かすとエネルギー補給のため血流が速くなり血中のヘモグロビンが酸素運搬を急ぐ。ところが一酸化炭素中毒になっているとCOがヘモグロビンと結合して酸素運搬を邪魔する。
酸欠になると真っ先に脳神経が、ひどい場合には不可逆的な、ダメージを受ける。体を動かしたら悪化し後遺症が出る。初期治療の要諦は、元気でも動かさない、すぐさま酸素を補給する、である。
関係ないかもしれないが、私は原因不明の耳鳴りで24時間セミがジー・・・と鳴き続けている。この瞬間も途切れることはない。

三池三川鉱炭塵爆発ー原因と被災状況・・・
1963年11月9日午後3時12分、金属疲労した粗悪材質の連結リンクが破断して巻き上げ中の炭車8輌が逸走し脱線、坑道に積もった石炭の粉じんを巻き上げ、電気ケーブル破損スパークで大爆発を起こした。粉塵は、小麦粉でも誘爆するが、清掃か水撒きをしていれば容易に爆発を防げる。
救助の遅れが被災を大きくした。現場到着に早くて3時間、遅い場合7時間。なお救助隊員からもCO患者が出た。坑内には1,403人がいたが、昇坑できた939人中歩けるものや希望するもの527人が会社あるいは会社の天領病院から家に帰された。救助のため再入坑した者もいた。安静の指示はどこからもなかった。
その後、おかしな行動、激しい頭痛、めまい、吐き気、しびれ、ふるえ、発作、粗暴、物忘れ、無気力、不眠等に襲われ、多様な身心症状、重篤な脳神経障害、精神異常の後遺症を患った者もいる。

死者458人、うち爆死による死者20名。CO中毒患者839名、53年後の2016年現在、今なお入院中13名。通院者については情報がない(2013年は80名以上/ 京都新聞)

三池労組が闘争に敗れて安全確保上のヘゲモニーを失い会社の生産第一主義の全開、保安サボをゆるしたことが事故につながった。通産省鉱山保安監督局は保安チェックをサボった。長期間坑道に炭塵が積もり放題だった。
三池労組は就労後「1.保安確立 2.差別撤廃 3.組織介入撤廃」の3要求をかかげて闘ったが組織力の低下(第一と第二の勢力比逆転)はいかんともしがたく保安チェックができなかった。
争議前労組は職場管理闘争で安全面を仕切り安全要員を出していた。それが敗北後、たとえば事故が起きた第一斜坑の安全要員は17名から2名に減らされた。削り取った要員を採炭増産に振り向けた結果、全鉱員一人当たりの生産効率は3倍を超えた。
正式鑑定人として三日後に坑内に入った炭塵爆発専門家荒木忍九工大教授の調査鑑定書(炭塵爆発認定)に基づき福岡県警、検事局が業務上過失致死傷と鉱山保安法違反で会社幹部訴追に傾いたが人事異動により潰され不起訴が決まった。
その際、事故原因については政府技術調査団団長・山田穣九大元学長の珍妙な「風化砂岩/揚炭ベルト上の原炭」説に基づいて「原因不明/爆発不可抗力」と発表された。師弟対決に最高裁(民事訴訟)で決着がつくまで30年の歳月と患者の険しい裁判闘争を要した。

死者・遺族の闘い・・・
死者の弔慰金40万円、葬祭料10万円。同じ「魔の土曜日」に発生した横浜市鶴見区の国鉄二重衝突事故の賠償金の十分の一ほどの弔慰金だった。災害が多い炭鉱には事故は自己責任の悪慣行があった。三池労組の異例の要求があったから特例の弔慰金が取れたと言われている。遺族のその後の暮らしは想像を絶する。

CO患者とその家族、遺族の闘い・・・
労組はCO患者家族の会と共に3年期限の法定労災補償の打ち切り反対闘争に取り組んだ。期限の3年が切れようとしていた。
患者の労災上の治癒認定をふくむ等級付けは政府「三池医療委員会」が行った。厚生省の影すら見えないのが奇異に感じられる。医療委が労働大臣に提出した意見書は、長期療養継続26人、職場復帰可能738人、経過観察療養58人とし、治癒にもかかわらず自覚症状を訴える者は多くが組合原生疾患である、と示唆した。医療委は労災打ち切り、職場復帰の道筋をつけるとさっさと解散してしまった。
それを受けて労働省は738人に治癒したとして労災打ち切りを通告した。会社は職場復帰等会社の指揮下に入ることを要求した。
後遺症で入院が必要な患者も仕事どころではない患者も途方に暮れた。労組は異議申し立てをして治癒認定者を会社の指揮下に入れず組合の財政で生活を丸がかえした。労組も患者家族も背水の陣を敷いて必死の出撃をするほかなかった。労組と患者の会は立法化による救済に賭けた。
CO特別立法の制定を求めて坑内座り込みや労働省玄関ハンストを敢行した。坑口から1800mの坑内最奥部に座り込んだ患者家族会員たちに、目をつけられていない第二組合員や下請け組夫がこっそり差し入れをしたという感動的な逸話も記録されている。
1967年7月、同法が成立したが、家族が求めていた解雇制限」「前収補償」「遺家族の生活補償」は盛り込まれなかった。
三池労組と三井鉱山は「CO協定」を締結した。得体のしれない「裏協定」もあった。多分補償責任は団体交渉で解決する(裁判ではなく)ということであろう。
1968年4月、「CO協定」により現場復帰が始まった。数字が逐年流動するので三井鉱業所CO患者現況調べ 1978.7.31から三池労組の分だけ抽出して実情を考えたい。
治癒認定=坑内復帰16+坑外復帰16+造成職場*75+退職**154+死亡10=271
 *「造成職場」は現場復帰できない治癒認定者を収容する作業所。「CO協定」に    
 より開設。生活保護受給のほうがましな低賃金職場。
 **異常に多い退職154人は「労災打ち切り→復帰か退職しかない」という患者   
 の切実な心配が現実になった証左か。退職者はどのように暮らしをたてたのか?
治癒せず認定=傷病補償年金給付16+傷病補償年金で退職***26+同死亡1+経過観察中死亡1=44 
  ***退職したら傷病補償年金は賃金の60%に減額されるはずだが、何故退職?

造成職場と退職の数字をみて、下記の裁判を起こした松尾蕙虹と村上トシがなぜ組合にあらがって裁判を起こしたか、謎の一端が解けた。両名の夫は認定級が低く軽症者扱いだった。松尾修さんは造成職場、村上正光さんは定年退職で労災療養所を追われて自宅療養。夫たちの異常行動で家庭は滅茶苦茶、妻たちは逃げ場がなかった。
労組は「軽症者と退職者を切り捨てた」「労組は生きている本工が大事なのだ」と時々聞こえてくる家族、遺族の怨嗟の声と不満の意味が分かった。

1972年11月、CO患者2家族の夫婦4人が組合の制止を振り切って三井鉱山を被告とする損害賠償請求訴訟を提起した。妻が原告に名を連ねる人権裁判としても画期的だった。先行中の水俣裁判に勇気をもらったという。「私たちもできる」と。【家族訴訟】
頻発する労働災害で損害賠償裁判を起こすことは企業あっての労組にとってタブーだった。労災裁判は「物取り主義」で階級闘争にそぐわないというイデオロギーもどこかにあった。家族訴訟にさらに2家族が合流し、雪崩現象を恐れた労組は、やむなく、遺族161人、患者259人を原告とする損害賠償請求訴訟を提起した。【マンモス訴訟】
かくして4家族に増えていた家族訴訟とマンモス訴訟によって事故の実態と責任が、延々と続く裁判の過程で、明らかになっていく。

1987年7月、三池CO中毒マンモス訴訟原告団が福岡地方裁判所の和解案を受け入れた。死者と1級認定患者400万円、その他等級に応じて330万円~65万円。

会社の責任を不問に付した和解に応じない原告32人が新原告団を結成した。【通称 沖裁判】
CO共闘会議が全国に組織され、 支援を受けた。労組は除名で応えた。

1993年3月26日、 家族訴訟と沖裁判に対する判決が下りた。 その判決は、三井鉱山の過失責任を認めるとともに、原告全員をCO中毒後遺症と認定した。賠償額は和解案に準じて低額だった。かつ妻の慰謝料は認められなかった。
家族訴訟組は、控訴し最高裁まで争ったものの判決は覆らなかった。
しかし人権を声高に叫ぶ過程で、人間性の尊厳と美しさを記録した文化遺産(文章、映像)を産むネタを存分に遺した。

1997年3月30日三池炭坑は閉山した。

まとめ・・・
三池炭塵爆発事件をめぐる40年間の攻防は体制と反体制の攻防であった。
水俣でもフクシマでもそうであるが、国策護持のため体制側は政・官・産・学・医がタッグを組み、事故原因と被害の矮小化、事故責任と賠償の回避につとめる。
反体制側の中核は三池労組だった。事故が起こった時すでに過半が差別待遇に耐えかねて第二組合に脱落して体力不足だった。そのうえ労組は最大公約数を要求目的とし、かつ共倒れをおそれる企業内組合である。
したがって労組は企業責任の追及でも補償要求でもしんがり走者だった。そして突出した極大値要求者を除名した。先鋭な組合でも片足は体制側にあるということか。先駆者の突出によってCO闘争は文化革命を起こした。

「家族訴訟」の松尾蕙虹の述懐「組合でも何でも権力を持ちすぎると組織は腐る」
原田正純医師「裁判があったからCO中毒を詳しく調べ、教科書の間違いも分かった。制度や慣例を打ち破り、道を切り開くのは少数派だ」
原田正純医師「松尾さんたち四家族が裁判をしなかったら、三池の炭塵爆発事件はこれだけ深く,トータルで歴史に残らなかった」

足尾、狭山、水俣、三池と反体制裁判闘争を跡付けて来て感動するのは共通して「人間だぞ!」と叫ぶ底辺の人々の先頭を走る少数の人徳のリーダー、そう先駆者が生まれていることである。 

依拠文献(主要なものだけ記載)
・星野芳郎/飯島伸子論文「三池炭塵爆発事件」(『技術と産業公害』所収)
・奈賀悟『閉山ー三井三池炭鉱1889~1997』
・森弘太/原田正純共著『三池炭鉱ー1963年炭じん爆発を追う』
・CO裁判をめぐる家族訴訟と労組の対立について要領よくまとめたBLOG
 http://blog.goo.ne.jp/mitsumame7427/d/20150723
   http://blog.goo.ne.jp/mitsumame7427/m/20150728

これからの研究者向け史料目録(世界歴史文化遺産となるべき労作)
・「大牟田市立図書館が所蔵する 三池炭鉱関係資料とその目録について 大原俊秀」
   http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/1515778/p083.pdf

上掲BLOGから無断借用

 



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