自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

マッサン/余市編/タイムトラヴェル

2015-03-22 | 体験>知識

3月4日放送分で応召する一馬のためにエマが「蛍の光」の原曲をピアノで奏でて
いるシーンがあった。
だれだったか送別の歌とつぶやいたのにたいしてエリーが「いや、再会を願う歌よ」
と返した。
それで思い出した。
近畿予備校の英語の最後の授業のあと先生が同じことを言って原曲「オールド ラ
ング サイン」を独唱してくれた。

マッサンは幾度となくわが人生の思い出と交差する。
マッサン(ブラジル語でリンゴの意)と聞くとブラジルのリンゴ園を連想する。
どこかへ行くのに遠回りの道を避けてドイツ系移民のリンゴ園を横切った。
女主人に大声で「パトライス」と怒鳴られてわざわざ後戻りさせられた。
リンゴといえば、栽培発祥の地、余市。
余市はこどものころよく母が関わりを語ってくれた。
母は幼児のとき父母に連れられて徳島から北海道に渡った。
わたしの祖父母は、百姓として、つまり何でも屋として、道内を渡り歩きながら9人の
子供を育てた。
余市も出稼ぎ先の一つだった。
余市は、戊辰戦争に敗れた会津藩が屯田兵として移住して開拓した土地だ。
母の昔語りにも祖父がリンゴ、シャケ、ニシンを大八車で持ち帰った話が出た。
ずっと気になっていたのは、母が老屯田兵から聞いた自慢話である。
戦争で若い敵兵が川をこえるのを岸で待ち構えていてスパッ、スパッと袈裟掛けに
斬ったという話。
これは多分会津戦争の話ではなく、西南の役で西郷軍にリヴェンジした時の話だと
思う。
明治10年4月、開拓使黒田長官の命により屯田兵遠征隊が編成され、小樽港から
645名が出征した。
肥後百貫石港に上陸し、球磨川に沿って八代から人吉、さらには宮崎まで進撃した。
2ヵ月半の間の交戦で西郷軍を追い詰める戦果を挙げた。

3月6日放送分。   表では勇ましい強がりの親父熊虎が息子一馬の出征送別会で
「オールド ラング サイン」を泣きながら熱唱した。
外に洩れないように戸を閉め切ったウイスキー蒸造所の中での大合唱となった。
表で笑って裏で泣く演出に誰でも知っている国民唱歌を使うとは...。
アサドラは演出、演技が巧い。
大河ドラマはジャニーズ系のキャストで演技にも鎧兜にも真に迫るところがすくない。

 


6.15安保闘争クライマックス/樺さんの死/安保闘争ヒロイン誕生

2015-03-06 | 体験>知識

6月15日が画期的な水曜日になるという雰囲気は京都にはなかった。
末端のブントでしかも新入生の活動家にすぎなかったわたしは安保闘争がもりあがったが故に日常化したデモに埋没していて、6.15ゼネストを特別視する自覚はなかった。
東京ブントが国会突入戦術の仕上げをした。
国会占拠ではなかった。
この日全学連は国会通用門を突破するための小道具(ペンチ、鉄鋸、ハンマー、たがね、ロープ)を用意した。
明大中心の工作隊が、トラック曳き出し、車輌焼き討ち、救護等の役割を分担した。
機動隊の警棒に向かって突入をやりきるという確固たる方針と不退転の覚悟も準備した。
参画する同盟員は周りから迫られたわけではないが内心覚悟を問われた。
戦術に疑問とか家族の心配とかの逃げ口上は赦されなかった。
樺さんをふくむ東大の女子学生3人はスカートをスラックスにはきかえて参加した。
女性は危ないから後に下がるように、と叫ぶ周りの声に応える間もなく先頭集団およそ100人の中にいた3人は警棒で頭か腹部をやられ気を失って倒れた。
国会周辺を埋め尽くす数十万の参加者は志がありながら飛び込めなかったサイド・ウオーカーだった。
わたしはその日上京していない。
上京団を結成したはずだが記憶にない。
事件は本部自治会BOXで知り胸苦しさを覚えながら徹夜で翌日の準備をした。

北小路敏委員長代行を先頭にスクラムを組んだ徒手空拳の学生達が南門に取り付いて1時間半後、門柱を引き倒し、バリケードの阻止車を1台曳き出した。
19:00東大本郷、明大、中大の順に隊列を組んだ先頭部隊が構内に入り始めた。
そして運命の5分間が訪れた。

以下、作者不明のHP『60年安保・その激動の軌跡』と朝日ジャーナル7月3日号の特集『6.15流血事件の記録』から引用する。


車輌の係留と移動  
車輌がロープで繋がれその端は後の立ち木に巻かれている。

《19時03分・・2台目の阻止車、門外に引き出される。
後方にあった車2台も後ろへ押しやられ、学生がどんど ん入る。放水効果なし。
《19時04分・・構内に入った学生約700。樺の姿は前から10数列目にいる。
この時、学生の正面にいた警官隊が後方へ引きさがって、袋状の隊形となる。学生との間は2,30メ-トルの広い空間ができる。

〔警察メモ〕
《19:04・・警官、袋のように後退する。
《19:05・・学生、どんどん入る。100人ぐらい。放水効果なし。


「引きさがった」状態についての説明。   
     ・・「逃げるように」「しかたなく」
     ・・「サッと」「整然と」


 

*定かでないが学生がごぼう抜きされて後方に送られている。

《19時05分・・西側の第四機動隊の後方で白い警棒が振り上げられ「かかれ」
警官隊はワッと喚声をあげて、 警棒を振り上げて旧議員面会所方面に殺到。
学生は算を乱して逃げたが、一部は旧議員面会所のガラス戸を外して投げつけたり、プラカ-ドの柄を振りかざして打ち合った。
警棒が学生の頭や肩を打ちのめす音*が不気味に聞こえ、最前列 の学生は両手で頭を抱えながら倒れた。
倒れた学生は警官に殴られながら、後方へごぼう抜きに 送り込まれ、私服の猛烈な一撃で叩き臥せられた。
私服は男女を問わず負傷学生の髪の毛をつかんだり、足を持ったりして議員面会所に引っ立てていった。
バチバチとトタン屋根を打つ大粒の夕立の音

〔警察メモ〕
19:06・・旧議員面会所まで乱入。規制中。投石激しい。強力に圧出中。
《19:09・・旧議面のガラス割って投げる。
《19:10・・警官相当負傷。学生、旧議面と旧警務官詰め所[供待所]
近くに分断されている。
             100人抵抗者検挙中。
           
この中に樺さんがいた
《19:11・・南通から正門の土手にずらり見物中。
《19:14・・部隊後退。阻止車また引き出される。強力に排除中。
《19:16・・放水中止。学生突入。強力に圧出中。
《19:18・・門まで圧出したがまた入る。投石。




《学生は負傷者をつれて、首相官邸などで通行の乗用車に向かって「負傷者を病院に運んで下さい」と叫び、協力する乗用車が多かった。
19時20分・・学生は門外に押し出された。「誰か死んだのではないか」との噂。
19時30分・・女子学生の死が伝わり始める。
樺の死体搬出に関して
《南通用門からデモ隊救護班が運び出し、官邸付近からきた救急車に収容、19時30分頃 (警察病院調べ)警察病院に運び込んだ。


救護班に運ばれる樺さん   撮影 :濱谷浩

            
このあと激高した学生が続々構内に入り、やがてその数は4000人に達した。
降りしきる雨の中、夜の10時過ぎに始まった第二次乱闘は騒擾と化し明け方まで続いた。
全容は図面と写真と証言で構成された上掲誌に詳しい。