自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

中平亮『 赤色露国の一年』(1920)/百年検証に耐えるルポルタージュ

2017-01-01 | 体験>知識

2017年 めでたくもありめでたくもなし
昨年4月少年サッカーの指導から引退した。時間の余裕ができたかと云えばさにあらず、103歳近い母親の介護を妻と分担しなければならなくなった。私は丸一日は外出できない。身長148足らず、体重40未満の寝たきりの母を座らせたり寝かせたりする困難を毎回実感している。誰もが通る道、老々介護は厳しい。介護士の苦労が思いやられる。
2017年はロシア革命100周年である。世紀の歴史的事件だから各方面で大所高所からの論評があってしかるべきだ。
わたしはブログで1964~68年頃の自分の研究を主幹にすえて体験的枝葉を綴るつもりだ。
ロシア研究会で菊地先生が推薦した大阪朝日中平亮記者の十月革命実記をその後読んだ。実記といえば学生時代に読んで青年のロマンティシズムをかきたてられたジョン・リード『世界を揺るがした10日間』 トロツキー『ロシア革命史』 ショーロホフ『静かなるドン』*だが、いずれも革命の悲惨と艱難を乗り越えていく指導者と民衆群像をリアルかつ肯定的に描いている革命賛歌である。

おっと、これはノンフィクション風大河小説だった。
賛歌だからといって食わず嫌いはいただけない。勝者が編纂した歴史例えば維新史をわれわれは飽きもせず常食しているのだから。
児童文学『ツバメ号とアマゾン号』シリーズの作者アーサー・ランサムのルポルタージュ3部作は一冊に収めた単行本で読んだ記憶があるが優れた記録文学である。
ロシアの真相(1918年4月末執筆)は文学の香りがして一味違う。
一九一九年のロシア、六週間 (1919年6月) 旅行日誌風政治的論文ロシアの危機』(1920年初夏~執筆) 経済危機を扱った論文

 中平亮  1894.1.1~1981.3.8  土佐のイゴッソ  忘れられた新聞記者  ニコヨン生活  新聞訃報無
中平亮『赤色露国の一年』もまた優れたルポルタージュである。復刻が望まれる。
若手記者として1919年5月末にウラジヴォストークから入露した。白軍と赤軍が戦うシベリア戦線を突き抜けて、銃殺寸前の死線を越えた末、モスクワに入ったがすぐ非常委員会チェー・カーの尋問、尾行を受けた。
スパイ嫌疑から逃れるために西のポーランド軍と赤軍が戦っている前線=「国境」に向かって徒歩脱出した。鉄道と鉄橋は検問に引っ掛かるから徒歩、渡渉による逃避行だった。逃避行ゆえに彼の体験記は取材制限を受けてない稀有の記録となった。
ロシア農民の親切に救われたり狡猾に金をかすめ取られたりしながら前線近くでついに拘束を受けた。連行する民兵から銃を奪って一度は逃れたが結局当地方ソヴィエトに逮捕された。そこはボルシェヴィキ支配下のリトアニア[現バルト3国の一つ]だった。
その間1か月半1000キロを歩き、着の身着のままで垢と南京虫にまみれた幽鬼のような恰好だった。
結局モスクワに護送されブティルカ監獄に拘禁された。そこでチフスにかかり死線をさ迷った。
レーニンとトロツキー政府の対外政策が変わりつつあった。日本人としての利用価値が出て来たのだろう。地方のサナトリウムに送られた。そこで、5か月ぶりに、風呂に入り着替えて散髪した。
3か月間療養の後3月1日モスクワに戻った。陸軍大学で日本語を教える「お役人」としてささやかな衣食住を与えられた。そこでかれは東大卒の日本研究家エリセーエフと懇意になった。彼は流暢な日本語でボルシェヴィキは「(赤いから)金魚のようなものです。煮ても焼いても喰えません」と批判した。
白軍の脅威が遠のくと政府の方針が変わり、中平はスパイ容疑者から外国通信員、時には「日本革命家グループ代表」として、遇されることになった。
1920年6月3日、日本の新聞記者として初めてレーニンに面会した。レーニンの主たる意図は、シベリアを念頭に置いて、戦争を望まない政府の姿勢を日本にアピールすることだった。レーニンとトロツキーの承認のもと、シベリアに共和制の緩衝国家「極東共和国」が建国されたばかりだった。
クレムリン内のレーニン執務室の隣室では女性ばかり20人ほどが執務していた。それと、執務室の入退案内係が背骨が湾曲した婦人*であることに中平は強い印象を受けた。
上掲赤露記では「せむしの女」となっている。 インタヴィユーの原稿見本では「せむしの老婦人」だったのを目を通したレーニンが削ったが中平が復元させて出版したことを『レーニンと会った日本人』の著者、ソ連記者アルハンゲリスキーが確認している。記者によると老婦人ではなく愛くるしい気立てのよい30歳に満たない女性で名前はグリャッセルである。
案内係ではなくすべてを手配する秘書である。レーニンに指示されて人民委員会と党の公文書に付けるプロファイルの様式を作成したのは彼女である。何時、誰が、どう遂行したか、後日検証し責任を明確化できるようになった。歴史を探求するわれわれも恩恵を受けている。
中平記者は「兵卒上がりの低級な人々」「低級な民衆」とかいう言葉*を使うこともあるが赤露記に関するかぎり人種、国籍、貧乏に対する偏見がほとんどない。
*差別語「露助」「土人」も注意して読み返したら一つ二つあった。
私がこのたび中平亮を記事にする理由もそこにあるが、ほかに彼の特異さもある。表現が誠実で冷笑的でない。自分のイデオロギーで対象をみるのではなく事象をありのまま描こうとしていることに好感がもてる。
かれはロシアで主として辺境と末端を見聞していたためボルシェヴィキのコアな支持者にほとんど出逢っていない。だから食料徴発と飢餓、配給制度と行列、物資の横領、担ぎ屋と闇商売、それに労働意欲の低さと規律の紊乱、反ボル感情の蔓延をおもに記事にしている。
一例をあげる。彼はたまたま元地主の息子が指導者である共産農場コミューンに行き遭っている。政府の援助で物質的に別世界であるが恩恵を受けている当の百姓たちは収穫を向上させても私有、商売ができないことと自発的でない義務労働に不満を抱いていて自立、個人農の制度を夢見ている。

 彼はまた政権の看板「労農同盟」にはほとんど触れていない。工場労働の現場を見聞、体験していないからかもしれない。かれは労働者に労働意欲がなく規律がないから工業もかならず衰退するだろうと想像し、その根拠を、モスクワで当時出逢った飛行士新保清の模範工場体験談をもってしている。
ちなみに新保清はフランス軍パイロットとして大戦に従軍してドイツ軍の捕虜生活を経て帰路ソヴィエットに入ったらしい。2年後(1922年) スパイ容疑で逮捕され消息不明第一号となった。第二号は逮捕されたあと(1922年)行方不明になった読売記者大庭柯公である。真相追及が待たれる。文書保管局に中平ファイルがあるのだから両名のファイルもあるはずだ。 
第十八章「過激派とは」は冒頭2ページ弱を残すのみで6頁近くが内務省検閲の結果白紙になっている。全章にわたって掲載された事実項目(ほとんどが失敗に終わりそうな制度、政策)だけでも大正デモクラシー下の社会運動を刺激する*に足りると思うが、それ以上に見過ごすことのできない、削除しなければならない危険な主義主張、論評、事実が原稿にあったのだろうか? 
8時間労働制、男女平等、無料の普通教育等は十分に刺激的だった。
中平はボルシェヴィズムは「日本の国体と国民性」に合わないと断言している。天皇制には直接は言及していない。だがレーニンが会見で質問書に答えるより先に開口一番「日本には地主的権力階級があるかと問うた、それから日本の百姓は土地を自由に持っているか・・・」と問うたことに中平は強く反応している。地主-小作制が天皇制の揺るがぬ基盤だったことを考えると、このテーマを赤露記原稿で掘り下げたために国体に抵触したかもしれない。
中平は1918年1月にウラジヴォストークに記者として赴任しているから日本軍のシベリア出兵を最初から取材していると考えられる。また白軍が民衆の支持を失って敗退していく過程を目の当たりにしてその敗因を記事にしている。だが日本のシベリア出兵には触れていない。レーニンが会見で口にした緩衝国家についてもやはり一言提言して国策に触れたかもしれない。実際官憲が目を剝くような中平の署名入り反戦ビラの長文原稿がロシア文書保管局にあることを記者が発見した。
「同志日本の兵士諸君! 1918年の秋、諸君らはチェコスロヴァキア軍団救援という口実のもとにシベリアへ派遣された。だが実際には専制政府とロシア人、外国資本家による搾取から自国を解放するために闘うロシアの革命家を弾圧するために派遣されたのである。・・・」(1920.3.23)
ルシェヴィキ政府は、内戦勝利の見通しがついても、極東の日本軍を武力で追い出す余力がなく、平和的撤退を求めていた。中平はシベリア出兵には大義がないと確信していた。両者の思惑が接近して上記の反戦ビラ原稿となったと思われる。もちろん外国通信員は政府の管理下にあったから原稿の内容は中平の本心ではないということもできる。
そして6月3日にレーニンとの会見が実現した直後に帰国の途についた。

 1920.8.10 ハルピン帰着

中平亮は何者か?菊地先生は、戦後の中平を指して侘び住まいのナショナリスト[国家主義者]と言った。かれの思想は共産主義ではない。理想はよいが民度が低いロシアでは実現できない、「労農政府」は外圧がなくなると民衆暴動により内部から崩壊するだろう、と結論している。運輸(鉄道、荷馬車)の障害もあって食料と燃料の不足が極限に達し、ロシアは来るべき冬を無事越せない、と正しい状況判断をしている。
敗戦日本では物資はあるところにはあったが、勝戦ロシアにはどこにも何もなかった。象徴的な表現だが、種子も釘もなかった。内戦続きと徴発と徴兵で農村は荒廃の極に達していた。工場も操業停止状態で、農村からの食糧の対価となるべき工業製品も払底していた。労働者も飢えていた。
中平はまた赤軍がポーランド軍に大敗したことが長期の従軍で疲弊した兵士の不平を充満させ暴動の契機になると分析している。「暴動が勃発し得るのは此の時である」
中平の観測通り、1920年から21年にかけて、ペトログラード労働者のヤマネコ・スト、「十月革命の栄光」クロンシュタット水兵の反乱、タンボフの農民反乱、黒軍マフノの反乱が起きた。レーニンはそれらを反革命と断罪し赤軍を動員して厳しく鎮圧した。
ボルシェヴィキ政府は穀物等の割当徴発制より現物税制への移行、小規模経営の復活、いわゆる戦時共産主義から新経済政策NEPに方向転換した。

 中平亮は1931年、満州事変の後、朝日「局内の右翼と衝突して」(記者前掲書)朝日新聞社を去った。事件との関連は不明である。事変が軍部の陰謀だったことは今では常識だが、たちまち世論が沸騰した。一夜にして「朝日」が戦争扇動に変身した。知識階級は沈黙させられた。中平はそれらを正常化したと歓迎した。出典 中平亮『大亜細亜主義』(1933)
わたしは大アジア主義を研究したことがない。中平によれば「まとまった理論として発表されたもの皆無である」 日本が先導して西欧帝国主義のくびきからアジア人民を解放する、という中平の大アジア主義の大義名分は、右翼から軍部、政府、新聞・ラジオ、民意まで共通である。それは西欧帝国主義の言い分と大同小異である。文明人が東洋の野蛮人を教化する、武力に訴えても、という点で。

同著書によれば、中平は大アジア主義のひらめきを決死の逃避行の最中で得た。わたしはその体臭を彼の帰路の記事ではじめて嗅いだ。帰りはオフィシアル・コースだ。日本外務省の用命した馬車で蒙古平原を突っ走った。使命を果たした満足感からか、歴史の検証に耐えうる記事を書こうとする緊張感から解放されて、遊牧民について垂れ流しの与太記事を書いた。
モンゴル遊牧民は旅人をパオに泊めて歓待する。妻や娘を提供する。都会でも淫売は細君連の内職仕事だ。性風俗が乱れて99%が梅毒に罹っている。
文明のない辺境は中平には文化がないと映るようだ。当時の知識人はみなそうだった。西欧のキリスト教徒が幕末の江戸の銭湯(階下で混浴、階上で湯女のサーヴィス)を観察して抱いたのと同類の感想だ。

記者がじかに聞いたところによると、中平は満鉄調査部でロシア担当として働いた。戦後妻の里和歌山で農夫になった。1977年現在83歳、失業対策事業労働者・通称ニコヨン、収入月6万円、中野区の文化アパート2階の小さな部屋に老妻と二人でつつましく住んでいる。
中平亮はイデオロギーにとらわれず終生レーニンを尊敬していた。私心のない点でふたりは共通している。
二人の国際主義にも共通点がある。大亜細亜主義も共産主義インターナショナルも世界を文明化すれば人類の幸福を実現できると信じていた。