クラシック音楽徒然草

ほぼ40年一貫してフルトヴェングラーとグレン・グールドが好き、だが楽譜もろくに読めない音楽素人が思ったことを綴る

シューベルト なぜいくつも交響曲が未完成で残されたか?

2016-10-26 19:53:58 | シューベルト
またまた金子建志「交響曲の名曲・1」関連ネタ。今回はシューベルトの「未完成」交響曲について。
といっても、あの「未完成」D759だけでなく、いくつもある未完成作品についてである。

シューベルトが手がけた交響曲を未完成の作品も含め、他の出来事とともに年譜にしてみた。



この表の※印が未完の作品である。
(細かいことを言うと、この前にD2Bというほんのちょっと書いた作品があるが明らかに習作なので省略)
未完の作がどこまで書かれたかについてはこちらに記載あり。

6番までは快調に毎年のごとく完成させていたが、それ以降パッタリ。
次の完成作は7年後の「グレイト」まで待たねばならない。
なぜ完成できなくなったか?
主たる論調は
「ウィーン古典派の生み出した偉大な形式への畏敬の念にとらわれてか、それを大胆に改革する勇気をまだ持てない。そのために試行錯誤の迷路に入り込むことになった。」(喜多尾道冬「シューベルト」)
「ベートーヴェンを身近にみていたシューベルトにとって、一人前の専門的作曲家となることを意識しはじめると、ベートーヴェンの後に交響曲を作るということの意味を考えざるをえず、その壁は高く分厚く、なかなか乗り越えることができないものだった」(村田千尋「シューベルト」)
などである。
要するに主にベートーヴェンのプレッシャーを感じて、なかなか納得できる作品を生み出せなかったということだ。

ところがこのほど上表のすべての作品が収録されたマリナーのシューベルト全集(未完のものはBraian Newbouldが補筆)を入手した。
そして未完成の作品群を初めて聴いて、全く異なる印象を持った。ベートーヴェンのプレッシャーを感じてウジウジ悩む、なんていう気配は全くない。
D615は2つの楽章の一部しかないが、D708A, D729は全4楽章の素材が出そろっている。
しかもベートーヴェンの影響なぞ全く感じさせないシューベルト独自の世界が広がっており、その気になれば絶対に完成できたはずである。
完成できなかった、のではなく、完成させる必要がなかった、というのがコトの真相ではないだろうか。

各作品作曲時の状況をみると、1番はコンヴィクト在学中で、学生オケで初演。
2番から6番もシューベルトの家庭オーケストラが発展したハトヴィッヒ・オーケストラで、ハトヴィッヒが病気になった後はペッテンコッファーという人が演奏会場を提供していたオーケストラで私的に初演されていたらしい。
ところが1820年にペッテンコッファーが富くじに当たって郊外へ引っ越してしまう、というはなはだシューベルト的理由で交響曲を演奏する場がなくなってしまった。(喜多尾・同上)

出版の方はどうかというと、1821年にようやく最初の歌曲集を友人の援助で自費出版という状況であるから、交響曲の出版なぞ夢のまた夢。
シューベルトはプロの音楽家となっても、純粋に音楽を愉しもう、というアマチュアリズムの精神を保ち続けていたと思う。
が、さすがに演奏も出版もされないような交響曲を書いても意味がない。
しかしながら、将来は交響曲作家として名をなしたい、という志があり、楽想も湧いてくるので手をつける。
一方、ジェリズに家庭教師で滞在したり、オペラを上演したり、フォーグルと歌曲の演奏旅行したりして収入の見込み(または期待)がある音楽活動が忙しくなってきた。
こんなわけで、未完の作がいくつも残された、ということではないだろうか。

なぜ「グレイト」は完成させたか、というと、完成させる意味があったからで、楽友協会へ提出してしっかり100フローリンせしめている。
それでは「未完成」はどうだ?あれはシュタイヤーマルク音楽協会名誉会員となったことへの返礼として提出されたのではないか、と反論されるかもしれないが、実際は「未完成」は協会へ提出していない。3楽章途中までをアンセルム・ヒュッテンブレンナーに私的に渡しただけである。もしかしたらシュタイヤーマルク音楽協会の方は楽友協会と異なり単なる「名誉」会員で仮に交響曲を提出しても一文にもならないし演奏されそうにもない、とわかって完成させるのをやめたのかもしれない。

さらに言うと、ベートーヴェンの壁を意識して云々・・・というのは、時間とともにモノゴトは進化したり複雑化したりするという進歩史観や、やたらと彼此を比較してそこに「競争」という観念を持ち込む西洋近代主義とでもいうべきものの毒に侵された見方だと思う。
そんな毒とは無縁のシューベルトは「ベートーヴェンに対抗しよう」とか「ベートーヴェンを超えよう」なぞという意識はこれっぽっちも無かったのではないか。
「ベートーヴェンの後でなにができるか」とシューベルトが言ったというが、Wikiによると出所はシュパウンの回想でシューベルト11才(小学生!)の時の言葉だそうだ。
シューベルト11才ということは1808年。ベートーヴェンは第5・第6交響曲を発表した頃で、既に有名だったかもしれないが、後世の楽聖イメージにはほど遠くわけのわからない前衛作曲家と目されていたはず。そんな時に子供がこのような発言をするであろうか?
死後急速に神格化が進んだベートーヴェンの後継たらんとシューベルトは幼時から自覚していた、と世間に印象づけるためのシュパウンの創作のような気がする。シュパウンはゲーテに手紙を書いたりシューベルトを世に認めさせるのに熱心だったから、もし創作としてもいいかげんなデッチ上げをするベートーヴェンの元秘書シンドラーとは違いあくまで善意からとは思うが・・・。シューベルト少年が本当にそう言ったとしても、それをずーっとひきずるはずがない。交響曲第1番を作曲した16才の時にはすでに己の道を見出していたと思う。
實吉晴夫「シューベルトの手紙」(タイトルは手紙であるが、たまに書いた日記などシューベルトの残した全ドキュメントを収録してある)を読んでみたが、ベートーヴェンの後で・・・とか、ソナタができない、とかいう類の悩みは皆無。そんなことより悩ましいのは、父との葛藤、「芸術商社」のカネ払いが悪い、オペラの公演が2つもお流れ、などなど・・・そして自分の健康状態、である。


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