クラシック音楽徒然草

ほぼ40年一貫してフルトヴェングラーとグレン・グールドが好き、だが楽譜もろくに読めない音楽素人が思ったことを綴る

ベートーヴェン 交響曲第8番へ長調  新しい世界への入口

2015-12-16 11:47:44 | ベートーヴェン
ベートーヴェンの8番。
メルツェルさんの第2楽章に象徴されるように、小ぶりで軽い曲。
7番とほぼセットで作曲されたのに、ポピュラリティーでは大きく劣る。
ベートーヴェン交響曲不人気ランキングでは2番とトップを争うであろう。

8番というと、そんなイメージであった。
最後に聴いたのがいつだか思い出せないくらい聴いていない。
ところが、最近久しぶりに聴いて、ビックリ。スゴイ名曲ではないか!!!
しかも後期弦楽四重奏曲やまだ見ぬ(そして見ることのなかった)新しい世界へ通じる気配をそこかしこに感じたのである。

第1楽章。豪快にテーマから始まる。展開部も大いに盛り上がり、sfが連続。fffで再現に突入し低弦が主題を奏でる。
こういうところは中期のマッチョな世界と変わらないようだが、どこか違う。
”あーくたびれた”という終わり方もその一因だが、妙に気になったのが、提示部の終わりに出てきて展開部でも執拗に鳴らされる動機。



”これがどうかしましたか?”と言われそうだが、こういう音形は中期のマッチョな曲には現れなかったのではないだろうか?
なぜか後期の世界に通じる気配が感じられる。

第2楽章。ある方のサイトによると、この曲がメトロノームのメルツェルと関係がある、とするのはシンドラーのでっち上げということである。あのシンドラーという男は顔からして俗物臭がプンプンして全く信用できない。なんであんな奴が楽聖の秘書をやっていたのか、と文句をたれてもしょうがないが、メルツェルのことは忘れてこの曲を聴くと実にモダンだ。第7の第2楽章と比べるとますます違いが際立つ。向こうは悲愴美きわまる重々しさでもちろん名曲だが、第8だって負けていない。あくまで軽やかで、鉄とガラスでできた近代建築のようだ。何かマーラーとかサティとかの世界に通じるような気配もある。要するに100年くらい時代を突き抜けている。

続く第3楽章は一転してオドロオドロしい。松の根っこみたいに地面の上をウネウネしている。が、トリオは一転してクラリネットとホルンの歌で夢幻の彼方に飛翔する。同じようにホルンが吹くエロイカ第3楽章のトリオとは全然違う。あの頃は意気盛んであった。もっともこの曲でも低弦に何やら蠢くものがあるが・・・

そして第4楽章。ここにも気になる音形が出てくる。



第1楽章の気になった音形と同じく8度跳躍。またも”これが何か?”と言われそうであるが、これこそ後期の世界にはっきりつながる。



大フーガの代わりに書いた最終楽章の冒頭。やはり第8は弦楽四重奏の13番と地下水脈でつながっているに違いない。
フルトヴェングラーが第8―大フーガ―第7というプログラムを組んだのも同様に考えたからである、わけないか・・・
この楽章、こんなちょっとした音形だけでなく作り自体が風変わりだ。
ふつうにソナタ形式で終結部に入ったのかな、と思わせると、まったく予期せぬ世界に連れて行かれる。



ギリシャの大神殿のような壮大さで、まるでブルックナーみたいだ。(ん? 順番が逆で、ブルックナーが第8みたいなのかな?)このあと主題が再現するので、結局第2展開部と第2再現部を擁する複合ソナタ形式とでもいうべき形式となるが、形式なんかどうでも良い。要はこの曲は既存の形式なんか超越した幻想的かつラプソディっクな曲なのである。第8が小交響曲なんて誰が言った?(あれ、楽聖ご本人でしたっけ?)

曲全体も、苦悩から歓喜へ、のようなストーリー性が全く感じられない。
中期のマッチョな曲はベクトルの向きが揃っているが、第8はベクトルの向きが発散しているという印象。
こういうところが弦楽四重奏13番的でモダンなのである。音楽で余計なイデオロギーっぽいことを語るのは古い。
そういう意味では後にくる第9の方が逆に先祖返りしている。もっとも第9は以前からあれこれあった構想をまとめたのでああいう形になったのでしょうが。
とにかく、第9の後、第10を書いたとしたら第8を引き継いだものになっていたに違いない。
自由で軽く、それでいて深い精神性をたたえているような・・・
(それって、モーツァルトの世界ではないでしょうか)
残念ながらそういう交響曲は誕生しなかったが、もし出来ていたら、その後の音楽の歴史は大きく変わっていただろう。