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amが独断と偏見で語る食の歴史とルーツ

今日、私達が口にしている数々の食材と料理が世界中の中でいかに生まれ、変化してきたのか、その意外な素顔を探っていきます。

食の歴史~紅茶とコーヒーの歴史~

2012-06-08 10:53:48 | 日記
おはようございます。今日も皆さんの暇つぶし用にコラムを書いてみました。
携帯やスマホで読んで下さる方もいるだろうと考え、あえて画像は入れてません。

まず、茶の歴史はミャンマー北部と中国南部に自生していたのを2300年ほど前に飲み物として使うようになったのだけど。最初は漢方薬として使われていました。
それが仏教が伝来し。仏教が酒を戒めると、酒の代わりに広まっていき。1600年ほど前には茶を栽培して飲むようになりました。

そのお茶も中国では大雑把に三種類ありまして。北部では緑茶、ジャスミンとかを入れた花茶。南部の福建省では烏龍茶。香港の近くにある広東では紅茶が作られて飲まれるようになりました。

それから千年以上送れてヨーロッパもお茶を飲むようになったのですが。最初は1610年にオランダが長崎からオランダの首都アムステルダムに運んだ緑茶がヨーロッパに渡った最初のお茶と言われています。この頃はオランダが植民地帝国で世界中に幅を利かせていました。

イギリスもその頃は以外でしょうけど緑茶を飲んでいました。海の交易は最初オランダが独占していましたが。1669年にイギリスが中国からお茶の買い付けに成功しています。その頃もまだ緑茶だったのですが。ポルトガルの王女がイギリスに嫁いだ時にイギリス王室に紅茶を飲む習慣を広めたのと。イギリスの硬水の水質ではタンニンの多い紅茶が適しており、肉食を好む食生活に濃厚なお茶の風味がマッチしていたのも緑茶に代わって紅茶が席巻していった理由だと言われています。

こうして紅茶が緑茶よりも好まれるようになり。ヨーロッパ、中東、アメリカでも飲まれるようになりました。
1800年代にインドやスリランカで紅茶を栽培して世界の紅茶をイギリスが独占しますと。独占しているために高値でふっかけられた値段に嫌気をさしたフランスやアメリカはコーヒーへとシフトしていきます。

こんな事情があって。紅茶はイギリス、コーヒーはアメリカという図式が後々出来ていきます。

では、次にコーヒーの歴史もさらっと説明してみます。
コーヒーの原産地はエチオピアのカファと言われる標高2400メートルの高原地帯に自生していたのを飲料にしたのが中東に伝わったものです。
コーヒーを飲むきっかけとそのルーツは伝説の領域ではっきり分かってませんが。文献には1100年前にアラビアのラーゼスという医師が茶と同じく薬用で処方したのが一番古いコーヒーに関する記録だと言われています。

あと、1587年に書かれた文献ではイエメンのモカに住むシェーク・オマールというアラブの偉い坊様が山で小鳥がついばんでいる赤い実を食べてみたらカフェインのせいか。心身爽快になったので。飲み物に加工して病人に与えて苦痛を救ったので聖人になったと言われています。

「昔ア~ラブの偉いおぼうさ~まが~♪」で始まるコーヒー・ルンバはこの話が元です。
アラブの偉いお坊様が飲ませたコーヒーはモカだったんですねえ。

しかし、コーヒーは長い間、門外不出の秘薬とされ。一般には出回らなかったけど。1554年にトルコの首都イスタンブールで「文化人の学校」という名前で出したのがコーヒー喫茶店の始まりだったそうです。

そのトルコ人が1615年にイタリアは水の都ベネチアに持ち込み、それがフランスやイギリスにまで飛び火して、イギリスも紅茶が普及するまでは「コーヒーショップ」というものが沢山あったほど流行していました。

しかし、キリスト教の敵であるイスラム教徒の飲み物を喜ぶなんてとんでもないという声もあり。反対派と擁護派で乱闘騒ぎになるほどヒートアップ。
この論争は当事のローマ法王が「こんな美味しいものをイスラム教徒に独り占めさせておくことはない」と発言して一件落着。
ローマ法王が擁護するほど教会はコーヒー寄りで。カプチン修道会ではスパイスを混ぜたコーヒーを作って寝ずに修行していました。
これがカプチーノの始まりです。

コーヒーに砂糖とミルクを入れるスタイルを考案したのは音楽の都、ウィーンの人だと言われています。

トルコ帝国は音楽の都ウィーンを2回包囲して結局攻略できずに去って行ったのですが。トルコ人が去って行った時に山ほどコーヒーを残していったので。それを目端の利く人がタダ同然で買い付けてカフェを開いて一攫千金したそうです。
カフェではカップに粉が入らないよう布で濾してクリームを入れたウィンナーコーヒーも考案しました。

このカフェがヨーロッパの歴史を大きく変えていきます。
フランスやイギリスにコーヒーショップが出来ますと。イギリスでは1ペニーの入場料と1ペニーのコーヒーで雑誌や新聞読み放題。雑誌や新聞を読んだ知識をコーヒー片手に議論できたので通称「ペニー大学」とも言われました。
その「ペニー大学」の議論からイギリスでは損害保険、生命保険の概念が生まれます。

イギリスの保険組合といえばロイズが有名ですけど。もとはコーヒーショップの談義から生まれたものなんですね。

一方フランスでは政治家、学者、芸術家などが集まってサロンとなり。コーヒー片手に新しい思想が生まれ。それがフランス革命の原動力となっていきます。

コーヒーが無ければイギリスの議会制もフランスの共和制も出来なかった事でしょう。

さて、アメリカのほうでは1669年にニューヨークでコーヒーショップが開かれ。1730年頃には一般家庭にまで広まっていました。
しかし、西部開拓民はコーヒーが満足に無いので。代わりに黒パン、大麦、タンポポの根、嗅ぎ煙草などを煮出して。「むくんだコーヒー」と言われる代用品を作っていました。

そんなアメリカも当事はイギリスの植民地でしたので。紅茶は伝わっていたのですが。高い関税がかけられて高値でした。
その上アメリカと関係の無い所でイギリスとフランスが戦争を起こし。その戦費調達に印紙税をアメリカから取りました。
その名残が日本でも文書に収入印紙を押す形で残っています。

アメリカからすると、アメリカ人はイギリスの領土なのに、イギリスの議会に参加できない。ロンドンの政治に参加できず勝手に決められた税金なのです。

そこで、アメリカの有識者が「代表なくして関税なし」と言い出しました。
そこからイギリスの関税の象徴である紅茶を攻撃しようとインディアンの格好して乱入し。紅茶の箱を次々と海に投げ込む事件が起こりました。

これがアメリカ独立戦争のきっかけになった「ボストン茶会事件」です。

アメリカは紅茶を独占するイギリスと何度も戦い。時にはホワイトハウスを燃やされた時もあった程なので。紅茶は廃れ、コーヒーが主流になりました。

しかし、1800年代が終わろうとする頃に大きな変化が起こります。

イギリスはスコットランドのグラスゴーに生まれたトーマス・リプトンがアメリカに渡り、食料品店を開きます。その時にスリランカともセイロン島とも呼ばれる場所で紅茶を栽培してから、大量に輸送し。商標をつけて安全性も確保し、信頼を得られるブランドとなりました。
それと、リプトンがセイロン島から大量に持ち込んだ紅茶のおかげで紅茶の値段が半分になったのもアメリカでも売れた大きな要因と言われています。

リプトンの缶などにパイプをくわえ、ヒゲを生やしたおじさんの顔が書かれていますが。あれがトーマス・リプトンです。

紅茶で財を成したリプトンは慈善事業も展開し。そのせいもあってかビクトリア女王からサーの称号を貰っています。

もし、イギリスのグラスゴーなどへ行ってみる時はリプトンの創始者。トーマス・リプトンさんの歴史も念頭に入れるとより旅行が楽しめるかも知れません。

さて、長々とした文章ですが。いい暇つぶしになったでしょうか?

楽しんでもらえたら幸いです。

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2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

コメント日が  古い順  |   新しい順
頑張れ! (crescent1966)
2012-06-08 23:24:10
怪談話を通してここに来ましたが、博学ですね。すごく楽しい。これからも頑張って。
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頑張れ! (crescent1966)
2012-06-08 23:24:38
怪談話を通してここに来ましたが、博学ですね。すごく楽しい。これからも頑張って。
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