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映画はもはや「大衆娯楽」ではない

2010-02-13 13:24:06 | 日記
このように書くと、すぐに「エリート主義」ではないかと批判されそうである。
私は別に、日本国内の観客がせいぜい数千人しかいないようなヨーロッパの作家映画を持ち出す気はない。

単純に、事実を述べたいだけなのだ。
『アバター』を喜んで見る観客と、『チェンジリング』や『グラン・トリノ』に感動する観客と、『トランスフォーマー』を高く評価する観客、『ジュノ』のヒロインに共感する観客の間には、実際、ほとんど嗜好の共通点はない。
日本政府が映画をさしおいて「振興」しようとしている「オタク」向け商品であるアニメーション(日本製アニメーションの全てではないが、産業としては30代までの独身男性がほとんどを占める「オタク」層に依存している)の愛好家に至っては、まさに「ニッチ」である。
だが、上記の諸作品は、実際には程度の差はあれ、全て「ニッチ」商品ではないか。

50歳以上の観客や10歳以下の観客のほとんどは、『アバター』を見たいと思うまい。イーストウッドのファンは『ジュノ』に感動しないだろうし、広告を見ても劇場で見ようとは思うまい。『トランスフォーマー』は25歳以上の観客にとっては耐え難く幼稚であるし、女性観客には全くアピールしまい。
今の映画産業は、黒澤明の『生きる』やヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』のように、男女の別なく幅広い年齢層(10代半ば以上の全て)にアピールし得るような作品をめったに産み出さない。黄金時代の終わり、ネット環境の普及、その他様々な原因が考えられるが、事実は事実である。

そもそも、「大衆」の概念自体が「少数派」の存在を無視した、ある種の無意識的集団主義に基づいている。映画やテレビが主導的で安価な娯楽であり巨大文化産業であった時代の、幻想の一つである。その時代は、少なくとも10年前までには終わった。

高速インターネットが普及し、音楽や動く映像の非常に安価な或いは無料の全世界向け発信が実現してしまった現在、どのような内容・形式の作品であっても大抵はその積極的な鑑賞者をすぐに見出すことができる。インディペンデント作品であろうが、外国の作品であろうが、無関係に、である。
ただ、映画の場合には劇場公開を前提にした品質が要求され、極めて高額な制作費が必要とされる点が、他のコンテンツと決定的に異なるのである。そして、劇場公開を前提とするほど高品質なコンテンツであるからこそ、映画であるというだけで鑑賞者の数はそれなりに保証されるのである。

従って、「映画は大衆娯楽だから、芸術として振興する必要はない」という考え方はもはや成立しない。また、「国民への利益の還元という意味では、少数の観客しかいない芸術的作品への助成は好ましくない」という考え方も成立しない。
事実としてもはや「大衆娯楽」ではない映画は、存続のために何らかの助成を必要とする。また、世界中で「ニッチ」商品として鑑賞されている映画の現状においては、「少数の観客しかいない」という批判は、個々の作品に関する具体的な鑑賞者の数字なしには説得力を持たないのである。まだ制作されていないあれこれの作品に少数の観客しかいないかどうか、誰にも分かるはずがないのだ。

国が映画を振興する必要があるのは、既に映画が、かつてのオペラと同じように非効率的な文化的商品になりつつあり、その原因が既に述べたように「大衆娯楽」的な存在でなくなったことにある。
オペラも最初はブルジョワの娯楽であったが、今の欧米で芸術として「助成」を受けてようやく存続している。オペラと違って、映画の場合はまだ観客はそれなりに多く、その分、入場料が安く設定されている。それでも主要な映画製作国は何らかの形で映画を助成している。
何故なら、オペラ並みの経済的な非効率商品になってしまえば、単に国庫を圧迫するだけだからだ。映画は物理的には容易に輸出が可能であり、観客の多さから文化的商品としてのポテンシャルもまだ高い。

いずれにせよ、スタジオシステム全盛期の「映画は大衆娯楽」という先入観とは決別する必要がある。
観客はもはや「大衆」としては存在していないし(それは情報が国境を越えて迅速に伝達されることとも関係があるが)、映画に対する嗜好は非常に多様なものになっている。その需要に対して採るべき戦略は、食品や自動車の生産におけるそれとはわけが違う。
観客はある作品のあらすじや映像スタイルや設定に魅力を感じるから、見ようという気になる。そして常に何か新しいものをそこに求める。更には、俳優の演技や映像の品質や演出さえも評価される。それが現代の映画を取り巻く現実である。

便利さや、単純な快楽や、ブランド性が求められているわけではないのだ。
これを個別的多様性を持つ「文化」「芸術」として論じ、そのようなものとして振興することに一体何の問題があるのか?