モノと心の独り言

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意識社会、団塊の意識の置きどころ

2006-03-04 09:53:32 | 基本的なコト
「古代・封建時代」、「市場・生産時代」に比して
「意識時代」ということを、考えたことがあった。
「意識時代」のための団塊の途中下車



その中の意識時代を、
意識社会として書き直すと、この図のようになる。

個人は、緩やかな意識のまとまりで、
その個人的な意識が、夫婦・家族などの領域で、
社会的な意識が、生産関係にあった。

社会が成熟すると、
個人的な興味から広がる関心関係、
社会生産関係から広がる社会関係が、
領域として広がってゆく。
また、少子・高齢化の中、
養育・学習・介護が
家族から外の領域に膨らんでゆく。

個人の意識も言葉も、孤立して存在するわけではなく、
それぞれの対象との関係の中で現れ、使われてゆく。
それは、
特定の家族や組織に固定されたものではなく、
その時々に関わる対象と共有し、共感されるときに確かめられる。

意識社会とは、
ちょうど、こんな図のような
感性・メタファー・言葉の関係にいる社会ではないか?

50歳も過ぎれば、いろいろな体験が山済みだ。
いろいろな場面は、分野・組織・地域に分かれ、
公私の区別で割り切ってきた。
しかし、ふとことごとを想い出せば、
私個人の中にあるのではなく
全て何らかのつながりを持って、
相手や対象との手がかりの中にある。

私自身は、その対象の一部として、
支えられているにすぎない。

そこで、対象と自身との関係を
裏付けて深化させてゆく手がかりが必要になる。
それが、コミュニケーションのいろいろな手練・手管なのだ。

次回には、ネットワーク社会での手練手管を考える。


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