わたしんちの医学革命と雑多な情報

「医学革命」とは薬からの解放への「個人の気づき」の事である。雑多な情報も「取捨選択」&「鵜呑み厳禁」はセルフサービスにて

医学革命の書  「毒素とは何か」

2009年04月25日 | 医学と健康
最近になってようやく「毒素」とか「毒だし」とかの言葉を聞くようになったのですが、岡田茂吉論文執筆時代、当時もそうですが、僕がこれを教えられた頃はこんな単語を吐くとおかしな目で見られたものです。

それが今やこんな言葉を頻繁に見かけたり聞いたりするような時代になりました。
医師でさえも「薬が毒だ」と公言する時代です。

まったく長くかかったわけです。
この論文は昭和28年だったということですが、本当は既に昭和10年頃の同様な論文が残されているわけで、事実上は昭和の初期にこの様な説が説かれたそうです。

すると、半世紀どころか一世紀近くかかって、ようやく人類がそれを認識できるほど深く染みこんでしまった医学の呪縛なのでしょう。

毒素排泄が病気の正体だとしたら、そのきっかけになるのは心の問題が関わってくるという話は岡田論と最近の病気ストレス論を合わせて考える必要があります。

ストレスとは魂の目的と顕在意識のズレからくる不調和状態にありそうですが、単に生活上の心身の苦痛を言うのではなく、「受け取りかた」にあるそうです。

おなじ体内毒素の排泄作用、浄化作用が起こりえる条件を持っていても、発症する機会、時期はそれぞれその人の心の状態にあるとしたら、浄化の原理原則は岡田論で学びつつ、心と病気の関係は最近の「心と身体の関係論」を学ぶという様に、ひとつの論だけでなく、総合的に考える時代なのでしょうか。


癌と心の関係は土橋シゲタカ(でしたか?)医師の本などもありますが、松尾みどりさんのお話テープを聴くと、より深く解説されています。


原理原則は病気は浄化作用。薬は毒作用で病気の素になる。そして、その浄化作用のきっかけを作るのは自分の心の状態がかなり関係している。

このように考えると、どんな素晴らしい治療法であっても、心の問題を無視していると根本的な癒やしにならない。どこかに不調和状態のものが残っているゆえに、いずれはまた浄化の機会を魂が作るだろう。

こんな風に考えたら、最近の浄霊医術とこの岡田茂吉時代の浄霊医術の効果の差があって当たり前なのかも知れません。

というのは、むやみやたらに奇跡的治療を行うのは良いが、心の奥の問題を抜きにして「一種の強制的治病」は魂にとっては「迷惑な奇跡」として受け取られるのかと思ったわけです。

しかし、この原則を知っての浄霊医術は自分で出来るし、まったくタダで各家庭で行える癒やしの方法のひとつとして有力な味方になるのではないか。



それはもう、宗教という垣根をはらって各自が癒やしの中心的存在であるという認識が芽生えるきっかけになるとしたら、浄霊医術の方法は心の問題解決とあわせて効用できるものの一つになるでしょう・・・か?

自己治癒のための力強い味方、手助けとしての浄霊医術法はまだまだ捨てたもんじゃないと思うこのごろです。

しかし、それは宗教とは別にしてと思うのは、宗教自体が「内なる神」から離れさせてしまう教義が中心になっているからです。

精神性の束縛と人間の自由意志の関係を宗教自体がある種の呪縛状態にしてしまう。依存性を増やす事は宇宙の法則に違反すると聞きました。

神に繋がるというのは外への依存ではなく、内なる神へ繋がるというのが真実のようですから。

関係ない前書き書いてしまって、またまた実生活と正反対の偉そうなことを書いてしまいましたが、それでも「私は神」と。

もちろん、「あなたも神」ですから、文句あるか!?(笑い)





ーーーーーーーー以下引用ーーーーーーーーーーーーーー

毒素とは何か

『医学革命の書』
昭和28(1953)年執筆

 病気の原因は体内に溜った薬毒の固結が、溶解排除される苦痛である事と、医学はその苦痛を逆解し、溶けようとする毒素を固める事であるが、それには毒を体内に入れて弱らす事である。

というのは毒素排除すなわち浄化作用なるものは、人間が健康であればある程旺盛なものであるからである。そこで浄化作用を停止する事で、それには健康を弱らす事である。

その理を知らない人間は、昔からその毒を探し求め飲ませたところ、からだが弱り、浄化が弱り、苦痛が軽減したのでそれで治ると思い、有難いものとして薬と名付け、病気の場合これを唯一のものとして用いたのである。

これについて有名な漢〔蘭〕方の名医杉田玄白のいった事は、「薬は毒である。治病に薬を飲ませるのは、毒をもって毒を制するのだ」との言葉は至言である。

ただいささか徹底しない点は、毒をもって毒を出さないようにするといった方がなおハッキリする。この理によって毒の排除を止めるに毒をもってする以上、古い毒素の上に新しい毒素を追加するので、古い毒の固りの外に新しい毒の固りが増えるから、最初より浄化が悪性となる。

それに対しまた新しい毒を入れるから、段々毒が増えてゆき、からだは弱る上に弱るので、浄化の力も弱くなる。こうなった人は顔色悪く、風邪引き易く、元気なく、常に医者と薬に浸りきりになり、生ける屍のごとくなって、年が年中苦しみ通しであって、一人前の仕事など到底出来ない哀れな者である。


しかもそうなってもその原因が分らないから、相変らず次から次へ医師を取換え、新薬を探し求め、灸や禁厭(まじない)、民間療法、信仰等に遍歴しているが、それでも根本が分らないため、散々金を使った揚句(あげく)、苦しみながらあの世行となるので、この因はといえば医学の誤りであるから、この罪悪こそ驚くべく恐るべきもので、結果からいえば医学は悲劇の製造元であるといってもいい。



 このように私は思い切って赤裸々にかいたが、これを読んだ医学関係者は何と思うであろう。中には憤慨する者もあるであろうが、全人類救済上止む事を得ないので、小の虫を殺して大の虫を助ける訳であって、これこそ神の大愛によるのであるから、むしろその恩恵に感謝すべきである。その結果病なき人間が増えるとしたら、この世界はどうなるであろうか。

今までの地獄世界は一転して、地上天国、極楽世界となるのは必然で、想像するだに歓喜幸福の希望が湧くであろう。

-----------------------以上引用終わり--------------------------------

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 医学革命の書  「固め方法... | トップ | 医学革命の書「現代文化とは」 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

医学と健康」カテゴリの最新記事