新 ノ 城  Okinawa

おきなわを サラ・さらっと 視る

  

門中 【2】

2018年01月15日 00時05分20秒 | 日記

 門中(むんちゅう)とは、一族・一門のことで

同じ始祖をもつ、男性血筋(父系血縁)だけを記述され

 

婚族は配偶者のみを記入するのが「門中系図」である

親・兄弟・叔父・叔母などは記入されない

 

この血縁集団は永遠に死んでも門中の一員である

同じ始祖を敬い強く意識し

強い繫がりで結びついている

 

父系血縁を厳格に尊守され

実子であっても女性は不適各とされ

 

父系縁者の兄弟の二男か三男を養子に迎え

父系血筋を守っている

 

門中は共同の墓を持ち

通年ごとに祭祀が行われている

 

春のシーミ(清明祭)には

一門揃って始祖の墓前に参り

 

祭祀を通して、門中の一員として

自覚し、絆を深めている

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門中 【1】

2018年01月10日 00時02分39秒 | 日記

 琉球国の行政最高位、摂政(1666~1673年)に

羽地朝秀(1617~1675年)が就任する

 

薩摩藩の侵攻以来、疲弊していた国を立て直すため

行政機能の強化・地方制度改革・政教分離など

数々の政治改革を断行し、国を立て直すのに成功する

 

尚真王(1477~1526年)の時代には

ゆるやかな、身分制度は形づくられていたが

 

1670年頃から、系図・家譜の編纂を

羽地朝秀によって行われ、士族・平民と明確に区別する

身分制度化する改革が行われた

 

王府に系図座という戸籍を管理する、系図座を設けれ

全ての士族に、系図を作らせ提出させた

 

一冊は王府の系図座・一冊は王府の頒賜認定を示す

御朱印を押された後に各家庭で保管し

五年に一度追加編集を行い大切に保管された

 

その頃、門中が出来、家譜(系図)が作られた

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沖縄の仏教 【33】

2018年01月05日 00時03分08秒 | 日記

 沖縄は薩摩藩の間接支配の中、幕藩体制のまま

明治時代を迎え、王制を解体し琉球藩

そして沖縄県へと日本国家体制へ統合された

 

1910年沖縄県諸禄処分法案が施行された

王府の庇護を受けていた、仏教界は

一転して自立的な維持運営を迫られた

 

檀家制度を持たない寺院は困窮状態におち入り

多くの寺院は廃寺と成っていった

 

そして太平洋戦争で30余りあった寺院はほとんどが

全焼し多くの僧侶も戦死したと言われている

 

現在ある寺院は戦後建立されたものである

 

現在の沖縄県の仏教寺院は、85寺

信者数は、46.093人と言われている

 

ちなみに日本全体の寺院数は約77.232寺で

信者数は、88.719.287人(2016年)

(この数字は宗教団体の自己報告に基づいて作成されている)

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謹賀新年

2018年01月01日 01時06分04秒 | 日記

    謹んで迎春のお喜び申し上げます

   皆様には実りある一年と成りますように

      心からお祈り申し上げます


 

 

      今年もこのブログへの訪問お待ちしております

          

 

       今年も毎月、1日・5日・10日・15日・20日・25日に投稿予定しています

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沖縄の仏教 【32】

2017年12月25日 00時06分48秒 | 日記

 僧侶は修行仏学や法学を学ぶため、京都や鎌倉などので

当時の最先端の学問を学び身に付けていた

 

僧侶は高い学識があり和漢の兵書も知り

そのため国の貿易・外交官の役割を果たし

政治に関与して、王府も僧侶を重要しした

 

ところが薩摩藩が沖縄を支配し那覇に薩摩藩の

在蕃奉行所が置かれ、約二十人が在勤していた

 

薩摩と王府は直接役人が交渉を行うようになり

仏教界は政治、貿易などの国政に参加する機会を失っていく

 

そのような状況の中で僧侶は

王族の祖霊祭祀、菩提の弔い

国民の安泰の祈願などの神事、祭祀、行事などを行っていた

 

また、その頃から日本文化が入り盛んに成り

それに伴い官使の子弟への、仮名文字

漢字の読み書きなどの教育を行うようになる

 

また、官使に成るために必須であった

茶道・華道・書道など教養として教え

士族層との、深い関わりがあったため

僧侶は非常に尊敬を集めた

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沖縄の仏教 【31】

2017年12月20日 00時04分57秒 | 日記

 1609年薩摩藩が沖縄に侵攻し、その支配下に置かれた結果

浄土真宗を禁教とし、他の宗派も制限された

 

集会を開いての説法・俗家の訪問・修行・留学などの制限

寺院の新築、保修などの自由が制限された

また僧侶の活動も著しく制限された

 

薩摩藩の侵攻後、琉球国の財政は破綻した状態だった

それまでの沖縄仏教界は官寺であり官僧であった

 

寺院毎に知行高や扶持高が決められ

公費で保障された官寺制度であった

 

そのため僧侶は布教や教化に対して、熱心ではなかった

一般の信者はなく、檀家もなく、財源は王府に依存していたが

 

王府は仏教全体、官寺・官僧への支出を制限し

国家仏教でありながら、そのような状況ではなかった

 

羽地朝秀が、1666年摂政の地位につき政治改革を行う

行政機能強化・財政改革・そして聞得大君を始めとする

神女組織の簡素化・無駄を廃止して改革を行った

これらの政策は仏教も対象になって、知行高を減らされた

 

1728年祭温が三司官になり、羽地朝秀の政策を継続して

ヒキ制度の解体、トキ・ユタの禁止・祭祀、儀礼の見直し

 

寺院を王府の管理下に置き、新たに僧侶の身分制度や

装東の規定、知行高も新たに制定を行った

 

大幅に消滅された、仏教界は財政てきに困窮し

多くの寺院が廃寺となり

沖縄の仏教は加速を増して衰退していった

 

羽地・祭温の政策は仏教の衰退の一因となったと言われている

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沖縄の仏教 【30】

2017年12月15日 00時13分47秒 | 日記

  沖縄へ仏教が伝来して来たのは

英祖王(1260~1300年)の時代

禅鑑(国籍不明)と称する僧に英祖王は禅鑑の

教に尊信し帰依し開基して、極楽寺を建立住居させた

 

琉球国由来記巻の琉球諸寺旧記序に

仏教が伝来したのが始めてであるとしている

 

その後、察渡王(1350~1395年)の時、瀬重法印が来流し

波上山に護国寺を建立し真言宗を始めて伝えたとしている

 

尚泰久王(1454~1460年)の時

芥隠承虓が臨済宗を始めて伝える

 

日秀上人は(1527~1545年)沖縄に18年滞在し

熊野信仰と真言宗を広め、多数の寺院を建立

日秀の伝承と功績、石碑が残されている

 

袋中良定(1603~1606年)は3年沖縄に滞在し

桂林寺を建立し始めて浄土宗を伝えた

 

琉球神道記5巻・琉球往来記1巻を著わし

沖縄に大きな足跡を残している

 

尚泰久王時代から多くの寺院が建立され

尚真王(1477~1526年)の時代までに多くの僧侶が

来流し寺院も建立された

 

王府の庇護の元、国家仏教として

沖縄の歴史上最も仏教が栄えた時期と成ったと言われている

 

その頃の僧侶は修行・仏学のため自由に日本に往来することが出来

沖縄出身の修行僧も多数京都と鎌倉の足利学校に行へ行っている

 

また、当時の僧侶は教養があり、社会的地位も高く

貿易・外交官の役割を果たし、政治へも関与し

王府より重要視された

 

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沖縄の仏教 【29】

2017年12月10日 00時02分44秒 | 日記

 南陽紹弘

南陽紹弘は臨済宗妙心寺派の教を広く沖縄に伝えた

信仰者として実践活動して、生き仏と称された

俗に北谷長老とも呼ばれた

 

南陽紹弘は北谷玉寄席村(現北谷町)に生まれ

十三歳の頃に出家し、十九歳の時

日本に渡り幾多の寺院で修行した

 

三十五歳頃、睦奥国松島(宮城県)の瑞厳寺で

約四年仏学・修行を行い臨済宗妙心寺派の嶺南崇六より

仏法の奥義を受け継いだ

 

沖縄に帰国後建善寺(首里)の住持となるが

数年後、住職を辞して

 

故郷の北谷玉寄村に、隠棲し村人の求めに応じ

病のある人々には祈祷してあげ、求めるお札をあげ

 

また、田畑が害虫に悩んでいるとき、徐去のお札をあげ

祈ると村人の求める通りに成ったという

 

南陽は、生き仏として崇め

親しみを込めて、北谷長老と呼んだ

 

南陽紹弘は、1651年11月5日の遷化した

北谷東のむい(丘)の所に葬られている

 

毎年3月3日に墓前祭りが、村人が集って行われている

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沖縄の仏教 【28】

2017年12月05日 00時05分46秒 | 日記

  備瀬知恒とは

1854年禁制の浄土真宗を信仰し布教した事で

検挙され石垣島へ終身流刑となった仲尾次政隆の後を継いで

 

浄土真宗を信仰・布教し王府に発覚し検挙され

備瀬知恒も、石垣島へ10年の流刑となった

 

仲尾次事件から、22年後、1876年10月の事である

備瀬知恒は那覇東村の出身」で浄土宗の熱心な信者で

仲尾次の布教によって帰依したと云われている

 

仲尾次事件の時は奄美大島に滞在していたと言う

1861年頃帰郷し布教を再開した

 

中山国尼講と称する信徒達の(主に遊女)を中心に組織されていた

しかし急激に信徒が増えたことが災いし布教が発覚した

 

1877年10月に、備瀬以下300人以上が検挙され処罰された

備瀬は中心人物として、石垣島へ、10年の流刑となった

 

1877年石垣島へ送られる途中、難船し殉教した

備瀬知恒、亭年59歳であった

 

沖縄の浄土真宗は、1597年に薩摩藩によって禁制となり

激しい弾圧を受けた

 

1876年(明治9年)に禁制が廃止され、実に300年に渡り続いた

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沖縄の仏教 【27】

2017年12月01日 00時18分35秒 | 日記

  仲尾次政隆 <5>

政隆の尽力によって宮良橋は完成した

その時、島民は喜び盛隆を称え謠を作った

 

 仲尾次主(シュー)ヌウ陰(カギ)ニ ~ 仲尾次様のお陰で

 宮良(メーラ)大川(ウーガー)ヤ  ~ 宮良大川に

 宝橋カキティ            ~ 宝のような橋が出来

 見事(ミグトゥ)デムヌ       ~ 見事なようすです

 宝橋上(ウイ)カラ         ~ 宝の橋の上から

 通(カ)ユルヒトゥヤ        ~ 通う人々は

 眼眉(ミマユ)打チ張(ハ)リティ  ~ 目眉が生き生きとして

 笑(ワラ)イフクイ         ~ 笑顔に満ちている

   以下略する      

また、頌徳碑と言う石碑も建っている

 

隆盛の赦免運動を官民上げて行い、嘆願書を王府に提出され

終身流刑だったが、1865年に放免となった

 

実に11年の流刑で那覇泉崎に戻り

政隆は6年後1871年7月8日、65歳で永眠する

 

仲尾次政隆は信仰に基づく実績と活動は評価される

無期流刑の中にあっても、信仰は深められ

 

信仰者として社会実践は奇跡であると

伊波普猷は著書の中で述べている

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沖縄の仏教 【26】

2017年11月25日 00時01分27秒 | 日記

  仲尾次政隆 <4>

八重山諸島石垣島に宮良節と言う民謡がある

政隆が流刑となり石垣島に居していた時に

宮良橋の建設に尽力をつくした功績を称え作られた歌であると言う

 

宮良川(めーらかーら)は石垣島最大の河川である

この河川に初めて橋が架けられたのは、1658年である

 

宮良橋は東西を結ぶ、島民にとっては重要な橋であったが

災害(主に台風)のために何度も破壊され

その度に修理や掛け替えが繰り返さてきた

 

1771年八重山地震による明和大津波によって宮良橋は破壊された

その後、橋は架けられることなく、島民は干潮時を待って歩いて渡り

満潮時には渡船を利用し、不便を余儀なくされていた

橋は90年間再建されなかった

 

1860年に百二石余りの建設費をかけて、工事が始まる

その時流刑で前栄里に居していた

政隆は私財を投じて中心的な役割を果たした

 

長さ約135メートル・幅3.6メートル・高さやく4.2メートルの

木の橋が、1861年に完成したがその翌年台風によって破壊されたが

政隆は再度私財を投じて橋を復興させた

 

人々は橋の完成を喜び

民謡、宮良節を作り、盛隆を称えた

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沖縄の仏教 【25】

2017年11月20日 00時02分21秒 | 日記

 仲尾次政隆 <3>

政隆は禁教の浄土宗を布教したと言う理由で

石垣島へ終身流刑となった

 

政隆が記した、配流日記に石垣島に行く前に

座間味島に一年半ほど滞在し

1856年11月に息子と二人の共が同行して

流刑地石垣島に12月1日真泊に入港したと記されている

 

石垣島での生活は拘束もなく

妻を得て子供を儲け、船を持ち貿易・事業などに従事して

流刑人とはおもえない自由な生活をしている

 

石垣島で11年間の記録を記した配流日記に

島での出来事を詳細に記述されている

 

日記の中に島の生活で詠んだ

和歌542首、126首の琉歌が記されている

 

石垣島では、和歌・琉歌の関心は高く

政隆は島の知識人や僧侶・上級役人などとの和歌、琉歌を

通して交流を持ち人間関係を深めていった

 

仲尾次政隆は自身の資産だけを増やすことなく

以前から、王府へ台風や干ばつ(2回)や

王子らが薩摩へ行く旅費、また徳川将軍の即位に行く旅費

学校の建設費などの多額を献上し、無利息の貨与などもしている

 

中村家・政隆は信仰者として社会に貢献し還元している

仲尾次家の家譜に記述されている

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沖縄の仏教 【24】

2017年11月15日 00時02分08秒 | 日記

 仲尾次政隆 <2>

中村宇兵衛は、貿易船を所有し

琉球から薩摩へ貢納米運送、貿易などで財を成した

 

中村家の三男として生まれた、政隆は勉学に努め

今帰仁の間切りの地頭・那覇総横目・那覇船改め奉行などの

要職を務め、仲尾次親雲上(ペークミー)政隆と称していた

 

また当時の士族として、高い教養を身に付けた政隆であった

歌人の宜野湾朝保から和歌を学び

書は久米村の儀間より

弓は三司官の小禄親方から

鉢は村山鍛三に学び

ほかにも人相学・医術・風水・土木・生け花

茶など学んだと言われている

 

薩摩で禁制していた、キリスト教、浄土宗を

琉球侵攻(1609年)後、支配していた

琉球においても禁制にした

 

禁教の浄土宗の一信徒であったが

本願寺から了覚と言う法名与えられ

その熱心さから布教し続けていた

 

特に遊女に布教していた、その実は大きく三百人を

超える信者が帰依し目立つようになり、拠点を自宅に移し

中山子尼講社と称する講社を結成し活動するが、王府に発覚し

 

詮議の結果、石垣島へ、無期の流刑となった

仲尾次政隆45歳の頃と言われている

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沖縄の仏教 【23」

2017年11月10日 00時02分23秒 | 日記

  仲尾次盛隆 <1>

仲尾次盛隆とは、伊波譜猷の著書(1926年)

真宗沖縄開教前史―仲尾次政隆と其の背景で

仲尾次盛隆の生涯と

禁教浄土真宗の信仰に基づく実践とその活動が記されている

 

また知名定寛の琉球仏教史の研究(2008年)で

仲尾次は沖縄の浄土宗真宗にとって

極めて重要な役割を果たした人物で

沖縄仏教史の中でよく名が知られた人物として紹介している

 

仲尾次は那覇泉崎で1810年、士族の家で生まれる

仲尾次の家系は、京都の中村氏で五大前の中村孫之極にいたり

彼の孫の代に薩摩、久志浦に移住し

そこで生まれたのが仲尾次の父中村宇兵衛である

 

宇兵衛は交易船を所有して

沖縄を始め諸藩との貿易・運送に従事し

財を成し、那覇泉崎に居を構えた

 

中村宇兵衛は、久志浦に妻子がいたが、琉球においても

久米村の思加那を妻に迎え

政栄・正明・政隆・政根・政記と五人の子供を儲ける

 

中村家は代々浄土真宗を信仰していた

政隆は、正光寺の住職八木正蔵に儀式の手順など多くの教を受け

交換した複数の書簡がある、伊波も書簡の事を記述している

 

政隆は、八木正蔵の推挙により本山・本願寺から

了覚と言う法名を与えられている

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沖縄の仏教 【22】

2017年11月05日 04時40分55秒 | 日記

  菊隠宗意 <5>

尚寧王一行は、将軍秀忠に謁見のため江戸に

菊隠も同行した、1610年8月28日の事である

 

そのとき薩摩藩は幕府から琉球の支配権と

奄美諸島を割譲し直轄領地として承認を得た

 

その道中摂政具志上王子が病死している

(静岡市清水区清見寺に葬られている)

 

1611年薩摩から「琉球は古来より薩摩藩の付属国である」と

記述された起請文書に、署名を要求され尚寧王と三司官は受け入れ

拒んだ三司官の一人謝名利山は斬首された

 

薩摩藩の支配は明治維新まで、二百七十年続くことになった

 

また貿易管轄権などの「掟十五条」を認めさせられ

琉球の貿易は薩摩藩が握るようになった

こうして間接支配するようになり、年貢の上納・貿易の統制

そして江戸上がりなどの義務を負うことになった

 

琉球国は対外的には独立した王国として存在するようになった

尚寧王一行は、1611年8月まで薩摩に滞在した

 

三年後に帰国した菊隠は、国難のときに対する功績により

大里間切を給地され、その地に西来院を建立し

開山祖菊隠西来和尚と称された

 

僧侶にもかかわらず、摂政同格の加判役

王子の位も与えられ、そして琉陽国師の称号も賜った

 

菊隠宗意は老いのため、三司官・諸々役職を辞し

隠居、隠居寺の料として知行高四百斛を与えられる

 

1620年8月7日に菊隠宗意は示寂した

墓は現在も西来院に現存する

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