怒りのブログ

社会批判を深める

過去の問題ではない「慰安婦」問題

2008-01-31 03:56:23 | 戦争と平和

1/26神奈川県平和委員会主催の2008年新春平和学校というのに行ってきた。
関東学院大学の林博史教授が「アジアとの共生をめざして-なぜ今日本軍「慰安婦」問題なのか」という題で講演された。林博史氏は沖縄戦での集団自決に軍の強制が削除された教科書問題の時にテレビにも出演されていて知っていたので、今回話を聞いてみようと思ったのだったが、1時間半の講演は飽きさせず、感銘を受けた。単に日本軍慰安婦問題をめぐる論争点にコメントするのではなく、戦時性暴力というものがどのように問題になってきたかという大きな視点での話が印象的だった。

以下講演で印象に残った事を記す(一部はレジュメから引き写し)。
安倍元首相は日本軍「慰安婦」について「官憲が家に押し入って人さらいのごとく連れて行くという強制性はなかった」としたが、そもそも強制的に連れて行く場合でも、多くの場合はじめは甘言で誘ったりして逃げられなくなってから暴力を使用する場合が多く、安倍氏の言い方に従えば北朝鮮の拉致だって強制ではなくなってしまう。

戦時の内務省の文書には「南支派遣軍の慰安所設置のため必要に付醜業を目的とする婦女・・・を渡航せしむる」などの記述があり、それらは「極秘に・・・之を取扱う」こととされ、「何処迄も経営者の自発的希望に基づく様取り運」ぶようにすることが徹底されていて、軍や行政・警察の責任を回避するように配慮されていた。その背景には当時の日本においても公娼制が当たり前ではなく廃娼県が14県、石川県では「事実上の奴隷制度」などとされていたことがあった。

それでも日本軍が組織的に慰安所をつくったのには、強姦予防、性病予防、ストレス解消、機密保持などがあり、さらに日本軍が外国の軍隊と比べても休み無しに戦場にかり出され、侵略性が強かったことが要因となった。

最近でも従軍慰安婦を当然視するような発言をする政治家がいるが、その背景には日本の後進性がある。米国務省の2007年の「人身売買に関する報告書」では世界の142の国・地域を、TIER1(基準を満たす)、TIER2(基準は満たさないが努力中)、TIER2・監視対象国、TIER3(基準を満たさず努力も不足)という区分に分類している。2004年報告で日本は監視対象国とされ、2005年にあわてて人身売買禁止議定書を批准し、刑法に人身売買罪を新設した。また買春情報が載ったタブロイド新聞を電車で堂々と読み、アダルトビデオが普通に置いてある日本は欧米から見たら異常であると考えるべき。

戦場において慰安所は地元女性への強姦を決して防がず、逆に性暴力を拡大、誘発した。統制された慰安所以外に統制されない慰安所ができ、さらに強姦すればタダという状態があった。

否定論者は元慰安婦が金ほしさに嘘を証言などと攻撃するが、沖縄戦での集団自決でも、援護の金ほしさに軍命令をでっち上げたという言い方をする。彼らには被害者・住民の証言は信用しない、「権力者が語ったことが真実」という考え方がある。

世界的には1990年代から、戦争被害に対して国家間の賠償問題に解消するのではなく、女性の人権、人間の尊厳の回復の問題ととらえ直す動きが出てきたことを見る必要がある。
ユーゴ紛争で戦時性暴力が問題になったことなどがきっかけになり、2000年10月の安保理決議1325号では「すべての国家には、ジェノサイド、人道に対する罪、性的その他の女性・少女に対する暴力を含む戦争犯罪の責任者への不処罰を断ち切り、訴追する責任があることを強調する。」とされた。ここには、現在なお世界各地で起きている組織的な戦時性暴力をいかに防ぎ、解決するのか、という問題意識、さらに、現在の人身売買・様々な性暴力をいかにしてなくすのか、という問題意識がある。
この流れの上に、2007年7月30日アメリカ議会下院で従軍慰安婦問題で日本に公式な謝罪を求めるなどとした決議がある。
ハイド元下院国際関係委員会議長は「慰安婦」決議採択にあたっての声明で、「女性や子どもを戦場での搾取から守ることは、単に遠い昔の第二次大戦時の問題ではありません。それはダルフールで今まさに起こっているような悲劇的状況に関する問題です。『慰安婦』は、戦場で傷つくすべての女性を象徴するようになったのです。」と言っている。
現在日本では「新しい教科書をつくる会」などが南京大虐殺、沖縄戦での集団自決の日本軍強制、日本軍「慰安婦」問題などを、過去の日本が引き起こした戦争の醜さをことさらに強調するものとして否定するのに躍起になっているが、これらの動きは単に日本軍の行ったことを美化するだけでなく、世界的な認識の深まりに反するものだといえる。

最大の「偽」は米軍支援

2008-01-11 01:25:56 | 戦争と平和
昨年の漢字に「偽」が選ばれたことに多くの国民が納得したところだが、私は事が国の防衛問題だけに、最大の「偽」はテロ特措法を巡っての国会論戦で明らかになった政府の米軍支援の実態だと考える。

思えば昨年10月、あの鉄面皮の石破防衛相が国会での答弁で、インド洋上で海自補給艦が米補給艦に給油した燃料の供与を受けた空母キティホークが翌日にペルシャ湾に入っていたことを認めたのに、民主党菅氏が空母がイラク作戦に従事したのではないかとただすと、イラク作戦への燃料転用を否定するということがあった。ペルシャ湾に入りながらすぐ近くのイラクへの作戦に従事していなかったという不自然さに多くの国民は「偽」を感じた。
同日、高村外相は自衛隊が給油した米軍などの艦船がアフガニスタンへの空爆やミサイル攻撃にも参加していたことを認める一方、新テロ特措法では「海上阻止行動にだけの補給をする」「(空爆やミサイル攻撃をする艦船への支援は)新法では許されない」と答弁した。
一方米国防総省は声明を発表し、油の使途をたどることは複雑な作業だとし、①海上自衛隊から提供された油は別のタンクに貯蔵されるわけではない②他の補給艦を経由した場合にはさらに複雑になる③(米海軍の)艦船は複数の任務を帯びることもある、と説明し、高村外相の言明が幻想にすぎないことを明らかにした。

最近でも共産党の井上氏が米軍に軍事掃討作戦の中止を求めるように迫ったのに対し、「空爆の被害、ましてや誤爆などあってはならない」と述べる一方、「ならば、米軍にどのような働きかけをしているのか」と迫られると、「当事者ではないわれわれが口を出すことではない」と答弁したという(しんぶん赤旗07年12/21)。要するに国際的要請だとかいいながら、事実上無条件で米軍などの艦船に給油をしながら、その米軍が何をしようと関係ないと言っていることになる。ここに米軍と一体となって作戦に従事しつつある自衛隊の最大の問題点があるのではないか。

朝鮮戦争からベトナム戦争、最近ではイラク戦争まで日本の米軍基地はアメリカが行う戦争の「浮沈空母」(昔中曽根元首相がこう言っていた!)として機能してきた。今国会では自衛隊のシビリアンコントロールが問題になったが、自衛隊がいったん米軍との共同作戦、米軍支援に踏み込んだ瞬間からシビリアンコントロールなどは画餅と化してしまう。

石破防衛相がシビリアンコントロールが機能していると言い張るのなら、5兆円の軍事費の最後の1円まで、日本の「防衛」のために機能していることを説明しろと言いたい。もちろん「米軍を信頼して」などの言葉なしにである。

このことで同じく昨年の出来事で印象的だったのは、
米海軍の原子力艦船が日本に寄港した際、軍事機密を理由に大気中の放射能の増加の有無を確認する空中モニタリング(監視)を五十メートル以内で行わないとの密約を日米両政府が結んでいたことが、国際問題研究者の新原昭治氏が米国で入手した米政府解禁文書で明らかになりました。
というしんぶん赤旗10/9の報道だ。この種の密約はいくつか明らかになっているが、驚いたのは日本政府と米軍とが日本国民からの反発をおそれて交渉していた経過が明らかになったことだ。解禁文書には密約がばれた場合に備え、日本政府が「日本の主権的権利を放棄したわけではない」と国民向けに見せかけることができるよう、周到な文言を追い求めたために、交渉が23ヶ月にも及んだということが書かれているという。

このような日米同盟の実態がわかってみれば、先の石破防衛相、高村外相などの発言もアメリカに追従する政府の実態を隠して、確信犯的に言い逃れていることが見えてくる。
新テロ特措法は昨日参院委員会で否決され、衆院で再議決される局面となっているが、問題はここで終わらない。さらに民主党を巻き込み恒久法づくりがねらわれているからだ。そうなれば、解釈改憲はさらに極まることになる。今年も言葉によるたたかいに微力ながら加わっていきたい。

「政治と言葉」と言えば、朝日新聞1/10付けで池沢夏樹氏が「コピーの文体を追い出せ」としてこの名のコラムを書いている。ここ何十年かの間に日本語の性格が大きく変わった、とし、新聞の広告、テレビのコマーシャル、街路に出れば無数の看板とポスター、商品に直接書かれた説明文、これらコピーがごく普通の日本人にとっての言葉になってしまっているという。
これが今のわれわれの言語生活である。ある程度の嘘を含み、大袈裟で、見た目には派手で魅力だけれど、しかし信用のならない言葉。
だとしたら、政治家の言葉に嘘が混じり、誇張が混じり、実態が変わるとさっさと撤回されるのも当然ではないか。
その典型が、「(2008年3月末までに)最後の一人まで年金記録をチェックし、正しく支払う」という去年の参院選の際の公約の撤回を巡る一連の発言だった。
・・・
ではどうすればよいか。
結局は、軽い商品的な言葉に対して、重みのある実質の言葉をぶつけていくしかない。それを重ねて政治家を教育するしかない。
・・・
国の責務の第一は国民の生活を保障することである。その場には「コピー」の文体が入り込む余地はないはずだ。幻想ではなく現実としての政治を奪還しなければならない。