88年11月30日(水)
あれからしばらく落ち着いた生活をしていた。と言っても、おじさん、おばさん達は誰かしらが交代でおじちゃんに付き添ってたけど。自分がお見舞いに行ったのは1.2回だったか。なんだか色々な機械を付けられていて、その機会がキュイーンというとおじちゃんが息を吸って、プシューというとおじちゃんが息を吐いてたのを思い出す。どう見ても、この機械が付いているから呼吸をして、生きているだけで外せばすぐに死んじゃうんだなって事は子供が見ても明白だった。
「悪くなる事はあっても良くなる事はない」お見舞いに言ってる時に担当の先生が言っていた。機械さえ付けてればある程度までは生きているし、外せばその場で終わる。ただ、いつからか頭から能みそが出てきていたらしい。
23時過ぎ、家の電話が鳴った。状況が状況だけに察しはついた。すぐに病院に行く事にしたものの、弟は寝ていて、自分も明日から期末試験。親にどうするか聞かれたけど迷わず一緒に行くことにした。
弟を置いて、家の近くからタクシーで千駄木の病院まで。タクシーの中で流れていた光GENJIの「いつかきっと」がいまだに忘れられない。
病院につき、霊安室へ。中野と足立のおじちゃんがいた。この日の付き添いは足立のおじちゃんだった。
「嫌な時に任されたよ」と言っていた。霊安室の簡単な祭壇の前におじちゃんは寝かされていて、おじちゃん達が布を外して顔を見ていたけどなぜか自分は近くにいかなかった。
おじちゃんを連れて椎名町へ。時間はすでに1時近かったと思う。おじちゃんが入院して以来椎名町には行ってなかったけど、その間わずか10日。でも、なんだかひさしぶりに来た気がした。
葬儀屋さんも一緒だった気がする。お線香を置く台があった記憶があるし。偶然か、おじちゃんはいつもいた場所に寝かされた。しばらくいたけど、あとは中野と足立のおじちゃんに任せて自分達は帰ってきた。
うちに着いたのは2時とか3時だったはず。軽く寝て学校に行く事は可能ながら親は休めばと奨めた。
結局軽くも寝られず朝になり、休もうか休むまいか迷ったものの学校へ行き試験を受けた。
記憶が曖昧ながらこの日通夜、翌日が告別式でおばあちゃんの時と違って学校を休んだのは告別式の日だけ。休んだ日も試験はあったはずだけど、どうしたんだか憶えていない。
再度、親戚一同集まったものの、おばあちゃんの時と違ってなんだか淡々と粛々と葬儀をしていた。近所の目を気にしてたからかもしれないが。短い期間に2度も葬式出してるわけだから。それだけに記憶に残っている事が少ない。出棺の際にレース鳩仲間が鳩を飛ばした事くらいしか思い出せない。あと、最後のお別れでようやくおじちゃんの顔見たけど、最後に鼻から出血したらしく、キレイにしたにも関わらず鼻の近くに血の跡があった。
こうして1ヶ月弱・・・半月というべきか、ようやくすべてが終わった。結果的におばあちゃんは死んでからも生きてる時と同じ環境を作ろうとおじちゃんを連れて行った。
留守中にああなってしまった事をおじちゃんはずっと後悔してたからある意味でこれで良かったのかもしれない。
23年経った今も自分の中では強烈な出来事として残っているわけだけど、当時前線で頑張ってたおじちゃん達はボケてたり、脳梗塞で不自由になってたりでこの事自体記憶から消えていそうだ。
現場となった家もすでにない。
まだ家があった頃、中野のおじちゃんが家を傷ませてはいけないと空気の入れ換えをしに行ってた。
ある時、昼寝をしていると足音がして、目を開けるとお風呂場からおばあちゃんが歩いてきたらしい。
しかし、家がなくなっている今、記憶に残っていながらも諸々の出来事が夢だったように感じる事もある。