疑礙集注(ぎげしっちゅう)

「礙り」を「疑い」、そして「問う」こと。

break not only sanctuary but asylum.

無沙汰

2014-10-24 11:30:54 | Weblog

いやはや(別に鬼籍に列名したわけではないが)1年半余も懈怠してしまった。いくらそれ自体 FREE とはいえ、ブログの表情が見るも無残になるのは心が痛む。

 先週、日曜月曜と学生時代の気の置けない連中12名で、被災地「陸前高田」を見聞してきた。改めて復興の(私の眼には)「遅滞」を再確認できた時間だった。岩手県在住のメンバーの尽力で、震災時県立T病院の院長だったI先生から「被災地域の医療の現状と課題について」1時間弱、プレハブの「復興まちづくり情報館」でお話を伺うことができた。「館」の目の前には「旧道の駅高田松原」が被災時のまま残骸をとどめていた。ダンプ行きかう埃の中で「奇跡の一本松」は27mのその「蘇生」した姿を維持していたが、複雑なものが頭を去来したのも事実だった。くわしくは別の稿で後日触れたいと思う。

 道中、宿で「気仙」「けせん」とは、何に由来しているのか、何人かで話題になり、宿題を放置した気分で帰宅、夜ネットで渉猟した結果、ささやかな「答案」が次のとおりである。

 ウィキペディアで「気仙郡」という記事があったが、そのアイヌ語源説など面白かったのだが、「正しくは、気仙郡という郡名は『続日本紀』の弘仁2年(811年)の条が初出である」と、したり顔にいう記述にガッカリした。「何が正しいんだ!」、と言いたくなる。次いで蛇足ながら、「〇〇年の条」というのもいい加減な言い方で、記述者は、「〇〇年の条」をはたして読んだのか。正しくは「〇〇年〇〇月〇〇日の条」と特定できるのだからそうしなければならない。まあ随筆として書いているなら致し方ないが。

 続日本紀は延暦10年(791年)12月17日でその記述を終えている①ので、811年はありえないわけで、正しくは六国史の次、「日本後紀」の「弘仁元年(810年)冬十月二十七日の条」に<陸奥國言。渡嶋狄二百餘人來着部下氣仙郡。>とあり②、「気仙郡」が発見できるのである。(引用:①東洋文庫548「続日本紀4」p357 ②吉川弘文館「新訂増補國史体系日本後紀」九二頁)

  この軽微?な誤り含め、所引文献の記載がほとんど見られないこの記事全体が信頼置けないと判断した。けだし、ネットの功罪の一つの手本といえる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97%E4%BB%99%E9%83%A1

 その後いろいろ調べて、岩手大学人文社会科学部紀要第74号(2004年6月)に掲載された樋口知志さんの「律令制下の気仙郡-陸前高田市小泉遺跡の周辺-」という論文(約22頁)を見つけた。延喜式にある「計仙麻神社」「計仙麻大嶋神社」の縁起についての言説はじめ面白く視させてもらった。「計仙麻」→「気仙沼」の誘惑にかられるが。さらにさかのぼって「kesema」を調べるにはわたしの手に余る、ということで当面妥協しよう。論文ではもっとも語源には触れられていなかったが。樋口さんは浜国大卒で東北大の助手(おそらく国史研究室?)も3年されているようだ。阿弖流為などの著作、論文多数上梓されている。

論文は次のPDFファイルである。 http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/2760/1/al-no74p021-042.pdf