Notes3~ヨミガタリストダイアリー

名古屋市在住の俳優/朗読者・ニシムラタツヤの演(や)ったり読んだりの覚え書き

改めて、トーソー宣言。

2012年04月27日 | 朗読・声の周辺


■おはようございます。久しぶりの早朝更新。そして本日午後6時30分からは、通算32回目となります私のひとり朗読「三十代の潜水生活」シリーズ、『「青べか物語」を読む』の開催日です。ずいぶん日の入りが長くなってきた岐阜・柳ヶ瀬商店街にあります「いしぐれ珈琲」さんからいつも通りお送りします。Ustream中継もここから行います。お時間がありましたら是非のぞいてみてくださいね。
■よく続くねとか言われたり、まだやってるの?とも言われもするのですが、自分としては息を吸うのと同じくらいの自然なことなので気にもならず、逆にある種の「慣れ」をどうして退けていくかという段階に来ていると思っています。いつも聴きに来て頂ける方に、聴くたびに作品以外の新しい何かを感じてもらおうとは思っています。確かに、続けることは目標だけれど、ただのんべんだらりと続けていても意味はないし、少しずつでも高いところへ近づくこと。私の目標は例えば榊原忠美さんであったり、もっと時代をさかのぼれば徳川夢声翁でもあるので、こんなところで立ち止まるわけにはいかないのです。
■そういえば思い出したこと。続けることと質を求めることについて、東京でいまも活躍を続けるある女優さんと話したことがあります(前も当ブログで紹介したかもしれませんが)。その時私は言いました。東京(首都圏)はいいじゃないか、融通の利くアルバイト先はいくらでもあるだろうし、マスコミ仕事に恵まれる機会も多いだろう。演劇を続けていれば何とかなっていくじゃないか。でも名古屋を含む地方は違うー。
■…この発言をして彼女からドン引きされてから5年半以上が経ちましたが、振り返るとのたまった自分が恥ずかしくてしょうがなく、どうしようもなくいたたまれない気持ちになります。どこで住んでるか、どこでやってるかなんて関係ないじゃん、それによって何を得ることができるかなんて、生存にとっては必要でも、何かを表現することにとってまったく重要ではない。それそのものを燃焼させつくさねばならない。続けることと質を求めることを相対するものとしてとらえること自体が誤りだ。そういうもろもろの思考の上にやっているのが、私にとっての「読む」という行為なのです。ある時期、以下に売るかという制作的思考、上昇志向に絡め取られてかなりダメな状態になっていたのは間違いないな、と冷静に振り返っています。
■気づきは行動に移してこそ実を結ぶ。そういう位置へ動くことができているかを厳しく問い続けます。見てて下さいなんていうと深夜のテンションを引きずっているようで恥ずかしい感じもするのですが、しばらく経つとやっぱりそういうことを考えるのです。ならばそこから、改めて、ここから。スパイラル。本日、お待ちしています!