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[Met 2012-13] Maria Stuarda メトロポリタン・オペラ マリア・ストゥアルダ

2013-01-19 | オペラ



先シーズンのアンナ・ボレーナに引き続き、本日はゲルブ・メトのマクヴィカー演出、ドニゼッティ・チューダー女王3部作の第2弾、マリア・ステュワルダでございます。

歴史上の有名な人物を実名で扱った作品は難しいところがあって、観客としてはまっさらな心で望もうとしてもやはり人物像と作品で描かれる人物とのギャップに苦しむこともあったりします。実際のアン・ブーリンと崇高な魂の持ち主であるアンナ・ボレーナなぞはかなり人物像に乖離があるような感じがするし、「これはアンナ・ボレーナであってアン・ブーリンと思わなければいい」という気持ちが、いいパフォーマンスを通じて持続する時はいいのですが、そうでないときはつい、自分だって敬虔で真面目な前の奥さんを追い出したんだから同じ目にあうのもカルマだったりするんじゃないの、とわたしはなぁんとなく心からは同情しかねたりします。

メアリー・スチュワートは、Mary, Queen of Scottsと名前が出ただけで悲劇のカソリックの女王、おっそろしく鼻息の荒いエリザベスにやられてしまった可哀相な女王、なんてイメージが一般的なんじゃないかと思いますが、この二人のドラマは、アン・ブーリン対ジェーン・シーモアのドメスティックな三角関係のキャット・ファイトのレベル以上に面白い。フランス、スペイン、バチカンも大掛かりに絡む、国際的な政治・セックス・宗教・権力争いの人々の欲望がもうどっろどろ渦巻く世界。
まぁそれはそれで面白いですし、実際メアリもエリザベスも精錬潔癖の人物でもなかったし、メアリなんかは夫を暗殺したんじゃないかと言われていますが、そんなややっこしい細部は映画や舞台や連続ドラマにお任せいたしまして(ダーンリー卿暗殺に関しては最後の罪の告白の場面で少々暗示されますが)・・・

この実際には対面しなかったという二人の女王の葛藤を、架空の恋愛関係を持ち込んですっきり描いたドニゼッティのマリア・ストュワルダ。アンナ・ボレーナと違って細かい史実が合ってないとうるさく言いたい気持ちにならないのは、この作品ではある意味恋愛がシンボル的というか表向きに使われているけれど、観客としては、政治的にも自分のスコットランド王家を維持したいというメアリの気持ちも分かる、宗教面でも普通の教徒と同じように「カソリック教会の神はわたしの唯一の神」なんていうクレドを毎週教会で宣誓しているわけで、王様/女王も神のような存在のイングランドの新興宗教なんて認められない、そんな勢力にとても屈せない、という姿勢も分かる、と、万国共通で共感しやすいものがあるからじゃないのかな。
アリアも小粒感はありますけれど、ドニゼッティらしい、暫く引っかかって耳を離れずに鼻歌なんて歌っちゃうような小粋なメロディの断片も多いし、終幕のパワフルで美しい祈りの合唱以降の美しさなんて、かなり心に染みて素晴らしい、わたしはけっこう好きな作品です。

とはいえ、カラス&ヴィスコンティの黄金コンビでやっと近世人気が出たというアンナ・ボレーナ同様、マリア・ステュワルダもメトでは初演、それもこれもこの作品は一癖ある歴史をたどってやっと戦後に復活したから、のようですね。
まぁ内容が皇室関連、しかもイギリス国教会にカソリックが負けた形になる題材の内容からして各方面からの圧力があったのでしょう、リハーサルの段階で上演禁止になったりして、各地で様々なスター歌手で大ヒット好評上演中!が百年以上続いているなんていうほかの作品と違って、これぞ定番という確固としたものがあるようなないような。楽譜にしてもオリジナル版や派生版いろいろあるらしいし、もともとメゾも歌えるソプラノだかソプラノも歌えるメゾだかのある意味特殊な有効声域を持つ歌手の公演に向けて書かれたそうですが、当時からヒットして色んなスターの上演なんかがいくつかあれば、もう少し歌いやすい・普通の声域の歌手の魅力が出しやすいように、こなれた譜面になっていた可能性もあるんじゃないかな。だけどドニゼッティは上演できない作品なんて、とあきらめたか、部分的に他の作品に転用するなどしたものの、この作品自体を推敲することがなかったらしい。そんな「幻の作品」のオリジナルのスコアが発見されたのはやっと1950年代のこと、まだ解釈の歴史が非常に短いです。

アメリカではサザランドやビヴァリー・シルズ、またわたしの心の妖精ちゃんのカバリエ、などの素晴らしいソプラノ大スターがこの作品の魅力をみせてくれたり(なんとも古きよき・羨ましい時代・・・)、一方イギリスではマッケラスのENOのジャネット・ベイカー(メゾ版)などが、この作品についてのお喋りになるときには名演として上げられることが多いようです。

解釈の歴史が若いのは意欲的なことがやりやすいという長所もあるんじゃないかとわたしは思います。今回のメト版、そういう状況の中、うちがメゾの決定版やります!と画期的なものを出してくれるのか、それとも前回のアンナ・ボレーナ同様、スターは出ていたけれど、なんだか全体的には退屈、になってしまうのか、期待と不安が高まります。


以下、日本でもHD映画上演がある演目ですので、先入観を持ちたくない方はスキップしてください。またつらつら書きのこの記事、見に行くか見に行かないかの判断としては参考にはならない、というところ、どうぞご承知おきくださいませ。

 

Maurizio Benini マウリッツィオ・ベニーニ 指揮

エリザベッタ(エリザベス1世): Elza van den Heever エルザ・ヴァン・デン・ヒーヴァー
マリア・ストゥアルダ(スコットランド女王、メアリ・スチュワート): Joyce DiDonato ジョイス・ディドナート
アンナ(メアリの女官、ジェイン・ケネディ): Maria Zifchak マリア・ジフチャック
ロベルト(レスター伯、ロバート・ダドリー): Francesco Meli Matthew Polenzni マシュー・ポレンザーニ
グリエルモ(バーリー男爵、ウィリアム・セシル): Joshua Hopkins ジョシュア・ホプキンス
ジョルジョ(シュルースベリ伯、ジョージ・タルボット): Matthew Rose マシュー・ローズ

David McVicar デイヴィッド・マクヴィカー演出

 

結論から言うと、やはりどうもゲルブ・メトのチューダー三部作とわたしは相性が合わないようで・・・ 今日は歌手も喉が100%じゃない人もいたり、なんとなくまた、まぁまぁ、な印象になってしまったのは残念です。

この作品は二人の女王のドラマとは言え、かなり主役に重心がかかってますから、主役だけ良くても大成功!となってしまうんじゃないかと思います。陽気なヤンキー娘のディドナート、CDもかなり売れているようだし近年圧倒的に人気急上昇ですし、わたしも彼女は素晴らしい歌手だとは思って楽しみにしていたのですが、残念ながら今回はちょっと黒星をつけちゃったなぁ。この役は彼女の代表レパートリーになるにはかなり難がある、せっかくディドナートを今シーズン唯一聴ける機会なら、もっと違う彼女に合ったおきゃんなものとか「湖上の美人」あたりで出てきて欲しかった、です。ディドナートは肉厚な表現もあるし、かなり素晴らしいなと思ったのですが、決めがどうも上手くいかないのが苦しい。たとえ今回音程を下げてもかなり苦しい気持ちがします。

半音・全音上下させてソプラノの役をメゾが歌う、メゾの役をソプラノが歌う、ということ自体はわたしは全否定するつもりはないです。というのも、これはその歌手個人の音域や音色の特徴に依存した話だから、と思うのです。

この前アイーダの記事のコメント欄でチェレステ・アイーダの最後のBフラットのピアニッシモ・モレンドをどう処理するか、という大変興味深いトピックのお喋りをしていましたが、わたし個人は今では、「こうじゃないと駄目」はないんじゃないか、その人なりの表現方法で「そのこころ」が伝われば、それはそれでいいんじゃないか、と思っています。ヴェルディがどういう思いでモレンドの指示にしたか、ということを意味的にとれば、歌手の個性・能力によって、「だんだんほのかなため息のようになっていく」でも、人間がこんな無理な高音をこんな大音量でこんなにも長く伸ばせるって奇跡がありうるのかと思うような、「もう息が切れそうになるまで精一杯やる」というのでも、「少々苦しい熱い恋心」が観客に伝わってくることもあるんじゃないか、楽譜の文面の指示と違っているからヴェルディの意図に反してる、とは言いきれないんじゃないのかなぁ、とも思うんです。例えばわれわれは既に全く同じクレッシェンド記号でもロシア的解釈で取って、「気持ちの盛り上がり」を逆に速度を落として音量を押さえつつ裏に溜めのエネルギーを持たせるような感じで演奏することがあるのも知っているわけですし、学者の先生なんかにはめちゃくちゃなこと言う、なんて怒られちゃうかもしれませんが、デシベルだけの問題ではないような。(あのお喋り中のドミンゴのヒューストン版の例のように、ここの部分を顕微鏡的に見るだけじゃなくて、その前のppppの部分で表現するもの、そういう文脈的なものもかなり重要なのですが。)

わたしが今回のマリアを苦しく思った一番の点はこの件と共通点があります。観客側もなんか凄いことをやってる、とどきどきしてしまうような、それがデルモナコのような輝かしいフォルテであっても、カバリエの必殺(わたしにとっては)、この世のものとは思えないような幽玄のピアニッシモであってもいいのですが、音量はどうであれうわーっと美しく伸びた高音で最後決める、というのは、あれは非常に大切な、もう万感の必死の思いが伝わってくるのにとっても大切な表現手段なんじゃないか、と思います。やっぱりああいう決めのトーンがちゃんとしてないと随分物足りなく感じます。

ディドナートの場合、ほんと表現力が素晴らしくてうっとりするのですが、フォルテの高音が苦しい、そしてそれにつられたようなムリしてるような風味が聴いていて苦しい。これはわたしにとっては、サッカーで絶妙なパスが続いてボールがゴール前にきて、こりゃあいけるか!と盛り上がったのに、妙な失敗でチャンスを逃したのと同じような大きながっかり感があります。メゾ・フォルテぐらいの音量なら高音もその前後もかなり美しくて心に突き刺さるのですが、どうも力が入ったフォルテになるとムリ感がただよってきます。これはたまたま今回喉の調子が悪かったというのではなさそうで、去年の4月にフロリダでやったときのクリップ(終幕部分)、録音状態は悪いですが、今回と同じ現象があって、ここでも音量を上げたときに中音あたりさえも妙な幅のトレモロが入ってきます(6分過ぎ以降)。これは喉が緊張してこわばってる歌唱なんじゃないのかな。そしてキメの最後の高音も無理やり搾り出したような魅力に欠ける苦しさがあります。彼女ならもうすこし喉をリラックスさせてちゃんと出せるような予感がしていたのですが、残念。これは役との相性が悪いとしか思えません。

メゾはこの役にふさわしくないと言っているのではないです。上記のマッケラス版(細切れであがってます)、ベイカーはディドナートのような物足りなさをちっともわたしは感じません。音程を下げること自体が邪道だ、とかENOの英語版は本来的じゃない、という考えも分かりますし、わたし自身としても、こりゃあベルカントの歌唱とちゃいまんがな、とは思いますが、今回のメトの公演とこちらのどちらかタイムマシーンで連れてってあげるからどちらか切符を選んで、と言われれば、わたしは迷わずオケの運びもかなり気味がいいマッケラスのENO版で堪能したい、と答えるかな。

そもそもなんでソプラノを使わなかったのか、は置いといて、高音がソプラノのようにキンと澄んで華があるようなめずらしいメゾ、コッソットとか、同じヤンキー娘で言うと、グレアムあたりだったら今はどうか分かりませんが、この役もしっかりやれたんじゃないかなぁとも空想します。だけど他に出来る・出来そうなメゾがいるからディドナートが劣っているわけじゃなくて、役と相性が合わないものは合わないでしょうがないんじゃないかな。

 

そしてソプラノ役をメゾが歌うなんて意欲的なことをやってディドナートを盛り上げてあげたかったんだったら、無理やり今回のチューダー3部作に当てはめないで、なんでディドナートの得意技がもっと使える作品にしてあげなかったのかなぁ、です。

ドニゼッティ=ベル・カントなら、ディドナートなんかは得意そうじゃないか、と思って配役した気持ちも分からなくはないですが、わたしの変態的印象ではこの作品はなんとなくディドナートが得意そうなロッシーニ先生よりもずっと初期のヴェルディ作品に近いにおいを感じます。この作品はディドナートの得意技のコロラトゥーラがたっぷり見せ付けられる装飾音符が少ない。あぁ喜劇ものの方がころころ沢山装飾音符がつけやすいということもあるのかな。装飾音符というと下手すると技術的なヴァーチュオーゾ的デモンストレーション、楽器演奏者でいうと古臭いカデンツァのようにただの飾り付け・技の見せつけの場だと勘違いしてるんじゃないの?のようにやってしまう歌手もいますが、わたしの変態的な見解ではそうじゃない。これはかなり豊かに感情が表現できるツールというか武器だと分かって意図的にやっている歌手だとやっぱり聴いてて面白いと思います。ちょっと上手い言い方が思いつきませんが、例えばストレートに「あなた、好き!」という言葉の合間に装飾音符が入ることで極端に言えば「(うわぁ、) あなた、(すごいすてき、)(あー迷う、どうしよー)(うぇーんあたしじゃ無理かな?)(でもやっぱり、)好き!(きゃあ恥ずかしい!)」なんて独自の(心の中のひとりごと)のニュアンスを装飾音符部分を通してたくさん入れられる楽しさがある、これはできる歌手にとってはかなり面白いはず。

わたしにとっては、バルトリとかダムラウなんかはただ技術が素晴らしいだけじゃなくて、装飾音符部分にそういう独自の行間の複雑な気持ちが込められる歌手、というか、あぁこう言ってるんだろうな、というものが伝わってくるので聴く機会が楽しみな歌手ですけど、ディドナートもこれが出来る歌手じゃないのかなぁ。

ソプラノ的華のある歌手の高音の表情豊かなニュアンスの凄さの武器には負けるとしても、せっかく自身の技術的な武器があるのに、その最強の武器を生かしきれてない作品だったんじぁあないんかい? もっと自由に大胆に装飾音なんかを入れ込んでやっちゃって、うわやっぱりメゾ版も凄いじゃないか、ができる作品だったらまた違ったかもしれないのに。
バルトリあたりだとこういうものを表現したい!と自分でどんどん装飾音符をつけられちゃうんじゃないかと思いますが、今どきは「楽譜に忠実」じゃないと非常に怒られちゃいますし、先のチェレステ・アイーダの例に戻ると、トスカニーニ先生のように、ここの部分の「言いたいこと」はこの歌手の弱点を隠して長所を伸ばすには、楽譜にはないけどこういう付属フレーズをつけて表現、それは作曲家本人の意図とより合ってる!なんて大胆にやってくれる(しかも周りも納得しちゃう)天才肌のマエストロもそばにいませんし、これも今回はないものねだりなのでしょう。そういう体制もないし、素人のパッと見でも装飾音符を付けやすそうでもない作品なのに、わざわざディドナートにした正当な理由はここにもないように思います。

ゲルブの企画、はっきりいって発想は面白いし企画自体は悪かぁない。だけど、この人は事前のハイプで切符が売れればあとは知ったこっちゃないのかどうかわかりませんが、中身が伴うexecutionがいつも弱くて実際の鑑賞ではがっかりさせられることが多いのは、中期的顧客の維持には全く繋がらず、ほんと良くないです。

 

とはいってもディドナート、今回随分最初のガラから歌唱表現が向上しているんじゃないかとは思いました。年始にプレスに叩かれた点の中で、エリザベットに悪態をつくのが全然悪態になってなかったという指摘がありました。
このドラマにはいくつかピークがあると思うのですが、最初の山場はこれからとうとうエリザベッタとの対面が実現する場面でしょう。「どうか穏便に」との願いでこの対面の計らいをした周りも緊張感がどんどん高まっていく二人の会合の場面、積もる思いが(観客としては裏に政治的・宗教的な思いも読んでしまうけれど)、やはりどうしても許せないものは許せなくなって、とうとう爆発、マリアは思わず悪態をついてしまう。わたしは正当な誇り高き女王だけど、あんたなんかお妾さんの娘のくせして!とつい口に出てしまう(エリザベスは、腹黒アン・ブーリンの娘、ブーリンはヴァチカンの基準では正式な結婚による妻とは認められないのでつまり妾腹の子、だし、実際彼女と結婚するためにわざわざカソリックをやめて便宜的に無理やりイギリス国教会を創立したヘンリーにしても、シーモアと結婚したくなってブーリンが邪魔になった時には、娘のエリザベスもブーリンが命を張って確約を取り付けなかったらあやうく嫡子でなくなる可能性もありましたから)。
エルナーニの時のアンジェラ・ミードも、あらまぁ悪態の部分なのにこんなに美しく歌っちゃって、とびっくりしましたが、ミードもディドナートもわたしはかなり期待というか観に行くのが楽しみな優秀な歌手だけれど、なんなんだろう、アメリカ的ピューリタンというか潔癖主義なところがあるのかなぁ、人前で悪態を飛ばすのが不思議に不得意なのね、歌唱が汚くなることを恐れているのかな、ほんとわたしにとっては不思議な現象だと思ってました。しかしディドナートはさすがですね、ちゃんとそういう指摘を受け入れて向上してます。彼女は四十代の熟したメゾの喉のパワーもあるので、本日はとてもお見事に周りが冷や汗がでるような見事な啖呵を切ってました。やっぱりこういう不断に向上している音楽家は次の機会も非常に楽しみです(そしてシンデレラ・ガールとしてオペラ関連のメディアの寵児だったミードも、かなり寒かったらしい今シーズンのカーネギーのコンサート形式のオペラ上演以降、急に逆風も吹いて「感情が伝わってこない」なんて叩かれたりしてますけれど、喉も技術も凄いんだからこれで化けれれば最強なはず、ほんと期待してますから頑張って欲しいです。)
それにしてもここの場面、その前のマリアのアリアの内容ともちょっとずれて、あれ、ここはランメルムーアの沼だったっけか?的な暗さがおかしかったです。

 

ヒーヴァー、先日のインタビューでは丸坊主で登場で期待が高まっていましたし、一幕ではいきなりヒステリックに怒りを噴出させる歌唱表現が素晴らしくって、おっ「あたしちゃんと綺麗にこの音を出せるかしら」なんてうじうじすることなく、思い切りのいいことがちゃんとできる人だわねぇ、と、もうわたしは嬉しくてニヤついちゃって期待してしまいました。この人は高音の表現力がかなりいい。ただそれに比べると、まだ若いからか中音以下の面白さ・音量がもう一つの感じもします。
以前デュッセがTV番組で、舞台上の自分の映像を見るのは知らない他人を見ているような気持ちがする、と言っていましたが、わたし一観客としてはやはりそういうものを見せてもらわないと感動につながらないような。「かわいくて憎めない魅力一杯のお茶目なわたし」とか「美しい歌唱ができるわたし」とか「メトで主役を張るディーヴァなわたし」とかの域を超えた、我を捨ててドラマの人物が表現されているような域、そこにアディーナが、ルチアが、ヴォツェックが、アルマヴィーヴァが、現実に目の前の舞台上で、考えて、悩んで、息づいている!としか思えない、そんなものをみせてもらってドラマを堪能したい、です。正確に美しく歌う優秀な音楽家というレベルだけじゃあ、なんとなくもの足りない、舞台上のすべての発言は「一音楽家のわたし」を超えてその役柄の人物が本心から言ってる、と感じさせて(あるいは騙して)くれるようなものをみせてもらわないと。
まぁ言うは易し行うは難しなのでしょう。しかしヒーヴァーは今日の感じからも将来そういうものを出してきてくれる可能性もひしひしと感じましたし、また次回も面白いものを見せてくれるんじゃないかと期待してしまいます。

 

ポレンザーニ、年明けには病欠していたし、前半は、ティートでは残念ながらわたしは喉が100%でなかった日に当たってしまった様子のガランチャと同じく、あれポレンザーニらしくないぞ?という感じで、突き抜けが悪く喉からジーという副音が聴こえているような状態で、今日は調子がいまいちなんだろうな、でしたが、幕間以降は多少復活したのか、こちらの期待値が調整されたのか、マリアのための命乞いのソロ~重唱での嘆願なんかもかなりいい感じでした。レスターはエドガルド(ルチア)のように、観にいった帰りの電車でつい脳内で永遠ループで再生してしまうような決めのアリアもないし、おいしい役とは言えないけれど、やっぱり優秀な歌手に歌ってもらうとありがたかったのでした。
まぁだけどポレンザーニのせいではなく、今回の配役のせいなのですが、こちらの観客としての長年の慣れもあるんでしょうか、女らしく美しいソプラノのエリザベッタとの二重唱はかなりロマンティックに決まったりハーモニーも素敵だったものの、声域もほとんど同じようなマリアとの二重唱はなんだか恋人同士のエネルギーを感じるというより仲良し兄妹の合唱みたいな物足りないつまらない感じもありました。


ローズ、ポレンザーニ

マシュー・ローズはグラインドボーンの映像等で、ほっとするような堅実な歌唱を聴かせてくれるいい歌手だと思っていましたが、生でも素敵、さすがの実力で脇を固めていました。

 

妙薬の時には好印象だったベニーニ・オケ、今回はぱっとしません。ぱっとしないときというのはもう前奏からおや?という感じがするものですが、この出だし、なんとなく個人的には双方の女王の周りの貴族の確執・かけひきとか宮中の緊張感ただよう感じ、あるいは早馬を走らせるような感じで小気味よく思い切りよくタッタカやってほしいんですが、あんまり威勢よくやったら田舎のオケみたいに聴こえちゃうかも、と思ったのでしょうか、テンポは早いけれどタッタカというよりフカッフカッとした感じ。この作品、オケはウンパッパとかトントンの拍子を刻んでるだけの時が多くて、つまらないんでしょうかね。クレッシェンドで盛り上がるところは、ぐっと一体感があって、おっこういうところはいつものメトオケらしいぞ、という感じですけれど、そうでないときはなんだか集中力に欠けたような響きがします。また今日は木管と弦が「隣はなにをする人ぞ」的に各自のパートをやってるような、アンサンブルがよくないばらばら感がどうしても目に付いて気になります。
それにしても今回はベニーニ・オケにとてもわたしは及第点は上げられないなぁと思ったのは、わたしがこの作品でも大好きな部分のはじまり、シンプルな下降・上昇のメロディなのに強力に心に響く最後の合唱、ここでのコーラスとの不整合性のせいです。本来ならソプラノがキーンと高音で合唱やオケも貫いて響かせられるところを、今回はメゾのプリマを思いやったか、合唱団は比較的抑え目なヴォリュームで、クレッシェンドの上りも長い時間かけて微妙な感じで徐々にやっていたんですが、そしてそれはそれで素敵だな、と思ったのですが、クレッシェンド好きの今日のベニーニ・オケ、盛り上げを随分先走ってしまって、クレッシェンドの歩幅というか息が合っていない、しかも押さえ殺したような表情のコーラスと音色もちぐはぐな感じ。オケの煽りがきついと、ほんとは意図的に微妙に音量を上げていく苦心をしている合唱団なのに、オケの明るいフォルテと比べてがくっと、なんとなく心細く聴こえたりするのは、聴いてるこっちもせっかくの合唱団の努力が報われないで悔しいし、個人的にはここの場面で今までの難が帳消しになるほどの感動だってありうるのよね、と淡く期待していたのに、残念です。

 

マクヴィカーはわたしは比較的好きな演出家ですが、このチューダーシリーズでの演出はどうも個人的にはピンと来ず。やはりイギリス人にとっては素材があまりにも身近だからなんとなく無難になってしまうのでしょうか。わたしの印象としては、嘘っぽいのはダサいからちゃんと正統派でやりたい、それとのバランスをとりながら現代と通じる分かりやすさのあるドラマに仕上げたい、という姿勢があるように思います。前回のスーパー正統派な演出は、暗く閉塞感がある石のお城の装置に闇夜のカラスの黒っぽい衣装も含めてなんだかドラマを描くという点では空回りしてたような記憶。アンナ・ボレーナで良かった点のひとつはジョヴァンナの人物像でしたが、今から思うとあれはジョヴァンナを演じた歌手の持ち味で随分微妙な深みがでたのでは。今回は舞台が象徴化されてシンプルで構成も絵的に見やすいのはかなり向上点ではありますが、わたしはさほど面白さを感じず。

今回のエリザベッタの設定は極端に言うとちょっとモンティ・パイソン的なカリカチュアです。たしかケイト・ブランチェットのエリザベスの映画の最後も普通の恋愛とか政治結婚とかもう慣例かまわず今後は「あたしというユニークな女王」でいこう!と変身してたんじゃなかったかと思いますが、ああいうのでおなじみな、異次元的というか、あの時代、女だてらに強国を統治する王はやっぱりちょっと普通じゃない人なんだわ、と思うような衣装とメイクにへんしーん、します(それまでもエリザベスの足の疾患を強調したファニー・ウォークをやってたりしますが。)あの映画は大ヒットしたし観客の多くも既視感を覚え、ああそういうことを言っているのね、とピンとくるというのを分かっていてやっているのでしょう。
だけど今回なんとなくわるもん的な感じもする人物像だと、女王としての立場や一個人あるいは一女性としての揺らぎというか、例えばメアリを目の上のたんこぶとは思っても死刑執行書に署名することへの迷いもあるエリザベットの心の葛藤などをほのめかす助けにはなっていなかったような。
また一方をモンスターにしたらもう片方に自然に心が寄るというような単純な図式は成り立たなくって、マリアの方は、人物像としてはなんだか大草原の小さな家のいたいけなローラがとにかく酷い運命に置かれたような「かわいそ」さが強調されていたような。最初から最後までもう少し誇り高き、しかも女性としての魅力も女王としての華もそこはかとなくでも感じたかったです。しかもせっかくソプラノじゃなくて大人の女の底力をより表現できるメゾがやっているので余計に残念。普段からマリアにはシンパシーを持っているわたしなのに、今回は同情心が沸き起こるような魅力をマリアに感じず。

上記のENOのマッケラス版でも少々タイミングは違いますが、処刑前に黒い服を脱ぐと下は赤い下ばきドレス、とマリアの処刑時の衣装は色彩的にドラマチックなものがありますが、あれは別にマクヴィカーが今回この版を真似したとかいう話じゃなくて、史実に基づいたものらしいですね、わたしは今回始めて知りました。赤はカソリックでも殉教(そして聖者)の意味があるし、女王としての祖国へのパッションも感じるし、非常にシンボリックですよね。これもイギリスではそうじゃないと妙な感じがするくらい定番なのでしょう。カソリック的観点だとやはりここは天草四郎とか長崎の丘の殉教者たちとかと通じるところがあるように見てしまうんですけれど、じんせぃーいぃ五十年・・・の信長の美学、あれはフィクションなんだろうけれど、ああいうあっぱれさに通じるようなところも少々あって、メアリが女王として優れた人だったのだなぁと思うのは、自分の処刑がただ一個人の無念の死、で終わるのではなく、残される人々や後世に意義深いものであるようにという思いもあったのでしょうか、ここは最後の一勝負、と気合を入れてた様子。真っ赤な下ばきを意図的に着たのもそうですが、幽閉中のストレスで白髪になったところに、彼女は鮮やかなとび色の鬘をつけて処刑に臨んだらしい。これに関しては通例どおり切れた首を処刑人が見物人に掲げる際にぽろっととれちゃって、あれ、鬘だったの?と逆に驚かれたそうですけれど。メアリ自身はそういう「あっぱれな女王の殉教」をある意味意図的に演出したのでしょう。
マクヴィカーは逆に処刑前に鬘を取らせて、白髪で目隠しつきでよろよろと死刑台に登らせて「いたいけ」感を強調してます。派手な立派な演出の処刑では現代人の麻痺した感覚だと月並みという印象でひっかかりもなく何も伝わらないだろう、という意図だったんでしょうかね。さすがに最後はじんときますが、それまで描かれた人物像としても地味だし、最後のお願いも女王としての誇りと慈愛を感じるよりもなんだか泣き出しそうなかわいそうな女の子という感じだったし、HDでアップで見るとまた違うかもしれませんが、ライブで見ているとそれまでにかぶっている鬘もローラの三つ編みみたいに地味なので、鬘をとってもあんまりはっとするような壮絶な感じもなく、やっぱり今回の演出も面白かったからまた見たい、という感じではわたしはなかったです。次回のロベルト・デヴェルーは二度あることは三度あるじゃなくて、三度目の正直になってくれるんでしょうか、そう願いたいもんです。

 

 

さて最近本文との関連性が薄いおまけクリップ、本日はメゾが歌うベルカントもの、というだけの関連で、チェチーリア・バルトリの夢遊病の女から。バルトリは夏にザルツブルクでなんとノルマをやるんですねぇ。彼女なぞはもう100年に一度出てくるか出てこないかの逸材だと思いますが、かつて夢遊病の女も全幕録音していたのですね。このクリップを見ると、少々ハスキーでドスが効いてて凄いなと思う部分もありますけれど、わたしなんかはメゾがソプラノ役をやっていいもんかどうかという点はあまり気に懸かりません(あまり意識して見すぎると内田光子さん並にお目々が怖いことになってますが、内田さんと同じく音楽家は見かけだけが勝負なわけじゃないですのでご勘弁を。)好みの問題なんでしょうが、アンジェリーナ・ジョリー並の美人、だけど歌唱が・・・なんていうソプラノがやるのを見るのはわたし自身は遠慮つかまつる、と思うけれど、そしてもうアメリカには来てくれなさそうですけど、バルトリを再びメトで聴けるならわたしはすっ飛んで観に行きたいです。

 

 

★★★☆☆



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9 コメント

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行く予定~ (みやび)
2013-01-26 22:08:15
そういえば、Kinoxさんは今のところマクヴィカーのチューダー三部作(まだ二作ですが)とは相性が悪いようですねぇ。この演目はHDに行きたいなぁと思っているので、心して観てきましょう(笑)とはいえ、HDで観るのと生の舞台で観るのとは違うでしょうから、感想が同じであっても違っていても、だから何、って感じですが。そうそう、悪態のところもよく聴いてきます♪そういえば、流暢な悪態って歌舞伎でもあるような…この場合は、そういう様式ということだと思いますが。

>今どきは「楽譜に忠実」じゃないと

歌手が自由にカデンツァをつけていた時代の作品だと、”カデンツァをつける”ところも再現されているようですが、それってどのくらいの時代までなんでしょう。おととしのボローニャ歌劇場来日公演「清教徒」では、デジレ・ランカトーレの”ランカトーレ・カデンツァ”が話題になりました。

>バルトリは夏にザルツブルクでなんとノルマをやるんですねぇ

チューリッヒだったかどこだったかで歌ったのを知人が聴きに行ったそうです。あくまでも”バルトリの「ノルマ」”なので、受け入れられる人と受け入れられない人がいるだろうと言っていました。「ノルマ」としては異端なのでしょう。そこを良しとするならば、素晴らしかった、と言っていました。一度限りなのかと思っていましたが、ザルツブルクで再演(といっていいのでしょうか?)ということであればそれなりの勝算があるのでしょう。
そういえば、バルトリがMETで歌っていた時代があったのでしたねぇ。アメリカに限らず(サイズの)大きな劇場で歌うことはもうないでしょうし、出演する歌劇場はかなり限定されているので私が彼女のオペラを観る機会はなさそうです。サントリー・ホールのコンサートは何年前だったか…また来てくれる機会があれば是非聴きたいです。あ、でも、地震も嫌いだったかな?
返信する
私もHDビューイング見に行きま~す! (Kew Gardens)
2013-01-27 00:07:35
みやびさん、Kinoxさん、

私も観に行きます! 諸般の事情で、3連休初日に行くっきゃないでございますが。 

私は、HDライブの音源をBBC 3で聞いただけですが、Elizabeth vs Maryがも~スリリングで、これを逃したら何なの!とまで思いました。 でも、生でお聞きになるとちょっと違った感じになってしまうのですね・・・・。心してみてまいります。 

>バルトリがMETで歌っていた時代
何を隠そう、彼女のMETデビューのコジをわざわざ見に行った私です。 コミカルでかわいかった。。。 でも、みやびさんがおっしゃるように大きな箱向きではなかった。 それに、あの超一流のコロラトゥールを堪能できるのは、もっとこじんまりした会場ですね。 

>地震も嫌いだったかな?
え、そうなんですか? イタリアも結構地震国。あ、だからスイスに移住したのかしら。 飛行機が嫌いだから、アメリカに行くのも船というのを昔読んだような気がします。 日本、遠すぎですかね。
返信する
時代劇 (名古屋のおやじ)
2013-01-27 00:40:44
昔、藤原歌劇団が『マリア・ストゥアルダ』を上演した時、マリア役の林康子さんのドレスの裾のさばき方に妙に感心した記憶があるんですよね。そんな意味で、このオペラは懐かしい。

ディドナートとアンナというかドニゼッティ、私も相性が良いようには思えない。ドニゼッティで彼女が最もうまく歌えるのは、『ルクレツィア・ボルジア』のなかの小姓(だったかな)の技巧的なアリアじゃないかな。ディドナートのCDを聴くと、いつもそのテクニックの冴えなどに感嘆するけれども、なんだか歌そのものは、なぜか記憶に残らないし、飽きてしまうことがよくある。

そういえば、ウチの職場にもバルトリのメトデビューを観たという人物がいるなあ。
返信する
十人十色 (Kinox)
2013-01-28 07:03:39
> 相性が悪い
> 感想が同じであっても違っていても、だから何
> 受け入れられる人と受け入れられない人がいるだろう
みやびさま、わたしもほんとそう思います、という感じで上にお言葉をピック・アップしてしまったんですけれど、ほんと同じ演目を見ても別日だったら演者の方の調子も違ったりということがあるでしょうし、新演出などでは日にちを追うごとに解釈が深まるなんてこともあるでしょうし、席によっては音響も視覚的情報も違うでしょうし、映画館だったり、おうちでウェブキャストやTVやDVDであったりとなるとまた全く印象も違うと思いますし、もともと見る側の趣味やバックグラウンドも違うのですから、感想が違うのが確かにあたり前なんですよね。
そういう意味で、わたしは、あぁなるほどそういう視点もあるのか、という感じで自分が感じ取れなかった良さをお聞きするのが結構好きです。こちらでもMadokakipさまのところでもそういう意味でみなさまの感想を読ませていただく時にそれが楽しいです。

> ”ランカトーレ・カデンツァ”
> それってどのくらいの時代までなんでしょう
へぇ面白いですねぇ。独自なことをやってくれるとそれも「どんなのやってくれるんだろう」と楽しみになりますね。
カデンツァ、どうなんでしょうね、器楽のほうでは演奏の機会が多いベートーヴェン以降は大抵「本人作曲版」があったり、有名なソロイスト版があったり、モーツァルトに遡っても数種の定着版があったり、ラフマニノフなんかは俗に大・小と呼ばれる複数版あったりしますが、そういう既成のものから選んでやるのが今では通例となってるんじゃないか、独自度は少ないんじゃないか、と思います。そして通常の部分でもかなり自由な解釈で演奏する音楽家もいますし、そういうのを堪能する微妙な加減のモードで聴いていると、カデンツァはどれを使うのかなぁはあっても、おっカデンツァ部分だから聴かせ所だ、という感覚は、普段でもアリアが来る前にわくわく感があるオペラの場合と比べると、例えばルチアの狂気シーンなどのカデンツァに比べると、淡いような気もしますけれど、それはあたしだけなのかな。

ノルマは難しさに加えて、これも近世の伝説のディーヴァたちの素晴らしいものが録音で残っていることで余計あんな凄いことできないと躊躇してしまうところもあったりするのでしょうか(こちらのカラス・ファンなんて「しかし彼女はカラスじゃない」が結論の口癖だったり、ちょっとカラスの非を指摘されたりなんかすると、ほんとおっそろしい牙を向いてきたりしますから、ふふ)、近年は勇敢にも挑戦してくれる歌手が少ないような気がしてるので、やってくれるというだけでわたしは興味が出てしまいます。バルトリだったら、そこらへんのてらいなくほんと彼女らしい独自なものをやってくれるのでしょう、今度のはウェブでも視聴できそうな気がしているので、みやびさまのお知り合いのお話をお聞きして、さらに楽しみになってきました。
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[共通の話題] バルトリがMETで歌っていた時代 (Kinox)
2013-01-28 07:15:01
ほんとにねぇ、そんな時代もあったのでした、という感じで、そして実際これは今世紀に入る前のことだし、随分昔のことなのですよね、みやびさまはほんと表現が粋です。

おぉ、Kew Gardensさまも名古屋のおやじさまの会社の方もコジを見られていたのですか。わたしはコジは逃したのですが、チェネレントラを堪能いたしました。もう全身全霊を耳にして聞いてたかも。素敵だったし面白かったし、めちゃくちゃかわいかったぁ!です。終わったあとでも長い間笑顔になってしまう公演でございました。あの頃は仕事も遊びも忙しく飛び回ってましたし、バルトリが来てくれなくなるかもなんて思ってもいなくって、まだまだ機会があると信じてましたから、なぜだかMetでは個人的に見逃しがちだったモーツァルトを生で聴く機会を逸してしまったのはほんと残念でした。

調べたらバルトリは4シーズンしか出ていないのですね。
1995-6: Così Fan Tutte トーマス・アレンおじ様がアルフォンゾなのも時代を感じます
1996-7: Così Fan Tutte このシーズンはなんと一日だけの出演、ドラベッラがスーザン・グレアム
1997-8: La Cenerentola 共演はヴァルガス、これでメトデビューだったアレッサンドロ・コルベッリ、シモーネ・アライモ他
1998-9: Le Nozze di Figaro 最後のシーズン、ターフェルのフィガロ、フレミングの伯爵夫人、ダニエル・デニースがバルバリーナでデビュー
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女傑対決 (Kinox)
2013-01-28 07:23:25
> Elizabeth vs Maryがも~スリリングで、これを逃したら何なの!
いえいえ、全体の感想はああいう感じでしたが、対決の場面は仰るとおり、いい緊迫感と勢いがありました。上から目線とは何さまのつもりよ!と切った悪態のディドナートの勢い、「周りが冷や汗がでるような見事な啖呵」と言ったのは、同時に観客としても手に汗握るパフォーマンスでしたから。ほんと部分部分ではいい点も多くあったです。

そしてわたしもバルトリが地震も嫌いなのをみやびさまに教えていただくまで知りませんでした。どうも揺れるものがお嫌いなのかしらね。船も基本揺れますから、だから車や電車で行ける範囲のところでご活躍なのでしょうか。エレベーターも不得意だったりなんかして、ふふ。
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女王の誇りと慈愛 (Kinox)
2013-01-28 07:38:48
名古屋のおやじさま、

> 藤原歌劇団が『マリア・ストゥアルダ』を上演した時、マリア役の林康子さんのドレスの裾のさばき方に妙に感心
あぁ、それは素敵だったでしょうね。林さんは子供の頃TVでちょこっとアリアを聴いた記憶しかありませんが、迫力のあるプリマドンナという印象があります。彼女のストゥアルダだったら、今回わたしが感じられなくて残念だった「女王らしい」気品や魅力のオーラが匂いたつようだったかもしれない、とも想像します。
女王の気品ってそういう裾さばきとか微妙なところで出てくるのでは。なんだか不思議な神秘性を普段から持ってるジェシー・ノーマンとかカバリエなんかは船のようにしずしずと出てきただけで神々しい女神のようですけれど、女王らしさを演技するというのはこうやればこうなるというような簡単なことではないんでしょう。例えば先日のアイーダでボロディナにわたしが感じた女王らしさもほとんどミニマムなことしかしない、動くときはびしっとシンプル、と言ったらいいのか、ぶれや心のうちなどを容易に他人に見せないところにあったかもしれませんけれど、わたしにはこれ、というものはよく分かりません。黒とかげの美輪明宏なんかにそこらへんどうやったらいいか語ってもらうと詳しく延々教えてくれそうな気がしますけれど。

ディドナートはアップで見るとまた違うかもしれませんし、今回の地味めの演出のせいもあったのでしょうが、誇り高いと同時に国民に対する慈愛に溢れる女王というより、舞台上の存在としてはどちらかというとわたしには敬虔で我慢強いけれどなんだか泣き虫な町娘のような印象がありました。

わたしはディドナートはメトでたまたまとか、CDもスペインのラジオでながら聴きでふーんとしか聴いていないのですが、名古屋のおやじさまはちゃんとお聴きになっておられるのですね。そうですか、CDでは歌の面白みも残念なところがあるのですか。

Diva DivoなんていうCDを出してるくらいですので今さら小姓はない、ということなら、メトでは得意なロッシーニに専念していただく、というのでも観客としては今後彼女の持つ魅力を十二分以上に楽しめるような気もします。
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HDは良かったです (みやび)
2013-02-19 12:59:36
実は、(Madokakipさんのところでも書いたのですが)私は最初ディドナートはエリザベッタだと思っていたのです。手持ちの(まだ封も切っていない)DVDはエリザベッタ役のガナッシが圧倒的に目立つ写真になっていましたので(このDVD収録の時点でマリア役のレミージョよりガナッシの方がキャリアが上ではあると思いますが、やはり主役が目立つのが普通でしょう)、今回もそんな感じでエリザベッタが目立つのだろう、と。開けてびっくりディドナートがマリアだったわけです。歌唱の点でこの役が彼女にぴったりとは言い難いのかもしれませんが、他に比べるもののない身としては、単純にこの公演を観て良かったかどうか、と問われれば良かったです。これはもう、本来こう歌われるべき、とか全くわかっていませんし、もちろん楽譜も観ていませんし、移調の件も言われなければわからないわけですから、単なる素人の感想ですが。

セットが赤かったり、道化が派手なタイツだったりしますが、主要登場人物の衣装はおおむねモノトーン。赤い衣装が出てくるのは、Kinoxさんが載せていらっしゃる1枚目の写真のエリザベッタと最後のマリアの2箇所で、赤い服というのは彼女達にとっての勝負服なのかもしれません。
この演出では後半は少し年月が進んでいて、マリアが処刑された史実上の年齢に近づけてあるそうです。2枚目の写真、鬘をかぶっていないエリザベッタの短髪も白髪で、これも最終幕のマリアと対応しているのでしょう。ここのエリザベッタは白髪に鬘をかぶり、頬を紅く染め、若づくりはするけれどそれは女王として力があることを示すためで、誰かに綺麗といってもらうためではなく…みたいな、悲哀が漂っていた気がして、なんだかとってもエリザベッタに肩入れしてしまいました。

エリザベッタが個性的な分、キャラクターがマリアの方が地味に見えてしまいますし、声の点でもヒーヴァーはかなりインパクトが強かったように思うので…実際に劇場で聴いてこの印象が逆転するならともかく…マリアの個性を出す方が難しいかもしれないなと思いました。とはいえ、HDのドアップ画面につられるところもあるでしょうがディドナートの演技力は大したもので、女王同士の対決でもひけはとっていませんでしたし、最後は泣かせてくれました。この二人の女王は裏表でイマドキのTVドラマ風にいうとダブル主演みたいなものなんじゃないでしょうか。「言われてビックリ」な演出に良く対応したヒーヴァーの功績は大きいと思います。この二人の関係をもう一度じっくり観直してみたいです。(実際のところ一度しか観てないわけですけど。)

ということで私はKinoxさんよりはマクヴィガー@チューダー三部作との相性が良さそうなのですが、これにはこの演目をたくさん観聴きしているかとか、思い入れの強さとか、そういったものも影響しているでしょう。で、私的思い入れ&自分独自基準満載の「マノン・レスコー」は…1幕しか観ていないので(これは観たくなくなったとかではなく時間の関係です)。
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HDの方が見ごたえあるかも、だけどかつらは逆じゃあ・・・ (Kinox)
2013-02-19 13:43:05
おぉ、みやびさまご覧になりましたか。Madokakipさまのほうは、わたしは再び「自分が見終わるまでお邪魔しない」周期に入っているので、わたしの方にもコメント頂いて、ご感想を伺えて嬉しいです。
週末にこちらの最後13分のクリップをたまたま見て、なるほどそういうことか、とちょうど思っていたところでございます。http://youtu.be/MZHBDfkWznY

> 赤い服というのは彼女達にとっての勝負服
> エリザベッタは白髪に鬘をかぶり、頬を紅く染め、若づくりはするけれどそれは女王として力があることを示すためで、誰かに綺麗といってもらうためではなく…みたいな、悲哀が漂っていた
おぉ、勝負服というのはまさにずばり!という感じですよ。そしてそうそう、エリザベッタは実に女王らしくて、わたしも歌唱表現のおもしろさと共に良かったと思うし、共感しやすかったです。

上に貼ったディドナートの最後の場面、アップで見てやっと分かりました。やつれたメイクと手の振えなどで、よいよい状態を表していたのですね。実際わたしは、ただ地味なメイクをして死ぬのが怖くて今にも泣き出しそうでガタガタびくついてる少女のように見えて、もうほんと女王っぽくないなぁ、という印象でした。わたしはサイド席だったので、半分以上の観客よりもよく見えてるはずなんですけど、この日はHD用に画面うつりがよいように、うすめのやつれたメイクだったりしたんでしょうか、そこらへんは分かりかねますけれど、ここはHDで見たほうが仰るとおり醍醐味あったでしょう。

しかし記事の方で言っていた、史実としてはかつらは処刑のためにつけた、けど今回は逆に処刑の前に外している、という点、このクリップを見て、これは史実どおりだったほうが、少なくとも舞台を見ているお客さんは分かりやすかったんじゃないか、と思いましたよ。そんなメイクや手の震えなんて、殆どの人がオペラグラスでよっぽど目を凝らして見ないと分からない微妙な感じよりも、ショートの白髪なんかで登場!のほうが時間が経ったのだなぁ、随分やつれたなぁ、というのがぱっと分かりやすいですもの。そしてあんなよろよろ白髪で階段を上らせないで、鮮やかなかつらでびっちり決めて、エリザベッタと劣らない意思を持った女王として誇り高く処刑に臨む、という史実通りの筋書きをなぜマクヴィカーは取らずに、逆にいたいけなかわいそうな人という感じにしてしまったんだろう、と不思議でもあります。それはきっぱり腹を切る文化に慣れてるとか歴史ドラマの見すぎなのかな、ふふ、死ぬ前にあんながたがた震えるのは武家の女であっても非常にかっこ悪いこと、という先入観がわたしにはあるせいかもしれません。

> 私的思い入れ&自分独自基準満載の「マノン・レスコー」
うふふ、わたし自分で見るのも楽しみですけどみやびさまのご感想をお聞きするのも楽しみ!です :-)
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