あしあとーⅡ

日々のあれこれ、綴ったものが自分の足跡に

「地獄でなぜ悪い」ベネチア映画祭で・・・。

2013年08月30日 | 長谷川博己

7分間のスタオベだって・・・

今朝早くのエンタメニュースでちらりと流れたのを見たけど、 ↓ ベネチアへ行ってんだ (^v^)

http://www.asahi.com/culture/update/0830/TKY201308290666.html

レッドカーペットを歩く出演者・・・

なんか賞を取れるといいね


『八重の桜』 の尚之助様 (^v^)

2013年08月19日 | 長谷川博己

今日の暑さは凄かった~ ~  

外へ出ると日差しが皮膚へ突き刺さる感じ

さすがに家に居てもクーラーを入れないと耐えられない暑さだった。

テレビのニュースも毎日毎日 今日も暑いっ! どこどこは最高気温が41度!とか言う話題が多い

皆様も熱中症にはくれぐれもお気をつけて・・・。

 

で、外へは出られないのでクーラーを効かして、家で何をしているか・・・?(笑)

 

尚之助様の出番が昨日で終わったらしいので、『八重の桜』の編集を始めています。

なんと言っても1年分約50話分ですからね!

まず全ての物語をダビングします。   30話までしました。

それとは別に1話毎に尚之助様の出ている部分だけを切り抜いたものを作ります

『八重の桜』の題字とサブタイトルを入れて、後は全て尚之助様のシーンのみ

でも配役の3番目に名前は出てくるのに、なんとたった1シーンのみ!という回もありました。

大河と連ドラと掛け持ちで忙しかったからかなぁ~?

 

今日は「プロポーズ」の回まで出来ました

そして尚之助様の出番も二本松の旅以降グーンと少なくなっていくよね。

 

 

編集しながら見ているといろんな発見があります。

覚馬さんと二人で温泉に入るシーンがありましたが、西島さんのマッチョな身体は

以前槍のシーンで見て 「なによこれっ」とびっくりしましたが・・・(笑)、

長谷川さんも見かけのほっそりした身体つきではなく意外に筋肉質で、

肩なんかしっかりと鍛えたような筋肉の付き方だったのには驚いた

やっぱり筋トレとかして鍛えているのかなぁ~

 

しかし編集してみると・・・、いや今まで見てきて思ってはいたのだが、

これは八重の物語ではなく、前半は幕末の松平容保のお話だなと・・・。

お話のメインは薩長だの、新撰組だの、慶喜だの、今まで散々大河で見てきたお話の

蒸し返しが延々と続く。

視聴率が悪いという話だけれど、さもありなん

なんでも脚本家の山本むつみさんが容保さんがお好きなんだと・・・

 

しかしあくまでもメインは八重さんなんだから、八重さんをしっかり書かなくっちゃね~。

編集してみて驚いた

毎回八重さんの部分が3割も無いときがあるんだよ

これでは『八重の桜』の題名が泣いちゃうよね。

 

昨夜の「尚之助との再会」 八重さんボロ泣き・・・。

撮影が済んだ後もずっと泣きつづけて居たんだとか・・・。

この後尚之助さまは病で亡くなるらしい。 咳をしていたものね・・・。

 

【昨日の日付でblogに「川崎尚之助の裁判」をupしましたので合わせてご覧になってください】

 

でもそれはそれ・・・、尚之助さん最初から最後まで好い人でしたねぇ~

なんか次の夫、新島襄さんの出番が少なくなったらしいと聞いたけど、本来なら襄さんの方がメインじゃないかと思っていたんだけど、尚之助さんが人気が良かったかな (笑) 

編集のし甲斐があります

 

 

暑い日はこれに限ります

明日も楽しくやります


川崎尚之助の裁判

2013年08月18日 | 長谷川博己

 

 
 
  「八重」最初の夫・川崎尚之助 実印入り判決原本発見

斗南藩に移る際、尚之助が独身であったことなどが記されている 川崎尚之助の実印が押された民事判決原本。「河崎」とあるのは、筆者の誤記とみられる

NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公、山本八重の最初の夫で、出石藩出身とされる川崎尚之助(しょうのすけ)に関わる古文書が、国立公文書館つくば分館(茨城県つくば市)で新たに見つかった。東京控訴院(現東京高等裁判所)の民事判決原本で、尚之助の実印が確認でき、戊辰戦争後、米をめぐる詐欺事件に巻き込まれたことや尚之助が「独身で斗南(となみ)藩(現在の青森県)に来た」と証言したというくだりもある。(長嶺麻子)


 尚之助は1836(天保7)年、出石藩士のもとに生まれ、江戸に出て外国語などを学ぶ中で、八重の兄覚馬と知り合ったとされる。

 その後、覚馬を慕って会津藩に移って八重と結婚し、会津藩士として砲術を指導。出身地とされる豊岡市には史料がほとんどなく、ほぼ無名の人物だったが、ドラマ放映を機に謎の多い生涯に関心が高まっている。

 今回見つかった史料は、「川崎尚之助と八重」などの著作がある歴史研究家のあさくらゆうさん(44)=東京都=が明治初期の裁判に関する史料を調査していたところ、7月上旬、1874(明治7)年の判決原本の中から発見した。原本は東京高等裁判所から東京大学を経て、2010年に同館に移されたという。

 史料によると、元会津藩士の尚之助は、会津藩など旧幕府軍と薩摩・長州藩など新政府軍が戦った戊辰戦争後の1870(明治3)年10月、他の藩士らとともに斗南藩へ移された。

 給料は1日3合の米で、困窮していたという。その後、米取引で振り出した手形をめぐって外国人商人から訴えられ、「貧窮した独身で、どうにも賠償できない」などと陳述している。尚之助が1875(明治8)年に病死したことで裁判は中止となった。

 尚之助と八重が別れた正確な時期は不明だったが、今回の史料で斗南藩に移る際に、尚之助が離別を了承していたことが明確になった。あさくらさんは「不審な男と協力した間違いはあったが、外国人から手形を取り戻したり、家族や斗南藩に被害が及ばぬよう配慮したりと、聡明な人物だったことがうかがえる」と話している。